2018.03.25 Sunday
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みんなが町で暮らしたり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
要するに、橋に妖しげな女が立つという怪異譚は、水辺の巫女が河川を通い来る神を橋で迎え祀り、その妻となる神婚儀、水神祭祀についての伝承が変貌したものではないかと推察される。(※)
誰が見ても見あやまるまいと思われる柴田宵曲の特色は、第一にたぐい稀なる程の博覧強記であり、第二にはその行文がなだらかに温順淡白で、いたずらに力んでごつごつした所がないことである。三番目には彼が市中隠逸の処士であったのを挙げるべきか。さらにこうした三つの特色が互いに自然に溶けあって文章は快適なモデラートのテンポで進み、読者に無用の負担を及ぼすようなことはないことも挙げられよう。
高橋秀夫「爽やかな隠逸」
「もしその異国巡りが進展していたら、馬琴をして顔色なからしめるわけであるが、如何に支那が大国でも「杜子春伝」の後を継ぐような奇談がやたらにころがっていそうもない。発端だけにとどめたのは、作者としても賢明の策だったと思われる。」
狂信とドグマティズムを忌み嫌い、徹底した平和主義者として、いかなる聖戦も義戦もいずれ止めどもない狂気に至ることを説いたエラスムス。普遍的超越性の道理を国家が踏みにじる愚挙にたいして命がけで否を言い続けたモア。二人が語った言葉は、二十一世紀を生きる我々をも動かす力を秘めている。今なお彼らは我々に語りかけて止まない。