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ひとつの興味から別の興味へと、ひょいひょい移ってゆくかれらであるが、その興味が衝突することはまずなかった。外界の事物からこれに匹敵するものを探し出すとすれば、それは、ゆらゆら揺れる紗のヴェールのように、川面の上を群れをなして上下左右に舞い踊る、蜻蛉の集団にたとえるのがいちばんぴったりするのではないだろうか。
かつて、ヨーロッパとアメリカの優れたファンタジー小説を集めた叢書、<妖精文庫>なるものがあったそうですが、ジョージ・マクドナルド、ダンセイニやイエイツなどの並ぶ1期に引き続いて出版された、ファンタジーの範囲をより広げ、さらに日本ではまだ名の知られていない優良作家を紹介する2期に含まれている一冊を読みました。
1893年生まれのイギリスの作家だそうで、「ウォーナー女史の物語は、人によって好き嫌いがはげしい。彼女はファンタジーを、デヴィッド・ガーネットかジョン・コリア、あるいはサキか、神秘論の重々しさを抜いたアーサ・マッケンのように取り扱う」なんて評されているそう。ジョン・コリアやサキのような妖精物語って一体どんなの?!って思いましたが、読んでみて納得、うわー、なるほどこんなのかー!
現実世界のすぐお隣にある、妖精世界の物語たち。物語に登場する妖精たちは、人間よりはちょっと小柄なくらいで、好きに姿を消したり表したりすることが可能、人間よりも遥かに長寿であはるものの不死ではなく、みな羽を持っていますが、上流社会では飛ぶことははしたないことと考えられています。女王の統べるさまざまな王国が存在し、そこは貴族階級と労働者階級が存在する階級社会。妖精たちは時折、ペットや愛人にするために人間の赤ん坊を盗むことも。そんな設定の下、妖精やその世界に連れ込まれた人間が残酷であったり皮肉であったりする運命にみまわれるドラマが、ブラックな笑いを織り込まれながら描かれています。どの物語も、予想のつかない展開と、切れ味鋭い結末をもつ名短篇。ファンタジックな要素があってこそ成り立つ物語であり、時には山をも動かし島をも回転させるファンタジックな要素はもちろん魅力的ですが、そこに短篇小説としての面白さがかけあわされることで、他に類を見ない非常に魅力的な作品になっています。というか、私は大好き。
妖精世界で育った人間と人間世界で育った妖精、“取りかえ子”たちの残酷な邂逅を描く「ひとりともうひとり」、瞑想の可能な静かな暮らしを夢見て旅立った妖精たちの彷徨「完璧なトライアングル」、新しく即位した女王の提案で宦官にされた2人の取りかえ子に端を発する騒動「プロセリアンドの反乱」、王立狼男隊隊長の任を解かれ、遠方の小国へ大使として向かうことになった妖精の数奇な運命「人間の乳」、“大昔の住人”と呼ばれる土着の泉の妖精の存在に心奪われた妖精「ベリアール」、憧れていた古の王国を訪れる「先祖探し」、他国の追放者を受け入れる王国に異端者が現れる「追放の風土」、魂なきはずの妖精の幽霊が現れる「故グラミー卿」、宮廷生活に不満を感じて王国を飛び出し牧師館で暮らし始めた妖精たちの話「職業」などなど、どれも思いがけない方向に物語が進むところが面白いので、粗筋をご紹介することも難しい…。
皮肉や黒いユーモアを愛し、ファンタジックな美しさやひりつくような残酷さを求める、あっと驚く展開と結末をもつ短篇小説が大好きという方ならば、もう好きにならずにいられない書です。1979年に出版されたきりって、信じられない。
評価:
シルヴィア・タウンゼンド・ウォーナー 月刊ペン社 --- (1979-05) |
宮崎駿の『シュナの旅』のもとになった作品ということで知られているそうですが、知らなかった上に『シュナの旅』も未読でしたので、ついでに読んでみました。貧しい王国の王子が、豊かな実りをもたらす穀物の種を求めて異界へ旅し、種を盗み出すという筋は同じです。『シュナの旅』では、穀物の種は神人のところにあることになっています。そして、自ら耕作しなくなった人間が、人間を狩り、多くの人命と交換に神人から豊かな食料を得ているいびつな世界が描かれています。王子シュナは、異界からなんとか生きた麦の実を持ち出すことに成功したものの、かわりに記憶を失ってしまいます。しかし、かつて人買いから救った少女テアの助けでなんとか自分を取り戻し、麦の栽培に成功して、故郷へ戻るという展開。神人という存在や、それによる生きた人間を材料にした穀物栽培のシステムなどは、魔術的というよりはSF的な雰囲気です。とはいえ、生きた人間からできた(?)特別な水によって栽培された麦穂がたちまち成長することなどは、播磨国風土記の玉津日女命が生きた鹿の腹を割いて出した血に種を蒔いて一夜で苗にしたエピソードにつながるものを感じます。民話、神話、SFが一体となったような、不思議な物語でした。
シュナは種を持ち出したせいで、自分を失ってしまいましたが、もととなった『犬になった王子』は、冒頭に書いたとおり、犬にされています。ここで疑問に思ったのが、なぜ犬なのか??ということ。中国などの「穀物盗み」の話では犬が活躍することが多いそうですので、これもその一つということでしょうか。この物語では王子→犬→王子となっていますが、犬を王子の化身としなければ、犬祖譚になりそう。が、犬と穀物のつながりはいまいちわからない…。犬の尾が穀物の穂の形状に似ているからなんて説もあるそうですが、『世界昔話ハンドブック』では、「原始的な考えでは犬は早くから人間の信仰や崇拝の対象となっていた。苗族や瑶族などの民族は歴史上そのトーテムであった」など、犬が古くから特別な存在であったことや、穀物盗みにおいて犬が活躍することについては、「犬は比較的早く人間に馴化された動物の一つであり、朝晩生活をともにして人間に大きな貢献をしている。とくに農業や牧畜において大きな助けとなっているため、人々は伝説や昔話の中で犬の人類に対する恩恵をこのように描き賛美する」などといったことが書かれていました。
東〜北日本では狐が、中国や天竺、鬼の国などから穀物を盗み出してきたり、灌漑用の水を引いてくれたりする話が存在するそうですが、日本で田の神とされる狐が、こういう場面で活躍するのは理解できます。日本の「穀物盗み」話にも犬は登場しますが、むしろ穀物盗みを妨害する存在としてです。西〜南日本に分布するという弘法大師による麦盗みの話、中国に留学中の弘法大師が、日本にはまだなかった麦を見て、持ち出し禁止のそれをなんとか日本にも持ち帰ろうと、足に傷をつけてその中に入れたり、ふんどしのなかに入れたり、肛門の中に入れたりとパターンは色々ですが、こっそり持ち出そうとするも、その匂いに気づいた犬に吠えられてしまいます。しかし、盗みには気づかれず、犬は間違って吠えたとして殺されてしまい、大師は帰国後、哀れな犬を祀っただとか、麦播きは戌の日にするようになったなどなど。とはいえ、犬が祀られたり、戌の日に播種する事実が先にあって、後から弘法大師の話がくっついたように思えなくもなく、日本でも犬と穀物は関わり深いのかも。
ところで、犬以上に気になってくるのが、肛門に隠して盗み出すってエピソード。有名な高僧がそんなことしちゃうというのが、すごくウケるのかもとも思いますが、やっぱり肛門から食べ物を出していた大気都比売や保食神からの伝統なのかしら。
玄奘三蔵に関する話で、経典を求めて訪れたインドで大根を見、これも持ち帰ろうとお供の悟空に渡したところ、すでに経典で手一杯だった悟空は仕方なく肛門にこれをさして持ち帰ったなんて話もあるそう。三蔵様、絶対持てないと分かってて、大根を渡して肛門にさすとこ見てたなんて、なんというドS。
肛門の話があるとなると、ありそうなのが、性器の中に入れて隠すとういう話。なぜか台湾に多く見られるそう。女性が盗んだ話ばかりかと思いきや、結構男性もあって驚き。どこに?と思ったら、包皮の下に隠してとのこと。小豆ぐらいまでなら入りそうなのかしら??ポリネシアには、タロ芋が陰茎のなかに隠されてたなんて話もあるんだとか。ドイツの民俗学者イエンゼンによれば、さすがにそれは無理だから、おそらくポリネシアに移る以前は穀物栽培が行われていたものの、それが移動によって失われ、物語のほうも土地にあわせて穀物からイモ類に変化したのではとのこと。
色々な穀物盗みの話があるのを見ると、穀物は自然から優しく与えられるものじゃなくて、盗み出すように苦労して得るものなのだなと思います。
何その事件!?と、思ってしまいましたが、かつては、このように妊娠中に死亡した女性の体内より胎児を取り出してから埋葬する、「胎児分離埋葬」が普通に行われていたそう。実際に胎児を出さずとも、それを象徴するようなこと、棺に胎児代わりの藁人形を入れるなどといったことをする場合もあったそうですが、日本の各地で行われていたんだとか。
一体何ゆえにそんなことをしていたのかというと、子どもを宿したまま死亡すると、死者は血の池地獄で苦しまねばならないだとか、幽霊となって家に害をなすだとか、ウブメ(産女)となってしまうといった考えに基づいていたよう。その考えの素になったのは、室町時代に流布していた『血盆経』ではないかとのこと。『血盆経』では女性は産の血で諸神を汚すため罪深く、血の池地獄に堕ちねばならないことや、そこから逃れるための方法などが説かれているそうで、そこからお産で亡くなった女性の場合は、「産穢と死穢の二重の穢」を持ったさらに罪深い存在であるため、往生できないという思想が生まれ、その思想を「地獄思想を説くことで信仰を広めていった回国遊行の宗教者たちが」広めた結果、死者に胎児摘出という一種の「分娩」を済まさせてから葬る「胎児分離」の葬送習俗が中世末から近世初頭頃に成立したのであろうとのこと。
“ウブメとならないように行っていた”などという事例があることから、「産女伝承」は、この習俗と直接関わりがあるように思えますが、著者は、もとは無関係だったと考えていらっしゃいます。「死んだ妊婦の魂魄を地獄から救うための習俗という意味が希薄にな」ってきた結果、「亡くなった女が自分のおなかにいる胎児を産み育てようとするために亡霊となって出てくるというふうに解釈しなおされ」、もともとは無関係だった「産女伝承」が同様に“産死者の伝承”であるために結び付けられたのではないかとのこと。
また、「子育て幽霊」についても、この習俗から生まれたのではなく、逆にこの習俗が廃れてゆく中で繋がってきたのではとのこと。物理的に胎児を取り出す方法以外にも、僧侶が祈祷によって「棺中出産」させるという、観念的な方法もあったらしく、特に近世の曹洞宗を中心とする禅僧が布教活動の中で、呪法での胎児分離を説いて、開腹による胎児分離の習俗の廃止に一役買っていたよう。物理的には胎児を孕んだ状態で埋葬されるという事実があったからこそ、禅僧によって作られた「高僧墓中出生」の話から民間説話化していた「子育て幽霊」の話が結びついたのではと。
この、どのような形のものであれ「胎児分離埋葬」という習俗が消えてしまった原因は、近代医学の進歩によって妊産婦死亡率が激減したことが一番大きいのではないかと考えられています。この習俗の対象とされる存在が消えたことによって、習俗として存続できなくなったのだと。その結果、この習俗に結びついていた「産女」や「子育て幽霊」伝承もリアリティを失い、伝承されなくなったとのこと。
その一方で、出産における新たなフォークロアとして、「水子」をめぐる習俗が登場してきます。前近代的な考え方では、胎児や一歳ごろまでの赤子は「この世に生を受けた者」とはみなされたいなかったそう。そのため、この期間に亡くなった子どもや、出産直後に間引かれた子や堕胎した子などは、葬式をされることもなく処分されており、そもそもこの世に生まれてきていない胎児や赤子が祟ったり幽霊になるという発想はなかったとのこと。それが近代になって、胎児も「この世に生を受けた者」とみなされるようになり、「あの世に送って成仏」させねばならない存在に変化し、「水子」供養という習俗が生まれたのです。
この産女から水子へと、リアリティーをもって信じられる存在の変化は、イエに災いをなすものから、女性個人にさわりをなすものへの変化であり、それは出産が「村の男性たちも関わる公の出来事から、女性自身が関わる私的な出来事へと囲い込まれていく過程でもあった」のではないかと指摘していらっしゃいます。
この書では、他にも出産にまつわるフォークロアとして、胞衣の扱いの変化にも触れられています。昔は子どもの成長を守るものとして、また、災いを避けるために速やかにあの世へ戻すべきものとして丁重に扱われていたそう。家の敷地内に埋められることが多かったそうですが、明治時代に清潔法が施行され、定められた場所へ集めて処分されるようになります。「棄てる」という表現が使われるようになったものの、その場所は、古墳のそばや墓地、火葬場の近くといった「あの世に戻す」のにふさわしい場所が選ばれていた様子。しかし、1960年代になって出産が病院で行われることが一般化した結果、胞衣のもつ力は完全に忘れられ、その処分については無関心になってしまったとのこと。
胞衣についての話で大変興味深かったのは、2002年の調査結果の一つとして、20〜30代の女性の間で、かつて胎盤(胞衣)を食べる習俗があったという俗信が広く信じられていることがあげられていること。うわっ!それ、聞いたことがあるし(ネットで見たのかも?)、俗信って知らなかった―――!!!
抜けた乳歯についても、同様にあの世、異界へ戻すものとして扱われており、新しい丈夫な歯と交換するために床下や屋根の上という異界へ投げ込む行為が行われていたとのこと。それがだんだん“異界”に対する人々の想像力が失われ、「マイホーム」に向かって投げ入れると考えられるようになり、さらに住環境的に投げる場所がない場合以外にも、育児をめぐる状況の変化から、最近では乳歯ケースで乳歯を保管する人が増えているとのこと。
お産が、家ではなく病院で産むことが主流になったことは、お産をめぐるフォークロアに影響を与えただけでなく、お産の「身体技法」にも変化をもたらしました。分娩台の成立過程について触れられているのですが、そもそもは、医師の診察しやすい姿勢に患者をロープで縛ってベッドや机に固定するところから始まっています。ロープで縛る代わりに足を固定できるものとして、脚置き台が作られ、それと手術台を組み合わせることで、分娩台が出来上がってきたのです。医師にとっては診やすくても、分娩台のうえでの仰臥位の姿勢での出産は、実のところ「胎児の娩出には不利」とのこと。診やすく産みやすい新たな形状はないのかしら??
↑分娩台の元祖?!
この書では他に、おんぶと抱っこについて、育児行為の中での身体技法の変化や、怪異と関わりの深い身体部位についての考察があります。私的に興味深かったのはやっぱり上に書いたような、お産をめぐるあれこれでした。
『テス』や『日陰者ジュード』など長編はちょっと手が出しにくいけど、短篇ならと手にしてみたのですが、なんだか非常に面白かったです。といってもどれも悲劇ばかり。だいたい主人公が悲劇体質というか、現状を認めない、何かしら不足を感じてしまったり、あてもない何かに囚われてしまいがちなため、悲劇にみまわれます。でもって容赦のないダメ押し的な結末がやってくるので、何度となくええっ!?と、声を上げる羽目になりました。
例えば「幻想を追う女」、海辺の保養地で借りた家が、たまたま以前からちょっと気になっていた詩人の下宿先であり、旅に出て不在のその詩人についての噂を聞いたりするうちに、夢見がちな人妻の妄想スイッチがはいって、会ったこともない詩人へ恋をしてしまい、なんとか会うきっかけをつかもうとするも、すれ違ってばかりで、いよいよ恋心がつのってゆく間に、件の詩人が自殺してしまい、人妻もそれを追うように病死してしまう話なのですが、その幻想の恋がさらなる悲劇を生む結末の恐ろしいこと。
「呪われた腕」は、、酪農場主の若き妻の腕に、あるときから不思議な痣ができ、日を追うごとに酷くなってゆく物語。それは、かつて農場主と関係があり、その子どもを産み育てている乳搾り女がある夢を見た日からのこと。いつしか乳搾り女は農場を去るも、腕の痣は治らず、そのせいかなんだか夫もよそよそしくなり、妖しげな方法にも縋っていた若妻は、まじない師の老人に教えられた縛り首になった男の首に腕を押し付けるという治療法を実行することにし、ようやく機会が訪れますが…。予想通りの展開ではありますが、客観的には因果関係がはっきりしない物語でありながら、二人の女性にとってそれは無意識に呪い呪われあっていた関係が決定的に表面化した瞬間であったに違いなく、女の中で脈打ち続けている暗い思いにぞっとするしかなかったです。
「羊飼いの見た事件」は、その地を治める公爵が、妻が不倫していると誤解し、その相手と思った男を殺害したところを目撃してしまった羊飼いの少年の物語。公爵は少年に口外しないことを誓わせ、代わりに経済的な援助をしてよい学校で学ばせた後、高待遇で雇い入れますが、22年たって意外な事実が明らかに…。
妹の婚約者シャルルと恋に落ちてしまった姉の日記という体裁の「アリシアの日記」は、つれなくなった婚約者のせいか、命が危ういほどの病状におちいった妹を救うため、法的な効力のない型だけの結婚をさせますが、その結果みるみる妹は回復し、色々あってとうとうシャルルは本当に妹と結婚することになるも、その当日に…という話。これ、日記形式というのがすごく面白いです。アリシアの人となりが非常によく出ているところとか。やたら箇条書きにするとか、理知的で、自分が一番分かっていると思ってる。また、客観性のないアリシア一人にとっての悲恋物語なため、色々な読み方ができるところも。
村上氏が「細部が心に残る」と仰っていますが、確かに印象深い場面がいくつもあります。「妻ゆえに」の霧に覆われた通りにろくに服もまとわず立ちすくむ女と、そんな女の意を汲んでやさしく対応する若い男のラストシーンとか、薄幸美(←グレゴリー青山)としか言いようがないです。「幻想を追う女」の詩人を思うエラのふるまいの数々。「わが子ゆえに」の、ソフィがはじめてサムと一緒に市場へ向かう夜明けの場面。味気ない寡婦の生活の夜明けのようなこのシ−ンがあるから、後の展開が悲劇的に感じられます。「呪われた腕」のまじない師のもとへ因縁の女二人で荒野を渡って向かう場面もすごく印象的。「アリシアの日記」での、シャルルがはじめてアリシアの暮らす屋敷にやって来た日、二人が出会う直前、アリシアが二階の踊り場で足音を聞き気配を窺っている場面。あの方、あの方って、もう完全にすでに恋におちてる。
なんだか長編も気になってきましたが、うわー、どうかな、読めるかな??
「あなたのどこかにほんの少し、勇気が隠れているはず。それを見つけるんだ。」
「もし本当にありのままの自分を好きだというのなら、どうしてほかの人より優れていると証明する必要があるの?」
シンデレラ、白雪姫、眠り姫、ラプンツェル…これらのプリンセスストーリーに登場する王子たち、みんなプリンス・チャーミングだなんて適当な名前で呼ばれて完全な脇役扱い。でも、彼らにだって、名もあれば個性もあるはず。これはプリンス・チャーミングと呼ばれた王子たちが主人公となって、無個性無名な扱いを吹き飛ばす勢いで大活躍…??する物語です。
さて、プリンス・チャーミングたちって一体どんな個性をお持ちなのでしょうか?それぞれのストーリーを思い返してみると、シンデレラの王子様は、綺麗な格好でダンスしてただけ、白雪姫の王子も偶然にも仮死状態の白雪姫に出会ってキスしただけ、ラプンツェルの王子にいたってはむしろラプンツェルに救われてる、英雄的活躍をしたのって眠り姫の王子くらい……あれ?なんだかヘタレっぽいかも??そう、みんな実はとってもダメ王子たちだったのです。
シンデレラに登場した王子フレデリックは、端正な見た目だけを重んじられ、一切の危険なことから遠ざけられて育った、軟弱で退屈な王子、好奇心旺盛、大胆で冒険好きなシンデレラことエラは、王宮でのフレデリックとの暮らしに耐え切れず、姿を消した宮廷詩人の行方を探す冒険に出てしまいます。エラのことを諦められないフレデリックは、馬に乗ったことすらなかったにもかかわらず、勇気をふりしぼって、エラを追う人生初の冒険に出ることに。
そんなフレデリックが出会ったのは、ラプンツェルに登場する王子グスタフ。武勇に秀でた屈強な16人の兄たちに対し強い劣等感を感じており、虚勢を張るも失敗続きな、不満を抱えた偏屈で孤独な王子。ラプンツェルに対しても全く素直になれず、人を癒せる自分の力を世の中の役に立てたいラプンツェルには去られてしまいます。フレデリックと行動をともにすることになったものの、考えなしに動くため、魔女に囚われたエラを助け出すはずが、むしろエラを危険な目にあわせてしまいます。さらには軟弱で腰抜けなフレデリックにまで助けられる羽目に。
エラは、かつてラプンツェルを監禁していた魔女ザウベラに捕らえられていました。ザウベラは、もとは全く悪い魔女ではなかったのですが、誤解のために悪者にされてしまったため、そのきっかけとなった英雄を激しく憎んでおり、英雄たちを葬り、自分を受け入れなかった世界を恐怖に陥れる計画を立てているのでした。
フレデリックとグスタフにはさらに、眠り姫の王子リーアムと白雪姫の王子ダンカンが仲間に加わります。リーアムはただ一人まっとうな英雄らしい英雄なのですが、自尊心が高く、なんでも自分ひとりで上手くできると考えています。眠り姫ことブライア・ローズがとんでもなく傲慢で我侭だったために婚約を解消することを宣言した結果、根も葉もない悪い噂を流され、ブライア・ローズの国エイヴォンデルの国民からも、豊かなエイヴォンデルと関係を深めたかった自国エリンシアの国民からも総スカンを食らう羽目になり、国を飛び出していたのでした。ダンカンは、自分には魔法のラッキーパワーがあると信じて疑っていない、かなり変わった陽気でポジティブでまわりの空気が読めない不思議王子。変わりものの白雪姫、スノー・ホワイトとは相思相愛でうまくいっていたものの、ちょっと一人になりたい気分の白雪姫から、どこかへ散歩に行くようすすめられた結果、道に迷っていたところで一行に出会ったのです。
頼りになるんだかならないんだかの4人は、プリンス同盟を組み、悪しき計画を遂行中の魔女やその手下であるドラゴンと巨人だけでなく、恐ろしい山賊たちに対して、立ち向かってゆきます。次から次へと襲い来る困難。無事エラを助け出すことはできるのか?って、あれ、エラは自分で脱出しちゃってる…。「プリンス・チャーミング、完全にお呼びでない」とか酷い章題が並ぶ物語ですが、いやいやちゃんと頑張ってます。ええ、頑張ってるんです。エラ、大活躍ですけど。
冒険を通してバラバラだったダメ王子たちがだんだん意気投合してゆくのもいいですし、それぞれ自分の欠点を認め、ありのままの自分を受け入れることで、一歩踏み出し困難に対処できるようになってゆくのもいいです。最初っから最後まで笑いっぱなしの面白い物語ですが、気持ちよく感動できる物語でもあります。
エラが自分と共通するものをリーアムに感じたり、ラプンツェルがフレデリックに好感を抱いたり、あららな状態で物語は終わりますが、原作には続編があるとのこと。え〜っ!読みたい!!
もしナチスが復活したとして、彼らが最初から非理性的な暴言を吐きまくるような存在ならば、脊椎反射的な人たちでも悪の拡充を妨げる公算が高い。たとえば、いわゆるネオナチのようなゴロツキたちには対処可能だろう。しかし「ホンモノ」が現れてしまったらどうなのか?かつてのナチスが、ヒトラー自身がそうだったように、彼らの最初の語りかけは「いやぁ、最近のガソリンの値上げはキツいっすよねえ……」というような、党派や主義主張を超えて誰もが納得し、ついうなづいてしまう内容なのだから。
マメイ・メントライン 解説
「1933年には国民はだれひとり、巨大なプロパガンダ的な行為で説得されてはいない。そして総裁は、今日的な意味で<民主的>と呼ぶほかない方法で、選ばれたのだ。自らのヴィジョンを非の打ちどころがないほど明確に打ち出したからこそ、彼を、人々は総統に選んだ。ドイツ人が彼を総統に選び、そして、ユダヤ人も彼を総統に選んだ。」
「イデオロギー的にたとえ疑念があっても、ばあさんはきっと、自分の聞きたい話だけを耳に入れるはずだ」
うわぁ、すごく面白く可笑しい本ですが、すごく怖い本です。
自殺したはずが、なぜか現代ドイツで目覚めたヒトラー。最初はとまどうも、キオスク店主に助けられ、徐々に状況を飲み込むや、これを間違った状況にあるドイツを自分に救わせるために運命の手によってなされたこと、神意と解釈し、その定めを全うしようと決意します。そんな中、ヒトラーそっくり芸人と勘違いされ、弁舌の才を買われ、お笑い芸人としてテレビ出演することに。番組内容をヒトラー流に解釈し行った演説の動画がyoutubeで大人気となり、出演を重ねるごとに多くの人の心をガッツリ掴んでゆきます。「才能あふれる意見をつぎつぎ発表する国民の真の代表者」と書かれるまでに。周囲の人間との間にも、徐々に強固な連帯感を築いてゆきます。「ジーク!」と言えば「ハイル!」と応えるほどに。
ヒトラーの何事もヒトラー流に解釈しての振舞い、周囲の人たちとのかみ合わなさ具合がすごく可笑しくて笑っていましたが、さまざまな矛盾や問題点をするどくついて、明確なヴィジョンと揺ぎない信念、圧倒的な自信を持って、いかなる状況も小気味よく乗り越えてゆく様を読み進めていくうちに、いつしか「彼(ヒトラー)と一緒に笑っている」ことに気づかされます。あれ?あれれ?それに気づくと、かみ合わなさ具合も、だんだん可笑しいから怖いに変わって行きます。
ヒトラーの発言の多くは事実に基づいているようで、この書に登場するヒトラーのヒトラーっぷりはかなりなもののよう。この人物に魅力や小気味よさを感じてしまったとまどいと、恐ろしさは忘れないようにしたいです。このことを安全に体験できるという点で、すごい本です。
「(ヒトラーに関するこれまでの説明やアプローチには)人間アドルフ・ヒトラーに人をひきつける力があきらかにあったという視点が欠けている。(中略)人々は、気の狂った男を選んだりしない。人々は、自分にとって魅力的に見えたりすばらしいと思えたりする人物をこそ選ぶはずだ」
(「訳者あとがき」<南ドイツ新聞>の著者インタビュー)