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ああ、習俗打破!習俗打破!それより他には私たちのすくわれる途はない。呪い封じ込まれたるいたましい婦人の生活よ!私たちはいつまでもいつまでもじっと耐えてはいられない。やがて―――、やがて―――。
スゴいタイトルだなぁと、この書の存在は気になっていましたが、先日読んだ書中に伊藤野枝がちらりと登場したため、そういう偶然にはのったほうが吉かと思い手にしてみました。
タイトルもすごいですが、いきなり冒頭は「あの淫乱女!淫乱女!」!?読み終えてみれば、いやもう、やばいなんてもんじゃなかったです。「やばい!しびれる!たまらない」本でした。栗原節のせいもあってか、野枝かっこいい!!と、何度も思わされます。
伊藤野枝、貧しい家庭に生まれるも、父方のおばの嫁ぎ先、実業家の代の支援で東京の上野高等女学校へ通わせてもらいます。自由な校風のもとで読書をしたり文を書いたり、学校生活を謳歌していましたが、家のすすめで卒業後は裕福な農家に嫁がされることに。この結婚が嫌だった野枝は数日で婚家を飛び出し、高等女学校の英語教師だった辻潤のもとへ。代の骨折りもあってなんとか離婚することはできましたが、野枝を受け入れたことで、辻潤は仕事を失う羽目に。この頃助けを求めたことが縁で、平塚らいてうのもと青鞜社で働きはじめます。のちには編集長にもなり、「無規則、無方針、無主張無主義」というより自由で開かれた紙面作りを目指し、貞操や堕胎、廃娼などといった問題について紙上で議論します。辻潤とは結婚しないまま同棲を続け2児を儲けますが、別れて今度はアナーキスト大杉栄と暮らし始めます。大杉とも入籍はせず、極貧生活の中5人の子供をもうけて育てつつ、執筆活動を続け、労働運動に関わったりしていましたが、関東大震災のあと、甘粕大尉率いる憲兵隊に大杉栄と幼いその甥とともにつかまり虐殺されてしまいます。という人生が描かれていますが、これが栗原節で語られると、なんだかもう、すごく可笑しい。
野枝は、谷中村のはなし(足尾銅山から流れ出る有害物質のために悲惨な状況にあるはなし)をきいて涙をポロポロながした。ゆるせることと、ゆるせないことがある。そして、ゆるしちゃいけないことがある。自分もなにかしなくてはいけない。そうおもって辻にはなすと、なんかせせら笑っている。おまえ自分のこともろくにできないくせに、ひとさまの心配かよ、それはセンチメンタリズムだよと。これをきいて野枝は激怒する。いったい、おまえはなんなんだと。仕事をしないばかりじゃない、家事も育児もしやしない。たまに辻の母親が手伝いにきてくれたかとおもえば、女が仕事をするなんてどうなんだとか、ピイピイピイピイとうるさいことをいってくる。ちくしょう、ぜんぶわたしがわるいのか。いいたいことばかりいいやがって。しかも、それで辻がたすけてくれればいいものだが、そういうときはだいたい家の端っこでピーヒョロロと尺八をふいている。なんだんだ、こいつは!なんなんだ、こいつは!ダダイスト、辻潤である。はたらかないで、たらふく食べたい。
冒頭から最後までこの調子。が、可笑しいばかりではなく、深い共感、著者の野枝、最高!という思いのこもった文の合間合間に種々の書物からの引用が挟まれていて、野枝の生き様、その思想がしっかりと描き出されています。
とにかく思うままに、好きに、自由にという大胆でわがままな野枝の生き方や、彼女のこわしたかったもの、抗いつづけたものを思うと、いかに自分に奴隷根性がしみついているかを感じさせられます。が、だからといって「真っ暗な闇へと突っ走る」なんて怖すぎ、無理。アナーキーな生き方は全く出来そうにないですが、でも、いかに自分がいろいろなものに縛られているかということ、しかもそれに気づいていないことも多いってことは肝に銘じておきたいです。
地下秘密出版の好色本、青木信光による『好いおんな』シリーズの6巻に「土佐乞食のいろざんげ」という筆者不明の一文が掲載されているそう。内容はまさに詳細なエロ描写ありの「土佐源氏」。が、果たしてこれは宮本常一の手になるものなのかどうか?青木信光は、日本生活心理学会を主宰する性科学者、高橋鉄のところでみかけた「ガリ版刷り、紐綴じ」の「土佐乞食のいろざんげ」を底本としたと言っているそう。宮本常一と高橋鉄には交友関係があったらしく、互いの仕事を認め合うような仲であったとすれば、宮本が研究資料として高橋にこれを提供していたなんて可能性がないとはいえなさそう。また、内容についても、おかたさまの死に対する語り手の悲痛な思いを強調する描写があるなど、別人が性愛描写を加えただけのものとは見えない点や、使用される言葉や語法など叙述に違和感のある部分のないことなどから、宮本常一が書いたものとみて間違いないのではとのこと。
で、その内容ですが(この書には「土佐乞食いろざんげ」全文が掲載されています!)、「まえをなめたことがありなさるか」って質問にはなんと続きがあって、さらに「ほれた女の小便(しし)をのんだことがありなさるか」って聞いているではないですか……その辺から推し量っていただければと思いますが、そりゃあもうなめになめて何か飲んでますし、ぶっすんぶっすん、くちゃりくちゃり……。
まずこの「いろざんげ」が公表する意思はないまま書かれ、ここからエロい部分が大幅に省かれ、「民族資料」的色合いが強調された『日本残酷物語』中の「土佐檮原の乞食」、さらに「土佐源氏」ができたのではないかというのが著者の考え。でもって、この話は宮本によるかなりな創作、民俗学的資料ではなく「文学」と言わざるをえないとのこと。
え?!創作??
土佐檮原村の橋の下の乞食小屋に暮らす盲目の老人が語ったことじゃないの??「庶民自身の語りを再現した名品」じゃないの??目の前で老人が語っているかのような、訛りのある語り口調で綴られているため、私自身は完全な聞き書きのような印象を受けていました。
確かに実際に宮本は執筆の15年ほど前に土佐の檮原村で、馬喰をしていた盲目で話し上手な老人山本槌造から話を聞き、記録していたという事実はあるそう。が、その山本氏、当時は70代半ばくらいで私生児ではなく、さらには乞食でもなく、馬喰のあとは水車による製粉業を営み、失明して隠居の身となるも、決して橋の下に暮らすようなことはなく普通の家に暮らしていたとのこと。で、馬喰の仕事も、“馬”ばかりを扱い、運送業などもしていたそうで、“牛”ではないそう。いかにもな語り口調も、土佐方言ではなく、宮本にとってなじみ深い山口県周防大島の方言がベースになっているそう。
宮本はこの時の記録を含む採集ノート戦災で消失してしまっており、記憶を元に書いたことについては認めているとのこと。どこまでが山本氏の語ったことなのかは不明だそうですが、宮本自身の関心や知識をもとに書かれたと言わざるを得ない部分についてはいろいろあげられています。民俗学資料的とみなされてきた部分は、語り手の老人の知見ではなく、宮本自身のこれまでの調査による知識によるものじゃないのかって。
私にとってビックリなことが書かれていますが、この書、「土佐源氏」の記述を詳細に検討し、その虚実を検め、宮本の“これはあくまで聞き書きによるもの”という態度を批判するもの、というわけではありません。これは「文学」であるという前提にたつことで、なぜ宮本がこのようなものを書いたのか、作家宮本の内面を探ろうとされたものです。文学に対する強い思い、影響を受けた作家や作品、盛り込まれている性愛に対する考えや宮本自身の体験、関心などが考察されているのです。
執筆動機に関わりがありそうな作品として、『チャタレイ夫人の恋人』の他に木村艸太『魔の宴』があげられています。この書の刊行直前に命を絶った作家による自伝的作品で、文学的自歴とともに女性遍歴などが綴られているそうで、中でも伊藤野枝(栗原康による伝記『村に火をつけ、白痴になれ』、タイトルも衝撃的だけど中身もすごいです…やばい、しびれる、たまらない!)とのことについては詳細に書かれているらしく、気になります。この作品に共感を覚えるとともに、「事実を基とした作品執筆」へ向かう刺激を受け、さらに、柳田國男が見出し高校国語教科書教材に採用した『おあん物語』の「口語りによる表現」に影響を受け、「自らの体験的蓄積の中にある事柄を」老人の一人語りとして描くにいたったのではないかとのこと。
『土佐源氏』における女性との恋、性体験の描写には、それまでの宮本の女性への思いの全量が重ねられていると見てよいであろう。
『土佐源氏』の主人公の本当の実像、それはほかならぬ宮本常一その人に通じるものということになろう。
ところで、「肉体の結びつき、性愛の悦びから至る精神の結合と開放」をテーマとするなどと、著者はかなり原「土佐源氏」であると思しき「土佐乞食のいろざんげ」を高く評価していらっしゃいます。確かに「性器の俗称を駆使した胸を打つ性愛表現」にあたる細かな表現はとっても面白かったですが、下賎な男が慎み深いいいところの奥様に女の喜びを教えて身も心も虜にするというのは、男性妄想ストーリーのテンプレ感が強く感じられて、私としてはなんだかなーでした。同じことでありながら「土佐源氏」では胸打たれてしまったのは、エロが控えられている分、悲恋の印象が強かったからなのかしら……。
世界というものはときとして、ちょっとした偶然で人を目覚めさせようとするもの――そうして人をはっとさせ、心を釘付けにしてしまうことがあるのです。中には眉ひとつ動かす価値もない軽い偶然もあります。しかし多くの偶然は、それに応じて行動した人物が歩む人生の道筋を変えてしまうほどの力を持つ、ずっしりとした重みを運んでくるものなのです。
まさに奇妙な話ばかりですが、原題が“Ten Sorry Tales”であるように、どこか物悲しさのある物語が多いです。醜いものは恐れられ、か弱く小さなものは虐げられ、美しいものは命を奪われ、道楽者にはふりまわされ、そんな残酷で望ましくない、自分に対して冷たい世界に対し、それぞれの方法で立ち向かい、勝利する物語が多いのですが、まずそんな風に世界が冷たいことが悲しいですし、その世界を、もしくはその世界とのつながりを破壊した後は、決してもとの世界には戻れないこと、奇妙な世界に留まらざるを得ないこと、そこにも哀愁が感じられます。
でも、でも、それ以上に、なんだかすっごく可笑しくもありました。ブラックな可笑しさに満ちてもいるのです。そのせいで、誰か割を食う人もいて、なんというか、「10編のお気の毒様物語」なのかも。
海辺で孤立して暮らしていた老姉妹の話「ピアース姉妹」で見せられるのは、自分たちを拒絶した冷酷な世界に反撃した結果である、人間燻製でできたやさしく望ましい世界という、恐ろしくも可笑しい光景。
その光景を恐ろしいとか、物悲しいとか思うのはあくまで此方の世界から見た場合。もちろん当事者たちにとっては、そこは心地いい場所です。せっかく作った船が出入口よりサイズが大きくて地下室から出せなかった男の話「地下をゆく舟」にしても、自分を拒絶した(舟の出せない)外の世界に対し河川の氾濫をおこすという反撃をした結果、同志の集う素晴らしく心地よい場所にたどり着きます。
そんな風に此方ではない奇妙な世界に足を踏み入れることは、自分自身を変えることになります。
敷地内の洞窟に住む隠者となるよう金持に雇われるも、すぐに忘れられてしまった男の話「隠者求む」や、母親からの酷い一言がもとで家出し森に入った少年の話「もはや跡形もなく」にしても、自分を傷つけた世界に復讐はできても、自分自身が変化してしまったために、此方に戻ることができません。子供の頃から10年間眠り続けていた男の話「眠れる少年」の場合は、10年間の睡眠という奇妙な世界から戻ってこられたものの、身体はすっかり変化してしまっており、目覚めた此方の世界に馴染むことは困難です。
10編の中には、気持ちの良い勝利の話もあります。期待通りに宇宙船の現れない世界に対し、子供たちが市長に抗議するというかたちで反撃をする「宇宙人にさらわれた」の場合は表面的ではありますが、意地の悪い老馬に飲み込まれた上着のボタンを、小柄な少女が取り返したうえ、しっかりやりこめる「ボタン泥棒」などは、望ましくない世界に完全に勝利した物語です。道を間違えたことから、対岸の教会まで、小さな船に棺を載せ、その上に葬儀屋一家がまたがるという非常に可笑しな状態で川を渡る羽目になる「川を渡る」にしても、そんなシュールな世界から華麗に現実に着地する葬儀屋家長の一言は、小さな勝利なのだと思います。
10編中で、一番好きなのは「蝶の修理屋」。博物館にピンでとめられ展示されていた大量の蝶を、古物店で入手した“蝶の修理屋(レピドクター)の手術道具”によって蘇らせた少年の話。秘密結社に関わるというビクトリア朝後期の品であるらしきその手術道具だとか、その手術に必要な秘薬を得られる場所が、白髪染が店頭に並んでいるようなただの薬屋のカーテンの奥だとか、高価な薬品が実は咳止めドロップで代用できるとか、いいよねいいよね!博物館の展示物を盗み出すなど、短篇ながら非常に充実した冒険譚なのもいいですし、大量の蝶が天窓から羽ばたいてゆく美しい恐ろしさも素敵。
奇譚好きな私にとっては、とっても楽しい一冊でした。さらにこの書、表紙だけでなく、すべての物語にデイヴィッド・ロバーツの妖しさ溢れる扉絵が添えられていて、その点も非常に魅力的です。
私が面白いと思ったのは、長い年月を通し編集者たちによって時代や読者層に合わせた「よりよいテクスト」にしようとさまざまな改竄が行われてきたサー・トマス・マロリーの『アーサー王の死』についての論考。
19世紀初頭、サー・ウォルター・スコットが、そういった変更の加えられる前の原典に基づくという意味での「よりよいテクスト」として再刊を目指すも、底本予定の17世紀に出版されたスタンズビー版の序文には、冒涜的な台詞や迷信深い文言に手を加えた旨が記されているため、さらに古い版、最初の印刷本であるキャクストン版との校合をしたいと考えます。しかし、それはもはやこの世から失われてしまったかと思われるほどなかなか見つかりません。ようやくキャクストン版の所有者が、ジャージー伯爵夫人だということが明らかになりますが、母親の駆け落ちのせいで祖父からこの書の相続人に指名されていた彼女が、この書を実質的に手にするのは1819年のこと。その2年前にロングマンという出版社からスコットと同時期に再刊を思い立ったロバート・サウジーの編集によって『アーサー王の死』は再刊されてしまいます。実はロングマンはもともと、ジョン・ルイ・ゴールドスミドという稀代の蔵書家にこの再刊を託していましたが、何とこの人物、人妻と出奔してしまいます。そのため、かねて出版の打診をしていたサウジーの出番となったのです。
序文では大幅な改竄が記されていましたが、それは検閲の厳しい時代に弾劾を避けるための工夫であって、実際のテクストにはそのような改竄はなかったそう。序文を信じ、よりよいテクストにこだわったために、スコットはこの書の編集者になり損ねてしまったとのこと。お気の毒さまです。
そして、イギリスで出版されたイタリアの旅行案内の変遷についての論考も、とても興味深かったです。「handbook」という言葉、観光旅行が大衆化した19世紀にマレーという出版社が出した旅行ガイドのタイトルとして使ったのが嚆矢なのだとか。頻繁な改訂による正確で新しい情報を提供する姿勢など、他の旅行ガイドとは一線を画するものであったらしく、多くの人に利用されていたよう。そのガイドでのひどい評価が功を奏し、宿のサービスの質があがることもあったそう。また、同時代の旅行記には、「貴方のマレーのガイドによると」など、マレーのハンドブックの利用を前提とする記述があるほどなのだとか。
この書で一番へぇぇっと、なったのが『ガリヴァー旅行記』についての論考。お恥ずかしながら『ガリヴァー旅行記』読んだことないのですが、ガリヴァーって日本にも滞在していたんですね。架空の国々ばかりかと思いきや、1709年5月末、ザモスキという港町に着き、エドにいって皇帝に拝謁し、ナンガサクへ向かってオランダの船に乗り、そこからヨーロッパへ帰ったとのこと。
他にも作中日本に関する言及がちらほら見られるそう。「日本から帰航途中のイングランドの商船」にのったり、日本人船長が指揮する海賊船が登場したり、ラグナグ国王と日本の皇帝の間に固い同盟が結ばれていたり。
それもびっくりですが、何よりびっくりさせられるのは、スウィフトが日本関係の文献から、「ストラルブドラグないしは、それ以外にも、この作品に登場する島々の描写の一部を借用」した可能性について論じられていることです。
といっても、そんなことを言うのは論者原田範行氏がお初というわけではなく、アメリカのウィリアム・A・エディが指摘しているそう。
日本が当時、かなり入念に長期にわたって国を閉ざし、ヨーロッパからの影響を排除していたことを考えれば、イギリスの『ガリヴァー旅行記』を日本の作家たちが模したというよりも、オランダの商人が日本の物語をヨーロッパに伝えたと考える方が妥当であろう。
日本には、和製ガリヴァー旅行記というべき『和荘兵衛』(1774年出版)なるものが存在し、一般的には『ガリヴァー旅行記』(1726年出版)に何らかの影響を受けて成立したものとされているよう。が、このように、『和荘兵衛』のような物語の原型がすでに日本にあり、それがおそらくオランダ経由でヨーロッパに伝わるという逆の可能性についての説もあるのです。
当時の日本とヨーロッパとの書物の往来については今だ未解明なのだそうですが、多くの挿絵や古地図を含んだ『日本三才図会』だとか、「小人島」や「長人島」の書き込まれた17世紀半ばに作られた「万国総図」や「万国総界図」といった、日本語を解する必要のない視覚的なものを、駐オランダ大使を務めたオランダと関わりの深いサー・ウイリアム・テンプルの秘書をしていたスウィフトが目にし、インスピレーションを受けた可能性があるやもとのこと。
ちょっと、驚きじゃないですか??
しかし誰もが考えるのは、どうして自分は運に見放されているのか(あるいはせめて自分が望むだけの幸運に恵まれないのか)、どうして自分ほど価値のない他人に許された恩恵を自分は受けられないのか、ということだ。そして不幸が自分の欠点のせいだとは誰も思わないので、その張本人をどこかに見出さなければならない。デュマはみんなの(個人として民族としての)不満について、その挫折の原因を説明してやった。雷鳴の山に集まった誰かがおまえの破滅を計画したのだと……。
<略>
人びとはすでに知っていることだけを信じる、これこそが<陰謀の普遍的形式>の素晴らしい点なのだ。
うわーーーっ、もう、すっごいな。歴史的事象に虚構が巧みに、お見事としか言いようのないほど巧みに絡められた、お得意の秘密結社やら秘儀やら陰謀やらの要素ももちろん盛りこまれた、謎に満ちた面白いストーリーにして、なんだか神妙に受け止めねばならない感もある、読みやすいけど読みにくい、大変な一冊でした。
『小説の森散策』の6章「虚構の議定書」で詳細に語られていた、先行作品からさまざまな要素を取り込み、都合よく差し替え、付け足すことで、『シオン賢者の議定書』というユダヤ人の大規模な陰謀を記した偽文書ができあがってゆく様が、架空の人物、ユダヤ人に誘拐され、儀式に使う血のために切り刻まれた子供の殉教者シモニーノにちなんだ名前を与えられ、ユダヤ人の恐ろしさを教え込まれて育ったシモニーニという文書偽造に長けた公証人を主人公とした物語として描かれています。実在したのであろう複数の無名の人物を、シモニーニに置き換えて狂言回しとし、現実に影響を与える虚構の力の悪用、多くの人から望まれ受け入れられる陰謀論が、いかに作られ利用されてきたのかが物語られています。
フリーメーソンやらイエズス会やらユダヤ人やらによる陰謀の存在、自分たちにとって都合のいい敵を作り上げたいさまざまな立場のものの要望に応えて、シモニーニはその根拠の捏造に関わってゆきます。複数の顔を使い分け、あくどい取引を重ねるシモニーニは、「目的は手段を正当化する」という言葉のままに、邪魔な存在を手にかけることも厭いません。
偽文書を作成する者は、過去を“人工的に再製する”者ですが、偽文書作成を生業とするこの物語の主人公は、冒頭では記憶を失っており、手記を書くことで、失われた過去を再製してゆきます。記憶喪失とともに人格まで二つに分裂してしまっており、シモニーニとダッラ・ピッコラという二つの人格が、互いに思い出せる過去を書き、それを互いに読むことで、徐々に過去が明らかになってゆきます。精神の地下に押し込まれた過去が明らかになることで、住居の地下に押し込められている死体の謎も明らかに。
そうそう、そんな風に、地下が気になる小説でした。パリの地下が冥界的なのは、作中ちょこっと言及されていた『レ・ミゼラブル』も一緒ですが、『レ・ミゼラブル』においては再生のための通過儀礼としての死を象徴するものだったのに対し、この物語では完全に冥界のよう。光が見えても、主人公はそこへ向かいません。
この物語の始まり、記憶を失った状態でシモニーニが目覚めたことは、サタニストの儀礼において薬物で理性のたががはずれた状態で女性と目合ったことに端を発します。そこで主人公は死を感じましたが、シモニーニにとって生への欲望は主に食欲、こだわっている美食に結び付けられ、性的な欲望は死へのそれに結び付けられているかのよう。物語の結末では、再び薬物によって理性のたががはずれた状態で、欲望のままに地下という冥界に赴いた感じがします。
それにしても、この物語がただのフィクションではないということが、本当に恐ろしいです。シモニーニが「今でも私たちのあいだに存在している」ということは、常に心に留めておかねばならないのでしょう。
こうして読者と物語、虚構と現実との複雑な関係を考察することは、怪物を生み出してしまうような理性の眠りに対する治療の一形式となりうるのです。
『小説の森散策』ウンベルト・エーコ
これは自分が死んだ後に絶望の闇が残るのではなく、人々が愛と寛容で満たされるよう、手を尽くした人の物語だ。
リュドミラ・ウリツカヤ
ロシアからアメリカへ亡命してきたユダヤ系の画家アーリクの死について書かれた物語です。人が死にゆく様やそれを送る人々が描かれていますが、全く陰鬱なものではなく、さびしさはありますが、時に陽気ですらある、愛と許しに溢れた気持ちのいい物語です。
アーリクは、過去に縛られず、ひょうひょうと「常に自分のやりたいようにやっていて、だからこそ、そうして色々なものを平等に好きになれ」る魅力的な人物。さまざまな人を愛し、さまざまな人から愛されているため、彼の死に、宗教、人種、民族等の異なるさまざまな人が集まってきます。そこには不和はなく、不思議な一体感があり、かつてあった確執や偏見すら、そこでは溶けてなくなってしまいます。
体中の筋肉が衰えてゆく難病によって徐々に呼吸が困難になって死に至る……。病気のために四肢が動かせないアーリクは、“両手首と両足首を釘でうちつけられ、体を支えられなくなることで呼吸困難に陥って死に至る”磔刑にされたキリストのよう。
延命治療を望まず自宅であるアトリエで末期を過ごすアーリクの周りには、彼の妻だけでなく、元彼女や愛人など、彼が愛し彼を愛した女性たちや、友人たちが寄り添っています。
あなたは素晴らしい女性に囲まれている。みなさん表情がじつに良い。誰もあなたを置き去りにはしないでしょう。まるでキリストに香油を塗りに来る女たちのように……
そして死後、葬儀の後に、カセットテープに吹き込まれた声によって、“復活”すら行ってみせます。それはまさに恩寵。残された人々に愛と、これからの生への祝福を与えるものです。
神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
(ヨハネの第一の手紙 4章)
アーリクがロシアからの亡命者であるため、彼の周囲には同じように祖国を後にした人びとがいます。彼らがそれぞれ抱えるものもしっかり描かれていて、これはロシア人のディアスポラの物語でもあります。そして時は1991年の8月、死にゆくアーリクを囲む人々は、祖国の体制の終焉をも目にすることになります。
なにかが終わって、なにかが始まる。大切な人の不在という大きな空白を満たす大きな愛を与えられた人びとは、それを抱えて、「だいぶ頑張んなきゃいけない」けど、またしっかりと新しい明日を生きるのだと信じられる物語でした。