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「だけどおれたちはそんなんじゃねえ」
「だって―――」
「だって、おれにはおめえがついてるし―――」
「おらにはおめえがついている。おらたちゃ、そうさ、たがいに話しあい世話をしあう友だちどうしなのさ」
農場を渡り歩いて仕事をしている二人の男の話です。一人は抜け目のなさそうな小柄な男ジョージ、もう一人は知的障害のある怪力の大男レニー。幼馴染の二人は、行動をともにし、ジョージはレニーの面倒をみています。レニーは、気に入ったものを衝動のままにさわってしまうため、色々問題をおこすことがあります。前にいた農場では女の人を襲ったと誤解されたため、逃げ出すことになり、二人が別の農場へ向かうところから物語は始まります。
レニーが好きなのは、すてきなものをなでることと、ジョージの語る二人で手に入れるつもりの夢の暮らしの話を聞くことです。
「おれたちみてえに、農場で働くやつらは、この世でいちばんさびしい男たちさ。家族もねえ。住む土地もねえ。農場へ来て働いちゃ、小金をかせいで街へ行き、きれいさっぱり使ってしまう。それが終ると、また別の農場へ行って、汗を流しながら働く渡り者だ。先にはなんの望みもねえ」
「おれたち二人は、そんなんじゃねえ。先には望みがある。たがいのことに気にかけあう話し相手がちゃんとある。ほかに行くところもねえからと、酒場へはいって金を無駄使いすることもいらねえ。ほかのやつらは、ブタバコにでもぶちこまれりゃ、もうそれっきりだ。だれがかまおうと、だめになっちまう。だけど、おれたちはそんなじゃねえ」
「いつの日か―――おれたちは金を合わせて、一軒の小さな家と2エーカーの土地を持ち、一頭のめウシと何頭かのブタを飼う。そして、土地のくれるいちばんいいものを食って、暮らす」
「おれたちは、大きな野菜畑と、ウサギ小屋とニワトリ小屋を持つ。冬、雨が降れば、仕事なんかはごめんだと、ストーブに火をたき、そのまわりにすわって、屋根に落ちる雨音をきく……」
いろんなことをすぐに忘れてしまうレニーでも暗唱できるほど、二人の間で繰り返し語られてきた夢です。レニーはここで、ウサギの世話をすることを楽しみにしています。多少先が見通せる者なら、途方もない、現実味のない夢だと一笑に付すところですが、レニーにとってそれは、もうじきに起こることになっているような、現実と変わりない未来なのです。そんな絶望とは無縁の男と一緒にいることで、ジョージ自身も夢を見続けることができ、くさることなくやってこられているのだと思います。
問題をおこすレニーの傍にいることは大変なことですが、レニーにジョージが必要なように、ジョージにとってもレニーはかけがえのない存在なのです。
さて、二人が新しく仕事に就いた農場の親方には、常にケンカ腰な元ボクサーの息子がいます。大きな男を特に眼の敵にしているような様子です。そして、最近嫁いできたばかりのその男の嫁は、非常に魅力的であり、自分でもその魅力を知っていて、労働者達に色目をつかっているような娘です。
もう、農場に着いたときから、そのうち何か問題が起こりそうな気配が濃厚に漂っています。
そんな不安な空気の中、事故で片手を失っているこの農場の老掃除夫が、ジョージとレニーの夢に引き寄せられ、これまで貯めた金を出すから仲間にいれてほしいと頼んできます。一気に夢が近づいたような気になり盛り上がる3人でしたが、案の定というか、私にとっては予想を上回る、酷く悪いことが起こってしまいます……。
物語の最後でも、ジョージとレニーの夢の話は繰り返されますが、この使われ方に胸が詰まります。
あっさりと読める中篇ですが、読後感のひく尾は、非常に長いものです。
ハツカネズミと人間の
このうえもなき企ても
やがてのちには狂いゆき
あとに残るはただ単に
悲しみそして苦しみで
約束のよろこび消えはてぬ
ロバート・バーンズ「ハツカネズミ」
“俺らは気まぐれな運命の投げる鞠にすぎん。高く放られればそれだけ惨く落ちてくる。”
面白かった〜〜っ!!!
人それぞれの分というのでしょうか、運命というのでしょうか、結局のところ最後はなるようにしかならないという感じの物語。恩も仇も、あるべきところへきちんと返し返され、すべてが見事なバランスで成り立っています。
「神さまって信徒の人に訳のわからない仕打ちをするのよ」と言われるとおり、願いがかなえられても、それは望んだようなかたちではなく、皮肉と呼びたいようなかたちでのこと。幸福と不幸は表裏であり、絶えず転じてゆく、まさにあざなえる縄の如し。その縄がどんなに捩れて絡まっているように見えても、辿ってゆけば、定められた終点へ行き着くのです。
まず冒頭の「序言」が素晴らしいです。デンマーク王国顧問官にして特命公使であった人物の妻であったマリア・クリスティーネという女性の回想録に関する話からはじまるのですが、この女性のいかにもな半生の興味深いこと興味深いこと。この回想録中最も印象深い話題としてあげられているのが、幼い頃に亡くなった彼女の父親、<スウェーデンの騎士>と呼ばれていた男とのエピソードです。それは幻想的な雰囲気の不思議なエピソード。この後始まる物語を読むことで、読者はこのエピソードの真相を知り、何ともいえない、痛ましい思いを味わうことになります。
“<スウェーデンの騎士>の物語をこれから語ろう。
それは二人の男の物語でもある。1701年の初め、寒さの厳しい冬に農家の納屋で二人は見え、互いの友となった。そしてオペルンから雪に覆われたシレジアの地を抜けてポーランドへ向かう道を連れ立って進んでいった。”
二人の男とは、もとは農場の下僕だった市場泥棒と、貴族の脱走兵。身分は違えど同じ追われる身で、捕まればどちらも絞首刑になりかねない危うい立場です。泥棒のほうは、最後の逃げ場として、僧正領へ行き、そこの鍛冶場や採石場で奴隷となって働くことを考えています。脱走兵は進軍中の若きスウェーデン王のもとへ参じて従軍したいと考えています。途中で泥棒は、脱走兵トルネフェルトのかわりに、金銭などの援助を求めてその代父である貴族のもとへ使いに行きますが、代父はすでに亡くなっており、まだ十代のその娘が領主となっていました。娘は何もわからないまま領主となったため、領地は荒れ、周囲の者からいいように食い物にされています。この美しい娘に命を救われ、心奪われた泥棒は、娘が幼いころの誓いを胸にずっと従兄のトルネフェルトを思い続けていると知り、トルネフェルトに成り代わって、彼女を自分のものにして、この窮地から救い幸せにしたいと考えます……。
二人の人物の生が取り替えられる物語ですが、それぞれの運命の交差具合の妙がたまりません。運命奇譚としても十二分に面白いのですが、この物語をさらに魅力的に彩るのは、借金返済のために使役され続ける死者や、呪術的まじない、神の審判など、レオ・ペルッツならではの幻想的な要素の数々です。「序言」での不思議なエピソードの真相は現実的なものではありますが、この物語のそれら幻想的な要素によって、その背後に何か大いなるものの存在を感じずにはいられないようになっているのです。
<他のレオ・ペルッツ作品の記事>
『第三の魔弾』
『ボリバル侯爵』
“「ワシ、カモのように、ここに座る。どうして、ひと、箱の中に、座っておれるかね。(彼は部屋の床や壁を指差した)ひとは、いつも山あるき、鉄砲うつ……」
デルスウは黙った。そして窓に向かい、また町をながめはじめた。
彼は失われた自由のために苦しんでいたのだ。”
異界から来た魔法少女でも半獣の獣耳少女でも、あの世から来た死神少女でも、宇宙のかなたから来た異星のプリンセスでも、なんでもいいですが、そういうこの世界に不慣れな萌えキャラ美少女ちゃんたちが、色々なギャップにとまどったり、言葉遣いがつたなかったりする様にこそ、キュンとさせられるもんだと思っておりました。が、なめてた…、鋭い嗅覚と観察眼を持ち、自然を知悉し、あらゆる困難に対処できる、頼もしいガッチリずんぐりしたむさ苦しいオッサンの口からもれる可愛い一言の破壊力、なめてた!
猟からキャンプ地に戻ってきたそんなガッチリずんぐりしたオッサンであるデルスウが、森の中で見かけたドングリをロシア語で何と言うか思い出せず長いことウンウン悩んでいて、突然ハッとひらめいて発したのが、
「カシのむすこ!」。
ズキューーーーン!!!、私のハートに突き刺さりましたけど、絶対著者アルセーニエフさんのハートにも風穴あけたね。「お前がいないと私は退屈だ。お前がそばにいないと、なんだか物足りないんだ」ってなことに、なっちゃいますよね。
デルスウ・ウザーラは、南方ツングースの一族であるナナイ族の猟師で、ウスリー地方の調査探検を行っている著者アルセーニエフが、案内にやとった初老の男です。この書は、1907年に行われた探検の記録であり、苦難を伴う旅の様子や、土地土地のこと、出会った人々や野生動物、そして何より、共に旅するデルスウ・ウザーラのことが記されています。
このデルスウ、著者曰く、「彼の逃れえないような、いかなる苦境もないだろうと思われる」機知に富んだタフガイです。デルスウは、動物であれ自然現象であれ、さまざまなものを人と同じような存在として受け止め尊重しています。そんなナナイ族の世界観のもとで行動する様は、著者やその部下の兵士たちの目には、面白いものに映りますが、そうやって厳しい自然とともに生きる中でつちかわれてきたものは、一行にとって大きな助けになっています。デルスウによって命をすくわれもした著者は、彼に対し大きな信頼と敬意を感じています。
そんなデルスウにも、逃れ得ないものがありました。それは、“老い”。この書の後半、デルスウが己の老いに気づく場面は非常に辛いものです。家族を失い、一人きりで狩猟を唯一の生きる手段としてこれまで生きてきた男にとって、老いによって自分の能力が失われることは非常に深刻なことです。そんなデルスウにアルセーニエフは、自分のところで暮らせばいいと、提案します。この申し出に対して、デルスウの語る謝意が、これまた胸にせまります。
旅を終え、デルスウは町にあるアルセーニエフの家で暮らすようになります。でも、その暮らしは、デルスウにとっては不自由なものでしかありませんでした。山や森で簡単に手に入る薪や水にお金がかかることにも納得できません。そして、ある決断をします。その結果、悲劇的な出来事に見舞われてしまいます。
ウスリー地方は、この時、ロシアの領土となっていましたが、もとは中国の領土となっていたため、アルセーニエフ一行が途中で出会うのは中国人が多いです。感じのよい人悪い人さまざまであり、南のほうでは、もともとこの地に住んでいたウデヘ族の人々が中国人たちに搾取されている様子が、この書中何度か見られます。
中国人に限らず、ロシア人、朝鮮人、日本人…、ウスリー地方にはさまざまな人間が入り込んできており、ウデヘ族や、デルスウのナナイ族など、もともとこの地にいた人々がこれまで通りの生活をすることが難しくなってきています。訳者の方が解説で書かれているとおり、デルスウを襲った悲劇も、追いやられ滅ぼされる弱小民族の一つの姿なのです。
私は彼女のいちばんの親友だった。ただ一人の友だちだった。だから、友だちもいなかったなどということはありえないではないか?
しばらく絶版だった作品の復刊のようですが、これって、大恐慌時代モノが今キテるってことですか??
タイトルよし、冒頭のつかみよし、題材よしの、かなり魅力的な作品です。
1920〜30年代にアメリカで実際に開催されていたという、マラソン・ダンスの大会が舞台になっています。何だそれ?ですが、早い話がダンス耐久戦、わずかな休憩時間を挟むのみで、昼夜を問わず男女でダンスを続け、一番長く踊り続けられたペアが優勝し、多額の賞金を手にできるというものです。2、3日のことかと思ったら、119日も続いたこともあったとか。狂っとる!としか思えませんが、実際大会途中でおかしくなる選手も多々いた模様。この物語でも一月以上踊り続けていて、種々のトラブルが起こっています。
そんな大変な大会の出場者たちの多くは、不況の真っ只中で、一攫千金を夢見る貧しき若者たちです。そして、そんな持たざる者たちの狂態を観覧し、時に気に入ったペアのスポンサーになったり、賞金を提供したりする持てる者たちもまた、この大会を支えています。
さて、この物語は、語り手の“私”がグロリアという女性を撃ち殺し、その事件の裁判で、今まさに判決を受けようとしているところから始まります。
一体二人の間に何があったのか、役者や監督になることを夢見て田舎からハリウッドへでてきていた二人、“私”ロバートとグロリアの出会いに遡って語られてゆきます。会場に来たプロデューサーや監督の目に留まるチャンスがあるかもと、二人はマラソン・ダンスに出場するのです。過酷なダンス大会の記述の合間に、ロバートへの判決内容が細切れに挿入されています。殺人へと至る経緯と、ロバートの運命が終盤に向けて徐々に明らかになってゆく構成です。
撮ってみたいものがあり、その夢を実現させるチャンスを求めている、まだまだ前向きなロバートに対し、グロリアは波乱に富んだ過去を持ち、未来に希望が持てず、自殺願望までもっています。という時点で、冒頭の殺人は、グロリアの願いを受けてのものであろうことは予想できますが、普通はどんなに頼まれようとも、そう簡単に引き金をひけるものではありません。この物語で明かされてゆくのは、ロバートがいかにして引き金をひけるようになったのかという経緯なのです。
『彼らは廃馬を撃つ』というタイトルの意味は最後にようやくわかるのですが、何ともいえない重い気持ちでこの本を閉じることになります。
「廃馬は撃つもんじゃないんですか?」
私、アーヴィングの『スケッチ・ブック』を読んだ際、アメリカにも浦島的な話があったとはね、へぇーっと、「リップ・ヴァン・ウィンクル」の話に感心しておりましたが、アメリカにもあったのね、どころじゃないんですね。
12世紀のフランス文学に、『ブルターニュのレ』または、『レ・ブルトン』と言われるケルト系伝説の物語詩があるそうです。その中にある「ギンガモール」は、こんな話です。
王の甥であるギンガモールは、見目麗しい騎士でした。王妃はギンガモールに心奪われ、王の留守中に言い寄りますが、ギンガモールはこれを拒絶します。気を悪くした王妃は、ギンガモールに、それを追うものは誰も帰ってこないという白い猪を狩りに行くよう仕向けます。森で猪を追ううちに、ギンガモールは泉で水浴中の美しい乙女たちを見かけます。乙女が立ち去れぬよう、乙女の衣を隠そうとしますが、見つかってしまい、3日後に猪をつかまえてあげるから自分の屋敷に泊まるように言われます。乙女に恋したギンガモールが、彼女の愛を求めたところ、乙女はそれに応えてくれました。乙女の立派な宮殿には多くの騎士や美しい女性がおり、その中には白い猪を追って帰ってこなかった騎士たちもいました。宮殿で素晴らしいもてなしをうけたギンガモールは、3日目に猪をもらって帰ろうとしたところ、乙女から驚くことを告げられます。実はもうすでに300年がたっているのだと。そんなことを信じられないギンガモールは、とりあえず帰ってみることにします。乙女はこう忠告しました。ここへ戻ってくるまでは、どんなにのどが渇いたりお腹がへったとしても、何ものんだり食べたりしてはいけないと。自分の国に帰ったギンガモールは、本当に300年たってしまっていることを知り、乙女のところへ戻ることにします。ところが途中で空腹のまありりんごを食べてしまったところ、たちまち老人の姿になってしまいます。そこへ馬に乗った乙女が現れ、ギンガモールを叱責して連れ去っていきました。
不倫のお誘いを拒絶した結果の災難、白い獣の追跡、水浴中の乙女の衣隠し、禁止の約束を破る……浦島要素に留まらない、何この盛りだくさん感あふれる話。
12世紀の説話集『ヌーガエ・クリアーリウム』にあるブルターニュ王ヘルラの話は、小人の国の王の結婚式に参列し、3日後に戻ってみると、200年経っていて、貰った犬が地面に飛び降りるより前に馬を降りると体が塵と化してしまうため、今でも馬から降りられずにさまよっているという話だそう。
14世紀のニコル・ボゾンの『道徳訓話集』には、こんな話があるのだとか。ある僧が、天上の悦楽の一番小さなものの一つをお示しくださいと願い続けたところ、見たこともない小鳥が飛んできて歌い始めます。僧はこの鳥について森に入り、小鳥の歌に聞きほれましたが、鳥が飛び立ってしまったため、僧院に戻ったところ、すでに300年たっていて、僧はたちまち死んでしまいました。
同様の話は12世紀の『説教集』にもあるとのこと。
「リップ・ヴァン・ウィンクル」も、移民によってもたらされたドイツ民話がもとになっているそうですが、ヨーロッパにも浦島的な仙境的な異界から帰ってみれば、ものすごく長い月日が過ぎていたという話は色々あるようです。
「タム・リン」とか「タンホイザー」的なイケメン騎士が山中や森で美女に出会って異郷に連れ込まれる系の話は結構あるように思っていましたが、戻ってきてみれば大いに時間が過ぎている印象はあまりなかったので、意外です。
時間差のない話の場合、異郷に留められるのが7年というパターンが多いように思います。カリプソがオデュッセウスを留めたのも7年じゃなかったでしょうか。また、連れ込まれる異郷が、洞窟など隘路を経て至る山中や地中の世界が多いのも興味深いです。古の地母神的なものとの繋がりを感じずにはいられません。
さて、実は東西浦島話は、この書では枕にすぎません。日本とヨーロッパに似た話があるというところから、民間説話の伝播に関する研究について、インド起源説の流行から衰退などの話を挟み、経路についてはまだまだ不明ながら、明らかに伝播したものに違いない、東西世界で類話が多数ある興味深い話が6つ紹介されています。
6話すべてがとっても興味深いです。
その一つは、井戸や谷といった穴的なものの中で、木や草につかまっている男の話。地上では凶暴な獣が狙っているため穴から出ることができず、穴底には毒蛇がいるため降りることもできない状況の中、つかんでいる頼みの木や草の根は、白黒二匹の動物に齧られていていつまでもつかわからない、そんな絶望的な状態にもかかわらず、上から口中に落ちてきた3滴の蜜の美味しさに、思わず苦境を忘れてしまうという内容。あー、どっかで聞いたことあるあるな、人生の寓意。
この話、さまざまな経典に登場する仏教説話の一つであり、日本にも仏教を解して古くに入ってきていました。この同じ話が、ヨーロッパにも存在するのですが、それは『聖バルラームと聖ジョザファ伝』というキリスト教の聖人の伝記がもとになっているそう。それもそのはずで、この聖人伝は、お釈迦様の伝記がアラビアを経由して西洋へ伝わる中でカトリックの聖者伝に変化していったものだったからです。また、インドの『パンチャ・タントラ』をもとにしたペルシャの『カリーラとディムナ』の翻訳からというルートも同時に存在したようです。
この話が、日本へ来たポルトガルの宣教師の手で、再び日本へもたらされるという面白さ。
続いて、親子、または兄弟、伯父・甥といった二人組の泥棒が王の宝物庫への秘密の穴を出入りして盗みを続けるも、罠にかかって年長者のほうが抜け出せなくなり、年少の相方が自分たちの正体を隠すためにその首を切り落として逃げる話。王のほうは、なんとか犯人を炙り出そうと死体を餌にして罠を張るも、犯人の機転で逃れられ続けます。
古くはヘロドトスの『歴史』にエジプトの話として登場しています。日本では『今昔物語集』にありますが、これは仏典の『生経』の説話がもととのこと。ヨ−ロッパでは東方に起源を持つ『七賢人物語』に登場して広く流布しているそうです。紀元前のヘロドトスの書中の物語は、後世の物語に比べると抜けている部分があり、これが伝播したとは考えにくいとのことや、当時のエジプトの風習と異なる内容を含むことからエジプト起源の話とは言えなさそうという指摘など、興味深いです。
他には、自分が殺してしまったと思った人によって、隠蔽のために死体が別の場所に運ばれ、そこではまた別の人物が自分が殺したものだと思って、また罰の場所へ運び…といったことが繰り返される「五度殺されるはなし」があります。これはは、アラビアンナイトにも含まれており、ヨーロッパにも、日本の昔話にも存在しますが、それぞれを結びつける経路は不明とのこと。
また、自分の身を危うくする手紙をそうとは知らないまま自ら届けさせられるも、その内容が途中で書き換えられたことで危機を脱する「すり替えられた手紙」の話もまた、類和は数あれど経路は不明なのだそう。
あとは、神様や仏様のお告げであるかのように見せかけて、意中の女性を我が物にした聖職者の話「ささやき竹」や、人に捕まった小鳥が、三つの知恵をさずけることを条件に逃してもらう話「小鳥の歌」についてふれられています。
どれも東西の多くの類話に触れられた充実した内容ですが、伝播の経路についての結論は書かれていません。まさに、「いくつかの字のうまったパズル盤」が提示されているかのよう。この残された謎がまた、本書をさらに面白くしています。
「今の手はあなた?左目?」
「ご想像にお任せします」
『アルドノア・ゼロ』15話
“アナリティカルエンジン”と画像検索してみれば、見事にほとんど伊奈帆一色なのですが、中になんじゃこれ??っていう画像も含まれています。
Wikipedia 解析機関
2014年〜2015年にかけて放映されたアニメ『アルドノア・ゼロ』の15話において、デューカリオンの艦長であるマグバレッジと地球側主人公、界塚伊奈帆がいわゆる“目隠しチェス”、盤も駒もない状態で言葉だけでチェスをさしつつ、会話しているシーンがありました。この伊奈帆、12話での負傷によって左目を失ったため、そこに脳とつながれた義眼状の解析機“アナリティカルエンジン”を埋め込んでいます。このシーンは、そのアナリティカルエンジンの機能や艦長の能力やらをわかりやすくカッコよく表すものの一つかなぐらいの認識だったのですが、ちっがーーーーーーう!!!!“アナリティカルエンジン”だからこそのチェスシーンだったんじゃないかと、放送後数ヶ月たってようやく知った次第。
アナリティカルエンジンって、『アルドノア』以前は、イギリスの数学者、チャールズ・バベッジの創案した“解析機関”の事を指すのが一般的だったんじゃないでしょうか。画像検索してもたぶんこっち一色。
バベッジは、はじめ、人の代わりに多項式関数の値を正確に計算できる機械、「階差機関(ディファレンスエンジン)を設計するも、資金不足もあって完成には至らず、続いてさらに汎用性の高い、パンチカードによってプログラミングできる「解析機関(アナリティカルエンジン)」の設計をはじめます。これも結局は挫折してしまうのですが、バベッジは、チェスやチェッカーのできる理知的機械の製作すら可能だと考えていたそうです。ウィキペディアの「コンピュータチェス」の項、歴史の最初に登場するのはまさにバベッジなのです。
さて、このバベッジが、「人間の理知的作業を代行する機械を発明する」という夢を抱くにいたるきっかけに、幼いころに見たオートマタがありました。18世紀末に誕生し、次々と驚くべき仕掛けが作られ、多くの人を夢中にさせたオートマタ、自動人形に、1800年ごろ、8歳のバベッジ少年は出会い、その優雅で人間的な動きに感銘を受けたことを自伝に綴っているそうです。
個人のインスピレーション的なことだけでなく、技術の面でももちろん、オートマタの存在はその後の発展に大きな役割を果たしたようです。
“「18世紀に特徴的だったオートマトンの展示熱が、最も独創的な機械装置を生み出すことになり、もっと高い芸術的感性で最も繊細な機械部品をいい具合に組み合わせるという習慣を作り出した」とブリュースターは書き、「そうしたわれわれの感覚では捉えられないほど精密な大小の歯車が、現代のすばらしい紡績機械や蒸気機関のなかによみがえっている。われわれの時代にこうした脅威の機械は、それを利用する奇術師を金持ちにするばかりか、国の富を増やすことにも寄与し、かつては大衆を楽しませた自動的な玩具が、人類の力を強化して文明を発展させることに使われている」としている。”
そんなオートマタに、あるとき驚くべきものが登場します。それは人間相手にチェスをさすことのできる自動人形。チェスは700年から1000年ごろにかけてペルシャから伝わったものであるだけに、トルコ風の格好をさせられていたことから「ターク」と通称されるこの装置、バベッジはもちろん、エドガー・アラン・ポーやベンジャミン・フランクリン、ナポレオンやエカテリーナ大帝など歴史的な人物と関わり、色々な逸話を残し、またさまざまなフィクションも生んだそう。産業革命が起こり、機械装置に無限の可能性を感じていた多くの18世紀末の人々には、チェスをさせる機械の存在もあり得ると感じられていたようですが、もちろん懐疑的な人々も存在し、そのトリックを明かすことが試みられましたが、誰も真相にたどり着けなかったそう。
この書は、そんなタークをめぐるさまざまな出来事や、その真相が丹念に追われているだけでなく、コンピュータに至る“チェスをさす機械”のその後までも扱われています。
知能機械の開発の第一歩にチェスをおく人はコンピュータ科学者の中に多かったそう。
「まずチェスを指す機械から始めるのは、いくつかの理由から理想的である。この問題は、許された操作法と最終目的についてはっきりと定義がさされている。それは自明な問題というほど単純ではなく、満足のいく解決法を得るのに難しすぎるということもない。そしてこうしたことのできる機械は人間の対戦相手と勝負ができ、この種の推論能力をはっきりと測定することができる」
コンピュータが知能を持つかどうかを判定する「チューリング・テスト」には、会話を続けられることの他にチェスができることも含まれているそう。
しかしながら、1997年に、チェスの世界チャンピオンを破ったIBMのコンピュータ、ディープ・ブルーの開発者一人である、マレイ・キャンベルに言わせれば、「ディープ・ブルーに知能があるとは考えていない」。
タークを作成したケンペレンが作り出したのは、いかにも機械が知的活動を行っているかのように見せるイリュージョンでしたが、今日においても、“機械が知的活動を行っているように見えれば、知的とみなす”ことから、結局はより高度なイリュージョンが作られ続けているという指摘に、おおっ!となります。
また、チェスを指しているのは人か機械かを問う冒頭のアニメの台詞、チェスをさす機械に対し、タークからディープブルーにいたってなお、問われ続けていたものだと知って、これまた、おおっ!となりました。
ところで、時代が時代ですから、タークにはひょっとしてフリードリヒ大王との接点があったのでは、と思っていましたら、案の定登場いたします。こういうの、めっちゃ好きそうですからね。1785年にケンペレンを宮廷に招き、タークと試合したあげく、どうしてもその秘密が知りたくなったため、なんとこれを大金をだしてお買い上げ。そしてケンペレンから秘密を明かされ、その単純なトリックに驚きつつも、他のものに秘密を明かすことはなく、宮殿内にタークを隠しこんだというエピソード。でも残念ながら、ガセとのこと。このネタのついでに、ヴォルテールと手紙でチェスをしていたというエピソードも嘘ではとのことで、がっかり。チェスでもしてんのか?!というくらいの頻度で手紙が行き来してたってことですかね。
でも、実際に秘密が知りたくてタークを大金で購入した人物はいたそうです。そのころにはすでにケンペレンは亡くなっており、タークは別の発明家メルツェルのものになっていたのですが、ナポレオンの養子(ジョゼフィーヌの前夫との子)ウジェーヌが3万フランで購入したそう。おそらくこのことがフリードリヒ大王の買収話の元ネタではとのこと。