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完璧な文体と完璧な短篇技巧をひたすら堪能すればいい。
種村季弘解説より(『チリの地震』河出文庫)
2016年岩波文庫春の一括重版の一冊です。クライストが残したわずか8編の小説中、単独で岩波文庫にはいっている『ミヒャエル・コールハースの運命』以外の7編が収められています。河出文庫の種村訳『チリの地震』には表題作の「O侯爵夫人」以外の6編は入っているので、かなりかぶっているのですが、未読の表題作と、訳者相良氏によるクライストの小伝に惹かれて手にしました。
小伝では、「彼の作品はその大部分が悲劇である如く、彼の生涯それ自身も立派な一つの悲劇であった」といわれる34年の短い生涯について簡単に記されています。どうも不向きと悟って軍を退いて大学で学ぶも学問に失望し、我侭が聞き入れてもらえず恋に敗れ、これまでのドイツ文学史上に類を見ない大傑作を書こうと意気込むも完成させられず、書いた戯曲が上演されるも、演出や俳優があわずに不評に終わり、文壇の重鎮ゲーテには嫌われ、劇界の大物も激怒させ、愛国主義に走って書いた作品はあまりに近代的過ぎて受け入れられず、さまざまな援助をしてくれていた親戚からは愛想をつかされ、発行した新聞は廃刊となり、傾く祖国の運命と、不遇な我が身に絶望し、ついにある女性と銃で心中を図ってしまいます。優れた才能をもちながらも時代に受け入れられなかったことや、我の強い性格の難やらで、上手く立ち回れず身を滅ぼすことになった人生はまさに悲劇的……っていうか、ダメ男感しかない??ちなみに『チリの地震』の種村氏による解説では、もっとひどい書かれよう。相良氏がウュルツブルクへの旅の目的について「結婚生活の障害となるべき肉体の先天的欠陥」の治療のためとやんわり書かれているところなど、「性的不能(過度のマスターベーション、同性愛的傾向)の治療」と書かれてます。( )内が気になりすぎる。
相良氏は、28歳年長のゲーテがクライストを嫌ったのは、ゲーテ自身が必死に脱却を図った“ウェルテル病状態”を、「自分の超克した過去の姿を、濁れる情熱の日を、まざまざとクライストにおいて見る思いがし」たことにあるのではと指摘していらっしゃいます。ゲーテがそこを嫌悪せず、若さだと暖かく見守れる大人であったなら、クライストの運命も少しは違ったものだったのかも。たぶんゲーテもかなりこじらせていたということでしょう。でもまぁ、むしろクライストのほうが、誌上でさんざんゲーテに攻撃したりしたりしなければよかっただけかもしれませんが。
さて、表題作「O公爵夫人」、悲劇かと思いきやハッピーエンドな物語でした。北イタリアM市の要塞司令官の娘である、若く美しく身持ちの固いO侯爵未亡人が、あるとき新聞にとんでもない広告を出します。自分ではまったく知らない間に子どもを身籠ってしまったので、父親にあたる者は、結婚するつもりなので名乗り出て欲しい、と。続いて物語は過去に遡り、戦争のため、M市にロシア兵が攻め込み、要塞が激しい攻撃に晒されていた時のことに移ります。逃げ遅れたO公爵夫人は、ならず者の兵士たちに捕まり乱暴されそうになっていたところを、ロシア軍の士官の一人に助け出されます。そして、安全な場所に連れて行かれた彼女は、そこで気を失ってしまいます。ここで読者は、はっはーーんと事態をなんとなく察することになります。状況が落ち着いた数ヵ月後、助け出してくれた士官、F伯爵が、両親、兄とともに暮らすO公爵夫人のところに求婚にやってきます。不自然なほど強引に返事を迫るF伯爵に、読者はいよいよ「はっはーーーん」ですが、何も気づいていない公爵夫人側はとまどうばかり。それでも一応色よい返事をして帰ってもらうも、ここでO侯爵夫人が妊娠していることが明らかになり、夫人の両親、兄はそれを夫人のふしだらな行いの結果と考えて激怒し、彼女を追い出してしまいます。そこで彼女は、冒頭の広告を出したのです。その後母親の一芝居もあって、こっそり誰かとよからぬ関係になっていたに違いないと思っていた両親の誤解が解けたところへ、お腹の子どもの父親として名乗り出てきたのがF伯爵。これで二人が結ばれれば、万事めでたしめでたしですが、そう単純にすすめないのがクライスト。O公爵夫人は強く強くこれを拒否します。助けてくれた時には天使に見えていたのが、今や悪魔にしか見えなくなったのです。賞賛から嫌悪へ、上がって下がるこの起伏の大きさこそがクライスト。
「チリの地震」にしても、道ならぬ関係のため、処刑されそうになっていた女性と、囚われの身の男性が、思いがけない震災によって救われ、大きな希望を抱くも、たちまち悲劇の渦に、しかも無関係な人物を巻き込んで飲み込まれてゆく、ものすごいアップダウンストーリーです。そのあまりの不条理さと、そこに果敢に立ち向かう人の姿に胸打たれずにいられません。
さる侯爵の暗殺事件の被疑者から、アリバイとしてあげられた事件当時の逢瀬の相手に名指しされてしまった貞淑な女性が、そんな絶望的状況から救われる物語である「決闘」にしても、起伏具合はすごいです。彼女を愛し信じる男性が、彼女の無実を神に明かしてもらうため、逢瀬のあったことを証言している被疑者に決闘を申し込むも、相手には小さな傷しか負わせることが出来ず、自身は大怪我を負って敗北し、かえって彼女の不貞を神によって断定されたかのようにしてしまうという絶望的展開をまず迎えるのです。
「聖ドミンゴ島の婚約」は、黒人と白人が対立する中、非常に緊迫した危機的状況から脱した安堵の瞬間に、誤解による悲劇的な一撃をもってきます。さらには音楽による恐ろしいような奇跡を描いた「聖ツェチーリエ」においても、奇跡のおこる前には、今にも暴動が起こりそうな緊迫感の高まりが描かれています。
そんな目まぐるしい劇的な展開ゆえに物語は非常に面白くなっているのですが、そんな過酷な展開に巻き込まれながらも、勇敢に振舞う人物や、意思をまげずに貫き通そうとする人物の存在によって、ただ面白いだけではない深い印象が残されもします。
劇的エピソードてんこもりな「拾い子」なども、ストーリー以上に主人公の強烈な復讐心が印象的。手ひどく自分を裏切った養子に対し、壁に頭を押し付けて脳味噌を搾り出すだけではあきたらず、自身の魂の救済は棒に振ってでも、地獄まで追って行って、もう一度復讐したいと言うのですから。
悪天候のために一人アフリカの港町ウィダに取り残されてしまった水夫のウィリアム・ターゲットは、色々あってダホメーの王女テューリップことグンデメイと恋におち、王の許しを得て結婚します。しかし、数年後ゲゾ王が亡くなり、折り合いの悪かった息子が王位を継いだため、身の危険を感じ、幼い息子サンボとテューリップを連れ、テューリップの資産である真珠や砂金・象牙を手にアフリカを去ります。イギリスに戻ったターゲットはテューリップの資産を元に、小さな農村で『水夫の帰郷』という名の店を借り、居酒屋を始めます。人付き合いが得意なわけではないものの、それなりの人望も得、自らの手で改装した店の心地よい雰囲気もあって商売自体は上手くいきだしますが、周囲からの黒人の妻と子どもへの視線は冷ややかで、時に強い悪意を向けられることもあり……。
この物語の面白い点は、黒人の奥様、テューリップが、奴隷貿易で名高いダホメ王国の王女にされていることです。しかも父親は残虐で聞こえたゲゾ王。イギリスで差別的な目で見られるテューリップ自身、奴隷として売買される黒人たちについては、「本当なら、掟に従って年の祭りに殺されるはずのろくでなしばかり」という見方をしているのです。
また、呪術的世界に生きる彼女の目を通して、異文化としてのイギリスの姿が描かれていることも。さまざまなことに対する、テューリップの世界観による解釈が非常に面白いのです。牧師は「黒ずくめの魔術師」であり、キリスト教は漁に関わる海の神のように理解されます。そのため、教会で結婚式をあげた際には、こっそり聖水盤に海の神への進物を捧げちゃいます。
「世界中、どこへ行っても人間はみな同じ」、そう思って、テューリップは呪術的世界観で、ターゲットは水夫としての経験を元に、事に対処するのですが、現実は彼らの思惑どおりではありません。しかし一方、テューリップは、ダホメの人びとが「残酷で、野蛮で、血を見ることの好きな人種」なのに対し、イギリスには「悪逆非道を働く人」や「冷血漢」はおらず「みんな、いい人ばかり」と、違いを語っていましたが、実際には血を見るのが好きなイギリス人が存在し、イギリス人による非道な行いによって悲劇が迎えられてしまいます。開けっぴろげか隠されているかの違いだけで、やっぱり「どこへ行っても人間はみな同じ」なのかも。血に塗れた国を後にしてきたはずが、ここでも血塗れの暴力は変わらず存在するのです。
コナン・ドイル自らシャーロック・ホームズよろしく調査に乗り出した冤罪事件の一つ、ジョージ・エイダルジ事件を取り上げたジュリアン・バーンズの小説だなんて、面白くないわけないではないですか!と思って手にしたのですが、案に違わず非常に非常に面白かったです。
結構なボリュームでしかも本文は2段組なため、ちょっととっつきにくいところはありましたが、さすがはバーンズ!色々唸らされることしきりでした。
コナン・ドイルとジョージ・エイダルジの名前を早々に出してしまいましたが、この小説自体は、アーサーとジョージという誰とも分からない二人の人物の子ども時代から語り始められます。いかにしてそれぞれ、“コナン・ドイル”、“ジョージ・エイダルジ”になっていったのかがまず語られているのです。医学を学び、中でも眼科を専門とする医者となりるも、本業はふるわず、その合間に書いた小説がヒットして人気小説家となってゆくアーサー、対するジョージは英国国教会の司祭であるパールシー系(ペルシャからインドに逃れたゾロアスター教徒の子孫)インド人の父とイングランド人の母との間の子どもであり、法律を学んで事務弁護士となり、独立して事務所を構えます。
ジョージ一家は、嫌がらせをされたり、差出人不明の悪意ある手紙が届いたりといった不穏な出来事が続いていたため、警察に相談していたのですが、全く相手にされないどころか、他家や警察にも届いている匿名の手紙を書いているのはジョージだと決め付けられてしまいます。
それだけならまだしも、近隣で続いている家畜の腹が裂かれる事件の犯人と疑われ、とうとうジョージは逮捕されてしまいます。法律に守られた正義を信じるジョージの意に反して、法廷では、決定的な証拠がないにもかかわらず、検察側がさまざまなことを積み重ねて証拠とし、陪審員たちの見方を誘導してゆくことで、ジョージは有罪とされ、7年の実刑判決が出されてしまいます。
思慮深い沈着さは悪魔的狡猾さにすり替えられ、エイダルジという名前はイダルジにされ、ジョージ自身は検察の作り上げた犯罪者にされてしまったのです。
ところが、監獄に収監されて3年後、ジョージに下った評決に対する世間の抗議の声ゆえにか、なぜか突然釈放されます。有罪判決が覆されたわけではなく、正式な説明もないままの仮釈放。それゆえ、補償金もなければ、弁護士名簿への再登録もされ得ない宙ぶらりんな状態。
そんな状況をなんとか変えられないものかと、ほうぼうへ働きかける中、ジョージは、かの名探偵を生んだ作家アーサー・コナン・ドイルにも事件についての記事を送付します。
さて、一方のアーサー側はというと、なんと若い女性ジーンとの恋愛話が延々続きます。アーサーにはトゥーイことルイーザという結核を患っている奥様がいるので、不倫なわけですが、アーサー的には肉体的な関係を持っていない以上、全くやましくないとの考え。トゥーイには隠しつつも、自身の母親に会わせて認めさせたりしています。身に覚えのない罪に問われて苦しむジョージに対し、のん気な話のように見えますが、アーサーにとっては、ジーンとの恋愛こそが「有罪か無罪か」が問われる問題なのです。やましいところはないと考えるアーサーに対し、妹コニーの夫ホーナングは、関係が肉体的か精神的かは問題ではなく、それはトゥーイはもちろん、アーサー自身や家族、それにジーンの「名誉を傷つける」振る舞いだと告げるのです。騎士道精神を尊ぶアーサーにとっては、大打撃の有罪宣言。
そんな中、長く患っていたトゥーイが亡くなります。その結果アーサーは意気消沈して体調を崩し、ジーンとのこともどうすればいいのか決めかね、自分自身の進むべき道を見失ってしまいます。そんなときに、ジョージからの手紙が目に留まったのです。
「騒ぎを起こすぞ。奴らの目を覚まさせてやる。無実の人間をこんな目に遭わせたことを後悔させてやる」
無罪のつもりが有罪と見られていた(自分自身でもやっぱりやましい)アーサーが、無罪のはずが有罪と見られてしまっている人物を救おうと乗り出したかのよう。
(エイダルジもこちらも写真は『コナン・ドイル伝』ダニエル・スタシャワー著 東洋書林より)
そしてここから、ホームズよろしくアーサーが、ワトソン役として秘書兼口述筆記者のウッドを連れて、この事件の捜査に乗り出します。姫を颯爽と助ける騎士のごとくアーサー大活躍!と、なるかと思いきや……。確かに、一目見てジョージの目が悪いことに気づき、犯行の不可能さを指摘したり、真犯人を推理したりと色々頑張りますが、なんだか探偵小説のパロディーのような書かれっぷり。しかもアーサーによる真犯人の決め付けは、警察側がジョージに行ったことをなぞるかのよう。名探偵の活躍というよりは、軽信家の猛進のように書かれています。それにジョージについて、これまで語られることのなかった後ろ暗い部分まで出てきます。
この小説の面白さの一つは、アーサー・コナン・ドイルが、困難に陥っている人を救済するヒーローとしてではなく、そんな風に相当なポンコツとして描かれていることです。何と言っても「かあさま(マアム)」への態度、ってか「かあさま」って呼び方からしてもう…。ジーンからの手紙をすべて転送し、おまけに恋の相談にのってもらったりとか怖すぎ、既婚のおっさんがですよ!「見ること」「観察すること」を重視し、合理主義を唱えながらも、それゆえにかえって心霊主義にとらわれてゆく姿もしっかり描かれています。さらに自分がこれと信じたことに関しては、冷静さを失い猛進してしまうところも。
ジョージとはじめて会った際、別れ際にアーサーは「私は君が潔白だと思うのではない。君が潔白だと信じるのでもない。私は君が潔白だと知っているのだ」という力強い言葉を残しましたが、これは心霊主義に対する態度「証の問題ではない。わたしは真実を“知っている”」と同じもの。そのような状態だからこそ、心霊にしろジョージの事件にしろ、さまざまな“証と見えること”が見つかるのです。
アーサーの死後開かれた大規模な公開交霊会に出席したジョージが、3階の席から舞台上にアーサーのために用意された椅子を双眼鏡で見ていた際に隣の席の女性に言われた台詞、「信じる者の目にしか見えません」、まさにその通り。
この小説では、それぞれの人物の信じるもの見えているもの、それぞれの乖離具合がこれでもかと描かれています。自分の信じるところは見えたとしても、逆に何と多くのことが見えないことか。ここまで、この小説についてつらつら書いてきましたが、これだって、わたしがこうだと信じたこの小説の姿に過ぎず、別の方からすれば全く違うものであることでしょう。
今、何が見えるのか。
これまで、何を見てきたのか。
これから、何を見ることになるのか。
「不思議なくらい生きるのが楽しい!!!!」
うわー、これ、非腐女子の方はどのような感想をもたれるのか非常に気になります。
筋金入りと呼んで問題なさそうな、商業BL本だけでなく薄い本(同人誌)も読む、推しキャラのグッズも買い、同人誌即売会にも足を運ぶ、漫画とアニメを愛するお絵描き大好きな腐女子、つづ井さんの非常に幸せそうな日常が描かれた漫画です。その突き抜けた楽しみぶりに、ソフトな腐女子でしかない私は瞠目させられることしきりでした。さらにそのうえで、非常に可笑しかったです。驚きも呆れも通り超えて、ただもう可笑しくてしかたない。
とはいえ、共感ポイントも多いです。萌えが人に生きる希望と“壮大な”感謝の念を抱かせるというのは、非常に非常によくわかります。私もここ数ヶ月の間に、『鉄血』観ながら、何度宇宙に感謝したことか。ホントもう、ありがとうございます!!!!
あまりに急激に萌え高ぶってしまったときには、一旦現実にむきあって落ち着かないとどうにかなりそうというのも、非常によくわかります。他人の二次創作にしろ、自分の妄想にしろ、深く自分の中で腑に落ちてしまった場合、ええ、ええ、それが自分の中で公式になりますね。
あと、複雑すぎる人間関係とか、登場人物を全員男性にすると、驚くほどすんなり頭にはいることとかも。
まぁでも、さすがに、好きなキャラについて語りつつほんとに泣いてしまったりとか、マネージャーになりきってフェルトで手作りお守りを作るとかはない……、手作りお守り作っている間だけは「彼らと同じ次元に生きるマネージャー」でいられるって知って、よし、フェルト買いに行こうとは思いましたが。
つづ井さんが「生きるのが楽しい!!!!」っていうのは、そんな風に自分で自分を楽しませることに非常に長けていることが大きいのでしょう。自分の妄想に没入できる能力というのか。あとは、良き腐女子友だちにめぐまれていることも。まぁでも、萌える対象があるというだけで、日々幸福を感じる瞬間が多いのかも。
↓こちらで連載中だそうで、何作か読むことができます。
http://www.comic-essay.com/
え?何がって?決まっているじゃないですか、岩波文庫バレンタイン企画、『ナミ彼!』ですよ!!
擬人化と6つ子が世を席巻している昨今、ついに岩波さんも動きましたね。
ご覧になっていない方のためにざっくり説明すると、“『ナミ彼!』とは、文庫を擬人化したイケメンたちと、栞になってしまった女の子が学園で恋愛するwebコンテンツ”です。
学園で平和に毎日を過ごしていた貴方は、ある日突然“栞”の姿に!
自分の姿にショックを受けている貴方のもとに突然現れたイケメンの5つ子。
…なんと彼らの正体は文庫だった!!
彼ら曰く、元の姿に戻る方法はただ一つ。
彼らのうちの一人を選んで挟まれること……。
第一話 「拝啓、神様 ペラっとした私に幸せは訪れますか?」公開中
長男:岩波赤帯「おっと、危ない。そんな格好でフラフラしてると、どこかへ飛ばされちまうぞ。ほら、俺がしっかり挟んでおいてやるよ」
次男:岩波青帯「待たせたな、青帯ガール。イタい?キモい?それって何のメタファーだ?フッ、俺が罪な男ってことか。お前になら、挟まれたいページを選ばせてやってもいいんだぜ」
三男:岩波緑帯「まったくバカですね、貴方は。そんな薄着だから、寒いんです。さっ、早く私のカバーを着てください。え?まだ寒いんですか?まったく仕様がないですね。ほら、早く挟まってください」
四男:岩波黄帯「え?僕に女の子がいっぱい挟まってるって噂聞いたって?アハハ、それって嫉妬してくれてるのかな?バカだなぁ、あれはフ・セ・ン。僕が挟みたい栞は君だけだよ☆」
そんな感じで岩波文庫各帯からせまられちゃって、あら大変。わ〜っ悩ましい、これは推し帯決められないっ!とか、思うと思うでしょ。ところがですよ、お気づきですか皆さん。そう、白帯、五男:岩波白帯くんがいないじゃない。赤、青、緑、黄がグイッグイせまってくる中、あれ?白帯どうした??って思っていたら、いました、いましたよ、校舎裏でしゃがみこんで猫に話しかけていました。
五男:岩波白帯(猫にむかって)「私さん、栞になってしまって大変そう…。助けてあげたいけど、僕なんかじゃ何もできないよね……白帯なんていいながら、こんな濁った色の僕なんて」
えーーーーーーっ!!そんなことないっ!全然ないっ!
彼から彼カバー(上着)をかけてもらうのもうれしいですけど、寂しげで寒々しい白帯の背にはむしろ、手編みのカバーをこっちがかけにいきたい!!
もう、もうね、「寡黙でマイペース、ちょっと卑屈な寂しがりや」なんて書かれたプロフィール見ちゃったら、白帯一択ですよ!!
それにビジュアル、5つ子だから基本的には全員同じ顔で、それぞれかけてる眼鏡が違うというのは最高ですが、白帯は瓶底ぐるぐる眼鏡って。服装にしても、それぞれ平福百穂画伯による文庫裏表紙の壺の絵がプリントされた自分色のパーカー(通称波壺パーカー)の上から制服の上着を着ていますが、白帯だけ白衣着てるし。いちいちこちらの萌えツボをついてくるじゃない。
だいたいこの企画、「推し帯総選挙、読んだ推し帯の文庫名を挙げろ♪」って、白帯圧倒的に不利!?!?まぁ黄帯もですが。かくなるうえは、頑張って推し帯投票しなくっちゃって、せめて黄帯には勝たせたいって思って、ただ今岩波文庫解説目録の白帯ページを眺めているのですが……はぁ〜、悩ましい、バレンタインまでに私にでも読めそうなのってどれなのよ〜!!!
ってことを、ロッテの「ガム彼!新撰組」見ながら、昨日考えたって話。
おそまつ!あ、ちがった、いわなみ!(締まらない)
We read to know we are not alone.
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ツルッと読んで、ツルッと感動して、ツルツルーッと泣かされましたが、お手軽な感動物語というわけではありません。
一番の印象は、えらく“死”を挿入してくるなぁということ。
アリス島という島に一軒だけある本屋、そこの店主であるA・J・フィクリーは、40がらみの男やもめで、事故で亡くなった妻のことを引きずっており、規則的に店は開けつつも、アルコールに溺れる日々を送っています。ある日、酔っ払って寝込んでしまった間に、手元にあった稀覯本『タマレーン』が無くなってしまいます。盗難事件として警察に持ち込むも、何の手がかりも得られません。自宅を兼ねた書店に貴重品が無くなってしまったことから戸締りに頓着しなくなったフィクリーの留守中、今度はなんと、2歳の女の子が店内に置き去りにされています。しかも、その子の母親は翌日、海で溺死体となって発見されます。それは、ハーバード大学で奨学金を得ていた21歳の優秀な黒人女性。頼れる家族もなく未婚の母となってしまったことで、学業がうまいくいかなくなり停学となっていたらしく、思いつめての自殺であろうと結論付けられます。残されたとても可愛らしい幼子、マヤを、ほんの一時のつもりで預かっているうちに、すっかり情がわき、フィクリーは彼女を養子にします。マヤがいることで、妻の事故の時から関わりを持っている島の警察署長ランビアーズをはじめ、何かと島の人びとが店を訪れるようになり、本を勧めたり、読書会を開催したり、気難しく人付き合いの悪かったフィクリー自身も、少しずつ変わっていきます。島の人びとともそうですが、取引のある出版社の営業の女性アメリアとも、ある一冊の本をきっかけに惹かれあうようになったり、そもそもマヤがこの店に置き去られたのも、「本のたくさんあるところで育ってもらいたい」という母親の気持ちからであったり、本が人と人とをつないでゆく物語です。
また、書中、種々の小説が話題にあがっているだけでなく、各章のタイトルは、創作の才能を持つ成長したマヤのために、フィクリーが選んだお勧めの短編名になっており、冒頭にはそれを紹介するマヤへのメッセージが掲げられていたりと、本好きへのフックが随所に散りばめられています。私は、書店で孤児が育てられる物語ってだけで、グワっと食いつきますね。
“死”が多いと書きましたがこんな感じです。妻を事故で亡くしたフィクリーの店へ新しい担当としてアメリアがやってくるのは前任者が亡くなったため、マヤがフィクリーの養子となるのは母親が自殺したため、フィクリーとアメリアの心を繋いだ本は老妻の死について書かれたもの、フィクリーの亡妻ニックの姉イズメイがろくでもないない結婚生活から開放され新しい恋人を得るのは夫が事故死したから、フィクリー自身も死亡。他にも、フィクリーが『タマレーン』を入手したのは遺品セールでですし、さらには親の死や流産も登場します。読み継がれる書物に対して、人の命のなんとも儚いこと。でも、その切ない儚さがあるからこそ、この物語の肝である“つながること”、“つながることで続いてゆくこと”が胸に迫るのです。
また、この物語での人の死は、単に“喪失”として描かれているわけではありません。“死”の多くは、新たな何かとのつながりを介するものとしても描かれています。
個々の人の命は儚いものながらも、つながることで、永遠に続くものがあるということが描かれているのです。
フィクリーが知ったそれは、「愛」。
死期の迫る病床のフィクリーは、マヤにこのことを、自分が気づいた大切なことを一生懸命伝えようとします。「愛(ラブ)」と。でも、脳の腫瘍のせいで言語が失われていっているフィクリーの口から発せられるのは「てぶくろ(グラブス)」。
だからといって、この物語は悲劇ではありません。なぜなら、それを伝えるのに必要なのは言葉じゃないからです。それにそれは、もうすでに充分マヤに伝えられているのです。