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「ものわすれ」
イーディス・ウォートンについてどう思うか、ですか。
ええと、たしかによく聞く名前ですね。
大変面白く、大変好き!と思うと同時に、はたと困ってしまったのは、何年も前にぺらっと数ページ読んだだけで、『ほとんど記憶のない女』を積読山のどこかに埋もれさせちゃっているから。今すぐ見つけ出して読みたいところですが、見つかりません。まさかまさか、足が生えて出て行った?!、ほらやっぱり可愛いというより怖いじゃない!!
短編集ではありますが、短編小説というには非常に短いものが多いです。表題作「サミュエル・ジョンソンが怒っている」にしても、たったの1行のみ(『スコットランド西方諸島の旅』のところで引用したあの1行がすべてなんです)。枝葉どころか幹までもが大胆に切り取られ断片のみしか書かれていないにもかかわらず、書かれていない世界をさまざまに読まされてしまう、カニッツァ図形のごとく錯視ならぬ錯読させられる作品といえばいいでしょうか。いやいや、背景や世界を補完する必要は何もなく、書かれている断片こそが、断片だからこそ面白い作品も色々。どういえばいいかわかりませんが、どの作品も、刈り込み具合が絶妙な上手い短編と、シュールな一発芸がブレンドされたような印象。しかも作品によってそのブレンド加減はさまざま。なんであれ、短いからこその面白さが際立っている作品揃いです。
面白くない作品など一つもなかったのですが、中でも特にいいなと思ったのは、「古い辞書」と「ボイラー」。
「古い辞書」は、古い辞書からはじまって、さまざまなものと自分の子供を並べてその扱いについて述べているのですが、それがもう絶妙、ズレた組み合わせのようでいて、ぴったりはまるのです。子育て中のお母様がたに是非読んでいただきたいような。
私が古い辞書のためにしていることの全部とはいかないまでも、いくつかは息子にしてあげてもよさそうなことだ。たとえば私は辞書をゆっくりていねいに優しく扱う。古いものだからと思いやる。敬意を持って接する。使う前には手を止めてよく考える。能力に限界があることを知っている。けっして無理はさせない(たとえば机の上に広げて置くなどというようなことは)。多くの時間、そっとしておく。
「ボイラー」は、この短編集の中では長い目の作品になります。記憶力や足腰の弱くなった老父について娘視点で書かれたもの。父親との手紙のやりとり、父親の変化、それへの思い、とりとめなくもありますが、それでいて深くも感じられ、かなり切ないものの、面白くもあります。
とりあえず、どこかへ逃げた『ほとんど記憶のない女』を探します。
評価:
芥川 龍之介,朝井 リョウ,浅田 次郎,荒川 洋治,有栖川 有栖,池内 紀,石川 淳,伊集院 静,いとう せいこう,稲葉 真弓,江國 香織,小川 洋子,開高 健,角田 光代,紀田 順一郎,草森 伸一,久世 光彦,窪田 空穂,小池 真理子,最相 葉月,椎名誠,庄司 浅水,須賀 敦子,鈴木 清順,園 子温,高山 文彦,田村 隆一,多和田 葉子,土屋 賢二,出久根 達郎,寺山 修司,常盤 新平,栃折 久美子,外山 滋比古,長嶋 有,西村 賢太,萩尾 望都,藤野 可織,穂村 弘,堀江 敏幸,万城目 学,宮内 悠介 キノブックス ¥ 1,728 (2015-07-17) |
ということは、これって、いわゆるツンデレ??「ほ、本のことなんて、ぜんっぜん好きじゃないんだからねっ!!」そういうこと??
「本なんて!」と言ってツンケンしているツインテール美少女ちゃんに対し、「へっへっへ、口ではそう言っていても、こっちはどうかな?」、「ちょっ、ちょっと、やだ、どこさわっているの、やだ、やめてそんなところ開かないで」、「“中でも、常に欲しいと思っていたのが本だった(小池真理子)”」、「いやぁぁぁ、そんなところ読まないでぇぇぇえ」、「“おもしろくなくても読む、何はともあれ読む(万城目学)”、“五官のすべてを活字の世界に集中させる(紀田順一郎)”…げっへっへ、おとなしそうな顔をして随分熱烈じゃないか」、「やめてぇぇぇ」と、そういう感じで、普段は気が強くてギャンギャン生意気な口をきく美少女ちゃんが、顔を真っ赤にして涙目で恥らう姿をニヤニヤ想像しながら読めってことですね!!
まぁでも、そんな邪な気持ちでこの書を開くと、第一文目の須賀敦子「塩一トンの読書」、思わず背筋が伸びるこの作品によって、頭頂に本の角が落とされるのですが。
本との関わりや本への思いが強いほど、本に振り回されることが多くなり、くやしい気持ちもつのることでしょう。だからこその『本なんて!』なのかもしれません。
作家の方々の自著にまつわる作品がいくつかありましたが、その振り回されぶりは、当然一読者のそれどころではなく、大変面白かったです。書店で挙動不審になる角田さんとか、ファンの人から自著へサインに加えて好きな言葉を書き添えて欲しいと頼まれ、「増刷」と書いた長島有氏の話とか。しかも単に自著の売上増を望むゲスい話かと思いきや、実は心に響く名文。
ここでの「本」という言葉は、そのまま「世界」に置き換えてくれて構わない。豊穣なのも、貧しいのも含め、本とはすべて一つの世界である。増刷は、それがたとえ千部、百部単位の小さなものであろうとも、世界の広がる様を感じさせるものなのだ。
書物との関わりの話以上に、ひと時だけの名も知らぬ人物とであれ、古書店主、友人、知人とであれ、本を介した出会いや付き合いについての話に心打たれるものが多かったです。
この書の最後のあたりにある山田風太郎の「統計」という作品には、残り少ない人生の有効時間を「ドクショなどに空費していちゃたいへんだ」という反読書的な言葉がありますが、それっていかに常日頃本に囲まれていらっしゃるかということでしょう。
「本なんて!」と言おうが、なんと言おうが、本はいつだって「内部に流れるものをくみ取る人を無償、無言で辛抱強く待っている(稲葉真弓)」健気で愛おしいもの。とはいえ、本棚からあふれ山となってしまったような状態だとやや可愛げには欠けますが。
それはむしろ怖いです。起きたら本がもっとかわいくなっていますように、とも願う。もっとかわいい本というのは、脚が生えている。私が口で丁寧に頼むと、次々に本棚をぴょんと飛び出して部屋の隅に移動したり、本棚に帰ってちょんと並んでみせたりする。(藤野可織)
怪談といっても、どろどろした怨念情念のたぐいはまるでみられない。どうかするとなかには、反怪談とでもいえそうなほどたっぷりアイロニカルなひねりをきかせた、ユーモラスな綺談もいくつかまぎれこんでいる。つまりはあくまでも軽い、ソフィスティケートされた、SF風とも「奇妙な味」ともいえそうなコント集であって、その軽妙にして明快な怪奇趣味を味わうには、これ以上の解説の要もなさそうである。
種村季弘 <解説>
『女帝エカテリーナ』や『大帝ピョートル』などの伝記作品で名高い(すみません存じ上げませんでした)アンリ・トロワイヤによる短編集。原題は『共同墓地』なのだそうですが、この澁澤訳の本書は、『ふらんす怪談』なるタイトルがつけられています。が、種村氏の解説どおり、いわゆる怪談的な物語ばかりではありません。怪談的なものであっても、どれも皮肉のきいた内容ぞろいの奇譚集。
殺そうと思っていた男が事故死して喜ぶも、実際に死んでいるその男を目にして別の感情がわいてくる「殺人妄想」、逢引の約束をした男のもとへ、亡き夫と乗っていた二人乗り自転車で向かう未亡人の身に起こる出来事「自転車の怪」、幽霊についての驚くべき事実を知ってしまった男の話「幽霊の死」、小さな村の厩舎で不寝番の兵士の間でかわされた話「むじな」、一人で死ぬのは心細く、誰かと同じタイミングで死にたいと、というか、近くで誰かが死ねばその影響で自分も死ねると思っている未亡人の老女の話「黒衣の老婦人」、次週の死亡者数をピタリと当ててしまう統計学者の話「死亡統計学者」、自殺しようとしたところを助けられ、人格を自在に変える新薬開発の治験体にスカウトされた男の話「恋のカメレオン」の7篇。
それぞれに面白かったですが、特によかったのが「むじな」。話中話の棺桶に繋がれた電話の話も面白かったですし、冒頭の馬車で移動する兵士たちの様子など、「手堅いリアリズムの風俗描写にすぐれた」トロワイヤならではの技量を楽しむこともできます。そんなリアルさのせいで、合理的説明で押さえられない不安や恐怖を登場人物たちと一緒に感じさせられるのです。
評価:
ジェイムズ ボズウェル 中央大学出版部 ¥ 4,320 (2010-03) |
蘇格蘭(スコットランド)には樹というものがまるでない。
「サミュエル・ジョンソンが怒っている」リディア・デイヴィス
1773年8月18日から11月22日まで、94日間にわたってサミュエル・ジョンソンがボズウェルとその召使とともに旅したスコットランド本土及びヘブリディーズ諸島についてのジョンソン自身による記録です。
サミュエル・ジョンソンといえば、コテコテのイングランド人で、スコットランドを貶しまくっている印象ですが、決して嫌悪してるわけではないそうで、子供の頃に『スコットランド西方諸島記』を読んで以来、昔ながらの暮らしが残っているヘブリディーズ諸島へ実際に行ってみたいと関心を持っていたそう。
交通機関が発達しているわけでもない時代に、スコットランド内でも僻地のほうを旅して回るというのはかなり大変なことですが、悪天候や悪路にも負けず、粗末な寝床しか得られなくとも、満足な食べ物にありつけなくとも、御歳64歳のジョンソン氏の元気なこと元気なこと。
エジンバラのボズウェル宅から北上し、セント・アンドルーズ、アバディーン、バンフ、フォレス、インバネスからネス湖沿いを南下してフォート・オーガスタスを経てグレネグルへ至り、そこから船でスカイ島へ渡り、ラーセイ島、コル島、マル島などのヘブリディーズ諸島を巡り、本土のオーバンからインヴェラリー、キャメロン、グラスゴー、オーキンレック等を経て再びエジンバラのボズウェル宅へという行程。
史跡や名所を巡ることもありますが、そういった記述よりも、言い伝えられている歴史的な出来事や今なお残っている昔ながらの風習等道中での見聞、各地の人々の暮らしぶりや、それらについてのジョンソン氏の所感に紙幅が費やされている印象です。 住居の不便さ、農業の非効率さを指摘し、宗教改革によって廃墟と化した聖堂に胸を痛め、信仰や教育の荒廃を憂い、広がる商業主義、進む氏族制度の崩壊に懸念を示し、アメリカへの移住者の増加による過疎化を心配し……。
スコットランドには樹がないということも、そんな所感の一つです。もちろん全くないということではなく、イングランドで普通に見られるような大木がほとんどみられなかったということ。木々が無計画に伐採されてしまっていて、将来を考えた植樹などが行われていない状況への苦言なのです。
スコットランドでは樹木が見世物になる。
樹がないネタは、旅の間ちょくちょく口にされていたようで、マル島において荷物持ちに預けたロンドンから持参した樫の杖が紛失した際、「杖を得たマル島の島民がそれを手放すとは思われないね。考えてもみたまえ、君、そのような木材一本のこの島での価値を」と言って、それが盗まれたに違いないという主張を譲らなかったそう。このマル島では、余裕のない島の人々の暮らしぶりを目にし、植樹についてこんな見解も記しています。
植樹というものは、当然のことながら、悩み事がなくて現在の幸せに満ち足りており後代への期待に喜びを感じるほどにゆとりのある未来に向かって開かれた心の為すことである。空腹に痩せ衰えている人は他人がどのように食べていくのかにはほとんど関心がない。<略>必要性から来る渇望がほとんど満たされない所ではどうして空想の喜びにほとんど注意が払われないのか、そして人々の思いが絶え間のない気配りで目先の利益のあらゆる可能性に向けられる所ではどうして遠い未来の便宜が顧みられないのか、その理由は直ぐに分かるだろう。
樹がないネタ以上にジョンソンのスコットランドdisりとして有名なのが「カラス麦」についての一件かと思われます。ご自身で編纂された辞書のカラス麦の項に「穀物の一種であり、イングランドでは馬を養い、スコットランドでは人を養う」と記したというもの。しかしながら、マル島へ向かう船中でオートミールを食べた際、ジョンソンは幼少の頃にそれが好きだったと認めたそう。ボズウェルは大変喜ばしげにそれを記録しています。
この書では、スコットランドにおける問題点ばかりを指摘しているわけではなく、美味しいものは素直に認め、素晴らしい人物や場所についても素直にそう言及しています。まさに衒いなく、「光と影の両面において思ったとおりに述べ」ているのです。
スカイ島のタリスカーで出会い、その後ヘブリディーズの島々に同行したコル島領主の長男、ヤング・コルことドナルド・マクリーンは褒められている人物の一人で、自らの手を使って農業を学び、自分の相続する土地の改良を目指しています。スカイ島からマル島へ向かおうとして遭った嵐の際にも活躍したこの好青年が、この出会いの翌年に海難事故で亡くなってしまったとのことが非常に残念です。
「コルは気高い動物だ。彼のような完璧な島民は想像できない。彼は農夫であり、船乗りであり、猟師であり、漁師である。<略>彼は人当たりがよく、話題を理解していようといまいと、怖いものなしの話し手だ。もう少し知性があればいいがね。」
もちろんこの人物についても、「光と影の両面において思ったとおりに述べ」ていらっしゃるようです。
旅の終わりは、再び戻ってきたエジンバラにおいて聾唖者を対象とした学校を訪れたエピソードで閉められています。そこでの素晴らしい教育に感心し、「人間の不幸の最たるものの一つがこれほどの救済を受けられるのを見るのは心和むことであった。希望をふくらませてくれるものは何であれ勇気を鼓舞するものだ。聾唖者が算数を学ぶことができるのを見た後では、誰がヘブリディーズ諸島を開化するのを恐れるであろうか」と、結ぶのです。
この旅については、同行したボズウェルも当然のことながらしっかりボズウェル(記録)していて、ジョンソン亡き後に『ヘブリディーズ諸島旅日記』を出しています。
これがまた、ジョンソンの名言はもちろんのこと、『スコットランド西方諸島の旅』には書かれていない面白エピソードが色々登場し、併せて読むと、非常に面白いです。上の杖の紛失やカラス麦のエピソードはこちらの書にのみ登場します。ジョンソンの記述への批判に対してジョンソンをフォローしている部分もあり、出版時の人々の反応を窺い知ることもできます。
『スコットランド西方諸島の旅』にも地図は掲載されていましたが、この書の見返しに印刷された地図のほうが非常に分かりやすく、とてもありがたかったです。
ネス湖付近で老女の住む小屋に立ち寄った際、通訳を通じて老女が小屋内のどこで寝ているのか尋ねたところ、老女は自分とジョンソンたちが寝たがっているのかと思って動揺したというエピソードなども『スコットランド西方諸島の旅』では触れられていないこと。
この後、ボズウェルとジョンソンは、このことをめぐって軽口をたたきあうのですが、いくら尊敬に値する人物とはいえ、30も歳のはなれた、決してつきあいやすいとは言いがたいジョンソンとかくも親しく、長く付き合いえたのは、ボズウェルのこういう朗らかさがあればこそなのだろうなと思います。
他にもジョンソン博士がお膝の上に女性を乗せてご満悦なんて、あららな話やら、色々裏話につきません。スカイ島から予定を変更してコル島へ向かう羽目になった嵐にしても、ボズウェルは死ぬかと思った程だと言うのに、ジョンソンの書ではずいぶんあっさり書かれていたなと思ったら、船酔いで船室に下りていた「博士は我々が直面している危険には全く気付いていなかった」とのこと。
あと、スカイ島で登場したアレクサンダー・マクドナルド卿のあつかいの酷いこと酷いこと。けち紳士とか、何度もネタにされてます。
オーキンレックにおいてボズウェルの父親宅に滞在したのですが、熱心なトーリー党支持者でイングランド国教徒のジョンソンと、熱心なホイッグ党支持者で長老派信者の父親は、ボズウェルの心配どおり激突し口論になり、のちに父親はジョンソンに「大熊」という渾名をつけたそう(出会う前から「ジャコバイト野郎」呼ばわりでしたが)。
この熊ネタ、実はボズウェルの奥様もつかっていたようで、ボズウェルのジョンソンに対するあまりの心酔ぶりに、「あたしは人間が熊を引き回すのは何度も見ましたけれど、人間が熊に引き回されるといふのは見たことがありませんわ(サミュエル・ヂョンスン伝(中) 岩波文庫)」と、苦言を呈したんだとか。
ちなみに“熊”、“熊”言われるジョンスン氏のお姿は、ボズウェルによれば「体格よく、がっしりとして巨漢と言ってよいが、太りすぎて身動きが不自由になっていた」とのこと。コル島で小さな高地馬に乗った姿はかなり面白かったようです。
随所でお腹をよじらされるこの書ですが、前書きからもう可笑しいです。
この旅の計画についてボズウェルはヴォルテールに語ったそうなのですが…
彼はまるで私が北極へでも行くのだと話したかのように私を見て「私にお供しろいうのではないでしょうな」と言った。「いいえ、先生。」「ならば、大いに行かれるがよい。」
ヴォルテール先生のナイスな反応のおかげで、彼らの行く先が当時どんな場所だと思われていたのか、なんだかすごくよくわかりました。
ナイジェリアの作家、エイモス・チュツオーラによる『薬草まじない』、かつて晶文社から出ていたものが、今回岩波文庫となったそうです。新たになんと旦敬介氏による解説が加えられています。この物語の舞台とおぼしきアベオクタに行かれた際の体験から、『「植民地主義」「西洋化」「近代化」「国民意識」「グローバル化」「文化変容」などが、きわめて微妙なバランスでせめぎあっている』現代のヨルバ世界の様子を教えてくださいます。
ほんと、奇妙で不思議な話。神話のような昔話のような、奇妙なものが現れ不思議なことが起こる魔術的な世界の物語。
野獣の狩人である主人公“わたし”は、ローラという妻を得るも、彼女にはいっこうに子供ができません。主人公の社会では、子供を持てないと周囲から蔑まれるため、主人公は、どんな問題でも解決できる力を持った<さい果ての町>に住む<女薬草まじない師>に子宝を授ける薬を調合してもらいに行くことを考えます。<さい果ての町>への旅は危険な上に、何年もかかるほど大変なものであるため、家族は反対しますが、主人公は意思を変えず、さまざまなジュジュと武器を手に一人で旅にでます。一人旅ではありますが、主人公は第一の<心>と第二の<心>、さらに<記憶力>と、姿を現すことのない<第二の最高神>を伴っています。二つの<心>は、時々主人公にさまざまな忠告をしますが、主人公の身に危険が迫った際にはあてにならず、そんな時にはいつも<記憶力>が、自分が勇敢な狩人であることを思い出させて、戦う勇気を与えます。そうして、町の人間に対し攻撃的な野性の人間たち、冷気を吹き出す<アブノーマルな蹲踞の姿勢の男>や高速回転している<頭の取りはずしのきく凶暴な野性の男>などを倒しながら旅をすすめてゆきます。困難な旅を進めるうちに、あたかも鬼神のごとくになってゆく主人公。何とか無事に<さい果ての町>にたどり着き望みのものを手に入れ無事に帰宅しますが、言われていた禁を破ってしまっていたがために、なんと妻だけでなく自分も妊娠する羽目に……。
想像力がついていかない敵キャラはもとより、光る石やら、宙に浮かぶ円形の影といった不思議なものなどの奇想に驚かされっぱなしでしたが、何より全ての冒険が終わり一件落着したのち<記憶力>が二つの<心>を訴える裁判が突如始まることにびっくりさせられました。非現実的でありながら現実的、近代的なこの裁判の展開がまた非常に面白いです。
ベースにあるというよりは、混在するさまざまな要素のひとつなのかもしれませんが、アフリカの神話や宗教についてもちょっと知りたくなりました。