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旅が自由のはじまりさ。生きるも死ぬも自分の責任だ。
遁走だ!自由のほうへ!脱走だ!
きだみのる、山田吉彦として『ファーブル昆虫記』を翻訳した後、給費留学生としてフランスに渡りパリ大学でマルセル・モースに師事して社会学や民俗学を学ぶも中退し、戦時下でありながらモロッコを旅し、帰国して『モロッコ紀行』を出版。その後東京・南多摩郡の恩方村へ疎開し、その体験をもとに『気違い部落周遊紀行』、『気違い部落紳士録』などを書き、それが映画化されヒットしたことで、一躍時の人に。その後も一所に留まることのないきだ氏は、奄美大島に生まれ、父親の仕事の関係で、鹿児島、台湾と居を移し、その後東京の叔父に引き取られ、そこから函館へ家出し…と、子どもの頃から漂流続きだったのだとか。
そんなきだみのるに、1970年、当時「太陽」の編集者だった著者・嵐山光三郎氏が、日本列島の小さな村をまわってルポを書く仕事を依頼しようと、住居を探し出し会いに行きます。革新系劇団新製作座の宿舎に訪ねてみれば、そこは足の踏み場もないゴミ部屋。異臭のこもった部屋の中にいる、75歳のきだみのるのただならぬ存在感。同行した編集長の馬場一郎氏は、「きだみのるは昆虫の臭覚を持った隠者だ」、「大風呂敷をひろげて相手をケムにまくというからな、こちらも腹をきめていかなきゃいかんよ」と言っていたものの、すっかりきだみのるのペースに巻き込まれ、破格の報酬で仕事を依頼することに。
かくして著者ときだみのるとの交流が始まり、ともに旅し、付き合いを深める中で、少しずつきだ氏の口から過去のことが語られてゆきます。きだ語録といった感じの名言、迷言の数々、親交のあったさまざまな人々のこと、意外な出来事、家族への複雑な思い。
男は餓死と贅沢のあいだを往復する動物であって、女のとりこになってはいかんのだよ、きみ。といっても、恋愛は精神の浄化であって、人間の特権だ。だから女に恋をする。聞こえはいいが、体内に獣を飼っている。
女好きだが女に拘束されることは嫌い、「果てることなき食い意地」、「借金の達人」、「わがまままで、手こずらせる老人」、矛盾を抱えいつもいらだっている。「ギリシャ語とフランス語の達人」で、「その知力は緻密で不純物がない」。きだみのるのわがままに振り回されながらも、その魅力に捕らえられ、きだ氏との仕事が終わった後、著者も旅に出てしまいます。
この頃、きだみのるのもとには、きだ氏のことを「おじちゃん」と呼ぶ女の子、ミミくんがいました。きだみのる同様「ナマミの本能で生きている」ような女の子。実は人妻との間にできた子どもであり、海外も含め方々へ連れ歩いているため、小学校に通わせられていませんでした。「同志」として認め合い、支えあって生きてきたため、なかなか自分のそばから手放せなかったものの、ようやく決意し衣川村の分校の教師である佐々木夫婦のもとに預け、学校生活をはじめさせることになりますが、ここからの展開が切ない。この佐々木先生は、のちに三好京三のペンネームで、きだみのるとミミくんをモデルにした小説『子育てごっこ』を書いて賞を取るのですが、その内容は、二人の間柄を暴きたてたうえで、きだ氏を世の中に苦渋を撒き散らす醜怪な老画家として、ミミくんを可愛げのない傲岸な野生児のような子ども・リリとして描き、さらに自分たち夫婦については、そんな少女を引き取り育ててゆくという美談にしたてたもの。死を前にしたきだみのるが、「ササキ君は油断がならぬ男だ」と心配したとおりのことになるのです。
書中、きだみのるが作る豪快な料理の数々が紹介されていてるのが楽しいです。時には干しガエルや虫が供されることもありますが、それも食べてみれば美味との事。一番印象的だったのは、馬肉で作るタータルステーキ。馬肉のひき肉にみじん切りの野菜を混ぜ、きだ氏がごぼうのような黒い手で捏ねて作るのですが、焼くのかと思いきや、生で食えとのこと。これまたすごく美味しかったそう。それを食べながら、「天空から舞い降りた天狗のようにほほえむ」きだ氏とミミくんがすごくいいです。
また、交流のあったさまざまな人の話の話も面白いです。中でも、辻潤との思い出話のあとに甘粕大尉に会った話がでてきたのにびっくり。太平洋戦争の前年、情報部に入る気はないかと誘われたのだとか。
「自由の代償は死ぬことだよ」
自分本位の壮絶な生涯だったが、きだみのるには一途なこころざしがあった。それは自由を求める魂だ。自由の代償の重さ。宴会と恋と冒険は人間の体力のつきたときがすべての終わりになる。
本書では、この「異文化の学」としての文化人類学の方法的な特質を損なわずに、しかも自らが生まれ育った文化そのものへと視線を折り返す試みをしている。それは、日本文化そのものの斬新で且つ深い理解に役立つ学問へと文化人類学を回転させようとする構想でもあり、この目的に資するだろう論考を幾本か編んでみた。
「味噌買橋」についての考察があるというので手にしたこの書、非常に面白かったです。
飛騨高山の民話「味噌買橋」については、櫻井美紀氏が経緯を明らかにされたように、イギリスの話「スワファムの商人」の翻案作品が民話化したものだということで、すっきり納得していたのですが、この書ではそれは単に「伝播の経路を書誌的に点綴」しただけにすぎず、そこからさらに「人々が現に生きた歴史の文脈で」この翻案の作成やその受容について理解する必要があるのではと述べられています。そのためには、他にもいろいろ橋はあるのに、なぜ他ならぬ“味噌買橋”が舞台に選ばれ、民話として土地に根付いたのかを問うてみなくてはいけないのではと。
実は、「味噌買橋」の出現にほぼ10年先立って、まさにこの物語を地で行く、(飛騨最初の家具製造会社)中央木工の創立といういかにも劇的な出来事が味噌買橋の袂で起きてきた。しかも、小林の『郷土口碑伝説集』編纂時、同社設立に続く会社と町の至富への過程(曲木家具工業の地場産業化)が実際に着々と進行していたのである。
大正9年(1920)、「ブナの木でも使いようで立派な家具になる」という店先での客の話に興味を持った筏橋(味噌買橋)袂にある大野屋味噌店主、土地の有力実業家の一人である武田萬蔵は、曲木家具製作の技術を持つその客が自分たちを活かせる人を飛騨で探していると知り、木材に詳しい知人を誘って、飛騨山地の膨大なブナを原材料とする曲木家具製造業を始め、その結果高山は洋家具の国内最大産地へと変貌していったという事実があったのです。
翻案作成者である小林幹は、「味噌買橋」の話を“夢買長者伝説”の一つととらえていたらしく、“用途のなかったブナを用いて家具が作れるという話(夢)に投資した(買った)ことで、富を得た”という現代版夢買伝説がこの地の人びとに印象強く記憶されていたからこそ、この翻案が生まれたのであろうとのこと。ただの翻案ではなく、ちゃんと「生きた歴史」に繋がる物語だったのです。目から鱗というか、頭をガッツーンという感じ。
「橋は世界中どこでも、川の両岸を、そして象徴的には此岸と彼岸を繋ぐ新しい文化装置として人びとの強い関心を引いて幾多の伝説を生み出し、物語や映画の恰好の舞台ともなってきた。高山では、奇しくもそれを絵に描いたような目を疑う程の事件が味噌買橋の袂で現に起こり、町は足早に曲木家具の一大産地に変貌した。その命運の不思議に、高山に生まれて清美で育った小林幹が誰よりも深く感じて打たれ、万感の思いをこめてその記憶を「味噌買橋」伝説へと造形し、郷土の誇るべき伝説として学童に学ばせようとした。そう考えると、当時の「飛騨高山のエートス」がくっきりと浮かび上がって来よう。」
「むしろその話が表象、または代理=代表(represent)している大野屋の逸話の時代精神(思い切って「夢買」する英断とその天晴れな心意気)が高山の人々にとって「真実」(truth)であることを、話(のメタメッセージ)は伝えようとしていたのである。端的に言えば、「味噌買橋」の「現実性」(reality)を(地元の聴き手に)保証していたのは、他ならぬ味噌買橋という周知の固有名詞なのである。」
他にも興味深い考察がいっぱい。生まれた子どもに対する予言が実現してしまう話について、アフリカのキプシギス、古代ギリシャ、中国、フランス、中近東などの類話を社会構造にからめて考察し、さらに日本の「『託宣の避けられない実現』が破綻する話」である、予言に反して河童が子どもの命を奪い損ねる話を取りあげて比較されています。予言の破綻、絶対的な時間の支配から逃れえた理由が考察されていて面白いです。また、ここに登場する河童のように、“お人よしで間抜け”という蛇や龍などの他の水の神にはない性格付けをされた河童像が生まれた理由についても考察されています。
“オムスビの力”についての考察では、“水の女”との関わりがあって、おおっとなります。
日本では“斜め”には負の意味合いがあり忌避されてきていたという説に疑問を呈されている「斜め嫌いの日本文化」についての考察も面白かったです。
中でも特に面白かったのは、お子さんが通っていらした幼稚園でのクラスの命名システムが、トーテミズムを説くのにちょうどいい実例だったという話。クラス名は園を経営する寺の敷地内に創建当時には実際に棲んでいた(今はいなくなった)生き物の名前にちなんでいて、それはまさに「人間集団の(抽象的な)関係性をその外部である自然(主に動物や植物)の間に感じ取られる実態的な関係性と照らし合わせて、それと相同の仕方で表現している」トーテミズを体現するものだったのです。しかも園児とトーテムとの親密な関係までみられたり。こんな身近なことであっても、「文化人類学」的視線を向ければとても興味深いことが見えてくるのです。これぞまさに「普段着でする人類学」。
戦国の世が終わり江戸時代となって、世の中が平和に慣れてゆく中、武士がその本分を忘れてはいけないという思いもあってか、江戸時代初期にはさまざまな軍記ものが編まれたそうですが、兵学者や文人によって格調高く書かれたものがある一方で、この「雑兵物語」や「おあむ物語」のような、口語的表現による書もあったそう。
雑兵物語は、歩兵集団戦闘において重要な役割を果たす足軽・雑兵といった「下卒練武の要訣として、江戸時代を通じて心ある武人の間に珍重せられ、転写に転写を重ねられて来たのであるが、幕末弘化年間には遂に刊本として汎く識者の間に行はれるに至つた」ものなのだそう。その内容は、弓足軽・鉄砲足軽・槍担・馬標持・旗指・馬取・持筒・持槍等々の雑兵三十名の「功名談・失敗談・見聞談等の形式を借りて、雑兵の陣中及び日常に於ける心得の一般、武具の取扱ひ、兵器の操作、或は戦場の駆引をはじめ衛生・救急・糧秣・輜重等に至るまでの各般の事項を平易に且簡明直截に述べたもの」で、「一種素朴な各科教程であり、諸兵須知であり、同時に雑兵訓或は物語戦陣訓とも言ふべきもの」。作者は松平伊豆守信綱の嫡子輝綱もしくは第五子松平信興などの説があるそうですが、不明とのこと。
記述内容が歴史学的に興味深いものであると同時に、当時流行していた奴言葉・六方言葉(徳川家に従って江戸に入った人びとの三河弁と、江戸在来の関東弁などが入り混じってできた、大仰で威勢のいい言葉遣い)に影響を受けた言葉で書かれていることから、江戸初期東国語の片鱗を窺うことのできる「国語史資料・方言資料」としても面白いものなのだそう。
また、格好良く歩かせるために馬の足の腱を切ったりだとか、武具の紐をお洒落に染めたり、いらぬところに家紋をつけたりすることの不具合がぼやかれるなど、実用より見栄えを重視する風潮を皮肉る内容がちょくちょく見えるのも興味深いんだとか。
書中語られるアドバイスは実にさまざまです。刀での狙いどころやら、槍での攻撃法だとか、弓や鉄砲についての諸注意、装備の仕方、荷の持ち方、負傷者の担ぎ方、敵を仕留め首のかわりに鼻を削ぐときは男と分かるように髭の部分もつけとけとか、うっかり合言葉を忘れて仲間に間違って殺されないように合印はいろんなところにつけとけとか、敵地では糞が沈められていたりするから、井戸水は飲まないほうがいいとか…。
負傷者の治療法がなんだかすごいです。傷が痛むときは自分の小便を飲むか塗るかしろとか、葦毛馬の糞を水に溶かして飲むと、腹中にたまった血が下りて、傷が早く治るとか。葦毛馬の血でもいいんだけど、血を採るわけにもいかないから、やっぱり糞にしとけとのこと。他にも戦中喉が渇いたら、持参した梅干を見て唾をだすか、それでだめなら死体の血か泥水の上澄みをすすれとか…。
うっかり戦国時代にタイムスリップなんてことになったときのために知っておきたい知識が満載です。
「おあむ物語」は、80歳を超えた御庵さま(老尼の尊称)が子どもたちにせがまれて語る、関が原の戦いの際、奉公していた石田三成の大垣城からなんとか逃げ延びた若い頃の話。落城前に聞いたバンシーのような不気味な声のことだとか、戦いがはじまって味方が討取り天守閣に集められた敵の首に、よい武者の首に見えるようお歯黒を塗っていたことや、そんな首だらけの部屋の中で寝起きしていたこととか、城から家族で逃亡した際、途中で母親が産気づいて出産し、田んぼの水を産湯がわりにしたこととか、かなり壮絶。
もう一つ、淀君に仕えていた女性による大阪落城時の話「おきく物語」も収められています。こちらは籠城中の思い出やら逃亡時のこと、お城に御仕えするにいたった経緯などが語られています。