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ヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』では、「女性と小説(フィクション)」について、女学生の前での講演を頼まれた語り手が、講演内容を考えた2日間で、どのような体験や思考をへて「女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない」という考えに至ったのかについて語られており、これまで女性はどんな存在と考えられ、どんな状況でどのように書いてきたかについて歴史を遡って語り手が思いを馳せる中で、17世紀に登場した初の女性職業作家としてアフラ・ベインが取り上げられていました。
これ(ベーンが執筆で収入を得たこと)をもって精神の自由、いえそこまでは言えないとしても、好きなようにものを書くことのできる精神が、やがてしかるべき時期が来れば到来するかもしれない、という可能性が出現したのです。
アフラ・ベーンは、たぶん本人の感じの良さなどの性質は犠牲にしたとしても、書くことでともかくも稼ぐことができると証明しました。それから次第に、執筆はたんなる愚行のしるし、気が触れている徴候などではなく、実質的重要性を持つようになりました。
すべての女性はアフラ・ベーンの墓に花を撒くべきです。その墓がウェストミンスター寺院に祀られているのは、スキャンダラスなことではあれ、当然といえば当然です。彼女が奮闘してくれたからこそ、女性は心のうちを語る権利を獲得できたのですから。彼女はいかがわしいところのある恋多き女性でしたが、彼女のおかげで、わたしがみなさんにこう申し上げても、それほど途方もない発言でもないのです―――1年に5百ポンド、みなさの才覚で稼ぎ出してください、と。
V・ウルフ『自分ひとりの部屋』(平凡社ライブラリー)
ここでは作品ではなく、アフラ・ベインの生き方、存在が高く評価されていましたが、その作品がどのようなものだったのかが気になりましたので、この書を手にしてみました。
その美貌によって男たちの運命を狂わせる女性の話「美しい浮気女」と、美しく秀でた黒人の王子が白人に騙されて南米で奴隷となる「オルノーコ」の2編が収められています。
「オルノーコ」は、愛する女性を王である祖父に奪われ苦悩する前半から一転する後半では、親しくしていた白人に騙されて南米に奴隷として連れてゆかれるも、愛する人との再会があったり、反乱を起こしたりと、かなり起伏に富んだ悲劇的なストーリーです。著者自身が南米のスリナムで、実際にオルノーコと親しくなって、見聞きしたこととして語っているという体なのが面白いです。当時のスリナムの様子やオルノーコとともに行った冒険などが詳しく記されていて、とても興味深いものの、それらの記述はジョージ・ウォレンの著書を参考にしたものであるらしく、ベインが実際にスリナムに滞在したことがあるかどうかは不明なよう。勇敢で正直で高潔、非常に理想的な人物としてオルノーコ王子が描かれるのに対し、多くの白人が卑怯な嘘つきとして、彼らが誓いを立てる神もあわせて否定的に描かれているのも面白いです。
「美しい浮気女」、愛する人を兄に奪われた挙句、命まで狙われた末に修道士となった悲劇の王子ではなく、その美しい修道士を誘惑するのに失敗した悪女のほうが主人公なのが面白いです。つれない修道士を陥れて気を晴らした後、悪女ミランダは、名声の聞こえ高い大公タークィンの心をつかんで妻の座を手に入れますが、贅沢な暮らしのために妹の財産に手をつけてしまったことから、自分に心奪われている家臣や夫に妹の命を奪わせようとします。浮気女の艶っぽい話かと思いきや、後半は殺人未遂と処刑が続くのです。斬首されることになった夫のタークィンの生々しい処刑シーンは圧巻。タークィンの立派な人柄が充分伝わり、大いに同情させられるのですが、物語はそんな読者の期待に応えるかのように、驚きの展開をみせます。ミランダの悪女っぷりはかなり酷かったにもかかわらず、まさかのハッピーエンドに思わず納得させられてしまったのは、どんなことがあろうとも揺らぐことなく献身的な愛を捧げ続けたタークィンがいたからこそなのでした。
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これは大変面白かったです。
現代ロシアにおける、呪術の“リアリティ”についての書。
ロシアの呪術に関心を持って、わずかなりとも古い呪術の記憶が人々の中に残されていればと、北ロシアのカレリア共和国にフィールドワークにやってきた著者は、いきなり驚きます。調査協力者である現地の民俗学者の男性自身が、呪術を完全に信じていたからです。研究者としては、もっと客観的であるべきではないかと問えば、「なぜお前が呪術を信じないのか、まったく理解できない」と返されてしまいます。元は熱心な共産党員で無神論者だった男性が、なぜこんなことになっているのか、いきなり興味深い観察対象に出くわしたのです。わずかに過去の形跡が残っているどころか、どうやら呪術はバリバリ現役、全ての人ではないものの、一部の人々には呪術の「リアリティ」が今も信じられていたのです。
この民俗学者イリイチの紹介で、著者は、タイトルになっている現在呪われ中(と本人は固く信じている)のナターシャの他、さまざまな呪術者から直接話を聞いてゆきます。そしてそこから、それまで信じていなかった人が、「体験」を繰り返すことで呪術の「リアリティ」を確信するようになる様や、呪術知識がどのように伝えられてきたのかといったことを明らかにするとともに、社会主義時代以前の伝統的な呪術研究に偏りがちなロシアの研究者からは見落とされている、ポスト社会主義時代の呪術の状況、ソ連時代には非科学的な迷信として否定された呪術のオカルト化、新たに超能力として“科学的”に語りなおされている様や、新たな呪術コミュニティや実践の生成にマスメディアや民俗学者の研究成果の果たしている役割なども明らかにされています。
ロシアの呪術の興味深いところは、キリスト教との関係。もちろんキリスト教からは否定されていますが、呪術師にとってよき呪術は神の力を借りて、悪しき呪術は悪魔や魔物の力を借りて行うものなのです。異教的なさまざまな精霊の力もかりますが、呪術の儀礼の中では両者が混在しています。キリスト教側がどんなに呪術を否定しようとも、それは“その力や能力はサタン由来のものだから絶縁すべし”という風に、呪術の「リアリティ」を認めた上での否定であるため、かえって積極的に呪術の「リアリティ」を支持している奇妙な状態にあることなどとても面白いです。
また、こういうところも。無神論が公的なイデオロギーであったソ連時代、教育や農畜産業や医療の近代化によって呪術は「迷信」として除去されてきましたが、そのことがあったからこそ、ソ連の崩壊によってそれまで政策や考え方が否定され、失われたものを取り戻そうとする動きの中で、呪術が見直されることになり、「シャーマニズムや呪術などの『リアリティ』を信じる立場こそが、イデオロギー的抑圧から解放されている立場であり、より客観的でまともである」なんていう考えを持つ人々が、研究者の中に存在するそう。ソ連時代を生きた研究者にとっては、信じる信じないを抜きにした客観的態度は、むしろ偏った態度、無神論的で社会主義イデオロギー的偏向と感じられたりするんだとか。
このソ連時代に呪術が排除されてきたという歴史は、そのために失われた知識がどこかに密かに伝えられているのではないかという想像を産み、勝手に作られた新しい呪文であっても、失われていたものが発見された「伝統的」な呪文として受け入れられてしまったりと、新たな伝統を生む要因になってもいるようです。
学術的なものであれ実用的なものであれ、出版物やテレビ、インターネットなどマスメディを介して、これまでは個々のものだった呪術師のもつ情報が循環し、同質化していることによっても「リアリティ」が構築されているというのも面白いです。呪術師に言われたことを調べようとすればするほど、その「正当性を保証する者が増え、呪術の『リアリティ』への確信が深められていくことになる」のです。
この書、そういった「リアリティ」に関する考察だけでなく、もちろん呪術の実践、呪いの方法や呪文などにも触れられており、呪術の具体的な内容に興味がある方にとっても興味深いものだと思います。歯と呪文の効力に関係があると考えられているのは、なぜなんだろう??
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積んでしまっている本を少しでも減らしたいと、日々思ってはいるのですが、日々新たな興味がむくむくと湧いてくるため、次々と新たに購入する羽目になり、一向に減る気配がありません。それ故、今が読み時か!という瞬間が訪れた場合は、ためらうことなく飛びつくべし。と言うわけで、絶対読むなら今!な、今村夏子さんの書に手をつけました。
太宰賞、三島賞受賞作、良い!良い!という評判はこれでもかというほど目にしていたためかなり期待していましたが、そんな予想の斜め上をいく物語でした。
表題作「こちらあみ子」、主人公のあみ子は、ちょっとアレな、軽度な知的障害か発達障害があるのかもという感じの女の子で、そんな彼女の世界が物語られています。
あみ子の世界を読むというよりは、体験させられる感じなのですが、家の車に刻まれた言葉、「あみ子の馬鹿」が、あみ子には読めないけれども、読者には読めるように、語られている出来事に対するあみ子の認識と、それを読んでいる読者の認識は、大いにずれています。周囲の残酷さも、あみ子自身の無垢なるが故の残酷さも、あみ子は感じていませんが、読者はずっとその残酷さにさらされ続けるのです。片方だけの壊れたトランシーバーのような、他者からの声をうまく受信も出来なければ、自分からの発信もうまく届けられないあみ子。でも、無垢に一途にあみ子は繋がろうと発信し続けているのです。だからといって、もどかしい思いに身を引き裂かれそうになるのは読者ばかりで、当のあみ子は、自分の関心のないことは実に軽やかに受け流してゆくばかり。語りと、こちらに引き起こされた感情とのズレが大きすぎて、なんなんだこれは!?です。
「ピクニック」もすごい物語です。端的に言うと虚言癖があるような女性が追い詰められる物語でありながら、全くそのようには語られていません。「ルミたち」というように集団を主語にすることで、その中の個人を匿名、透明にし、個々人の持つ悪意が消されています。集団としての正義が物語に押し付けられているため、善意、好意として、陰湿な行為が語られてゆくのです。非常に残酷なのに、物語のトーンは非常に明るく楽しい気持ちの悪さ。洒落た新築の家に住む、可愛い赤ちゃんのいる女性が投げ捨てる生ゴミを、そのちょっと下流で、汚部屋に住むアラフォーのおそらく妄想の恋人しかいない女性が、すっかり慣れた手つきで浚うという対比も酷いですが、その光景を見ている“悪意無き”ルミたちがピーナッツを投げている光景が、実にグロテスク。でもすっごく可笑しい。なんなの、これ!?
「シズさん」は、痴呆症と思しき一人暮らしの老女と、一方的に繋がっている異様な人物視点の物語。理解をこえた奇妙な人物でありながら、変なところで同調させられそうになる心地の悪さがたまりません。
どれも不思議な異界を覗かされたような作品でありながら、そこに描かれた残酷さや恐さは、すごくなじみ深くもあって、遠くて近い、ふしぎな印象。なんなんだ、これは。
もう一冊のサーバン『人形作り』は、一言で言うと“たまらん”。
「リングストーンズ」と「人形つくり」、魔的で幻想的な描写に溢れた二つの中編小説が収められています。一作目の「リングストーンズ」は、荒野の中の人里離れた屋敷で夏休みの間家庭教師として雇われた女学生の手記という体裁。手記、荒地、古い屋敷、ガヴァネス、謎めいて美しい子どもたち、それだけでも十分すぎるほどですが、さらに屋敷の近くには巨石の遺跡、ストーンサークルまで登場します、もうそんな要素だけでお腹いっぱい。そしてもちろん、これらの単語から期待される通りの怪奇と神秘に彩られた魅力的な物語が展開します。物語の書かれた1950年代と同時代の設定のようですが、この物語で描かれる、人間を拒む荒れ地という恐ろしい自然によって閉ざされた太古の楽園のような場所での浮世離れした暮らしからは、時代の感覚は失われています。さらに、女学生ダフネが時計を失ったように、この場所はこの世の時からも切り離されています。そんな異界的な世界からの逃れがたさと、徐々に決定的になってゆく拘束の恐怖にぞっとさせられるとともに、ある種の甘美さを持って描かれる支配と従属の関係に、ゾクゾクもさせられる、非常に魅惑的で恐ろしい物語でした。
「人形つくり」は、囲繞と束縛のイメージがさらに溢れる作品です。寄宿制の女学校の生徒クレアが、学校に隣接する屋敷に住む青年ニールに心惹かれ、囚われてゆく物語。塀という物理的な囲いの中の、谷と屋敷で閉ざされたミニチュアの森、そこに置かれる人形という小さな器、主人公クレアはニールに対する愛情とともに魔術によっても囚われています。しかも、学校生活や将来に対し、魅力や希望を感じられなかったクレアにとって、魔的な世界にとらわれ服従することは、自由と悦びでもあるのです。
どちらの物語も、囚われた世界からの逃亡が試みられるため、ただ幻想的なだけでなない、起伏のある優れたエンターテイメント作品にもなっています。美しく、恐ろしく、面白い、それを一言で言うと、“たまらん”なのです。
ずっとずっと読み続けていたいくらい魅力的な作品ですが、時の束縛を逃れた美の世界は、束の間覗くくらいにしないと危険、危険。それはわかっているのですが、まだまだもう少しサーバンの世界に浸っていたいので、『角笛の音の響くとき』も読んでみようかなと思います。