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もうすでに何度も書いている気がしますが、眼鏡が好きです。大好き、大好物。寝癖のついた黒髪長身痩躯で、ちょっと古風な雰囲気の気だるげな青年がついていたら完璧、松田龍平さんがついていたら最高ですが、眼鏡単体でも問題なしです。
そんな魅力的な存在がいかにしてこの世に誕生したのか、気になりましたので、本書を手にしてみました。
ある種の石を用いて作られたレンズは、紀元前から存在していたようですが、レンズが視力を補うために用いられるようになるのは、はるかに後のことだそうです。
10〜11世紀のアラビアの学者アルハーゼンによって、レンズによって視力が助けられる可能性が示唆されましたが、まだこの時期には実際の眼鏡の開発はされていないそう。
1305年、聖カタリーナ修道院の修道士ジョルダーノ・ダ・リヴァルトが行った説教には眼鏡を作る技術が20年ほど前に発明されてことが述べられており、1300年のヴェネツィア高等法院の告示に眼鏡に関する記述があるらしく、ガラス製造技術の発達した13世紀末のイタリアに眼鏡が存在したことは間違いないようです。
しかし、いつ誰がどこで発明したのかは不明なのだとか。フィレンツェのサルヴィノ・デグリ・アルマチ説だとか、イギリスの修道士、ロジャー・ベーコン説だとか、諸説あるそう。実際に眼鏡を作ったという記録はないものの、ロジャー・ベーコンは、両凸レンズの製作図を描いていたそうです。キプリングの短編小説「アラーの目」の背景がやっとわかったー!
アルハーゼンの著書がラテン語訳されたのが1266年ということ、1289年の書物に最近発明されたものとして眼鏡について言及されていること、さらにリヴァルトの説教から、眼鏡誕生は1285年前後であったのではないかと著者は推測しています。
人類にとって大きな発明の一つでありながら、その誕生がはっきりしない理由の一つとして、かつて眼鏡は邪悪なものと考えられていたことがあげられているのが興味深いです。
レンズは、その不思議な特性から、魔術的なもの、悪魔の作ったものと思われていたのだとか。また、身体的な不自由は神によって与えられた耐えるべきものと受け止められていたため、「それを妨げる機械類は悪魔のしわざ」とも信じられていたそう。大っぴらにワタシが作りました!とは言いにくい状況だったようです。
とはいえ、その実用的価値はたちまち認められ、さらに博学・教養のシンボルとなっていったそう。悪魔的なものであったはずが、14世紀には、ヒエロニムスや聖ルカなどといった聖人の絵画に、当時は存在しなかった眼鏡が描かれるようにまでなるひっくり返りようが面白いです。
書中衝撃的だったのは、現在見られる、耳にかけるつるつきの眼鏡が作られるようになったのが、眼鏡誕生からずいぶんたってから、18世紀中ごろになってからだということ。450年もの間いったいどうしていたのー?!
最初に作られた両眼用の眼鏡は、手で支えなければならない物でしたが、次に現れたのは鼻にのせる鼻眼鏡。「鼻は眼鏡のためにつくられたもの」なんていう言葉があるそう。
その後、帽子に眼鏡を固定するような迷走時代を経て、ひもで耳に結びつけるタイプが16世紀後半になってようやく登場します。日本の時代劇でおなじみの形ですが、このタイプの眼鏡に“鼻あて”をつけることを考えついたのは、鼻が低いため、まつげにレンズが接触してしまって困った日本人である可能性が高いそう。
つるつきの眼鏡の考案者ははっきりしているようで、1717年から1730年の間に、ロンドンの眼鏡商エドワード・スカーレットによって完成されたそう。とはいえ、これはこめかみで固定するもので、鼻への圧迫はなくなったものの、少々苦痛を伴うものでした。このタイプ、明治時代の日本髪を結っていた女性達の間では“頭痛おさえ型”と呼ばれつつ愛用されていたのだとか。
耳までつるがのばされたのは、1752年。ロンドンの眼鏡製造業者、ジェームス・アスキューによる発明とのこと。
さて、この書は、そういった眼鏡史にも触れていますが、主な内容は日本における眼鏡の文化についてです。受容史や生産史だけでなく、絵画や文芸における眼鏡なども追われていて興味深いです。
そんななかで、へぇぇ!と思ったのは、『好色一代男』に書かれた、主人公世の介が子どものころ、両替町の春日屋の物見台に備え付けられた望遠鏡で女の人の行水姿を覗いていたというエピソードについての話。
何ゆえ両替商の物見台に望遠鏡が備え付けられているのかという謎について、当時金銀の相場を商うような大店にとって、望遠鏡が商売道具の一つだったという理由があげられています。情報伝達の早さが何よりの武器であったため、望遠鏡を用い、手旗信号によって遠距離からの情報を伝達することが実際に行われていたのだとか。
明治時代の伊達眼鏡流行とか、他にも面白い話題がいろいろあり、眼鏡好き心も満たされつつ、楽しく読ませていただきました。
赤木かん子さんの『今こそ読みたい児童文学100』の中で紹介されていて、気になったので読んでみました。
「ねえ本当に読んでほしいと思っている?草思社さん。」と赤木さんに言われてしまう、実に地味なタイトルですが、内容はとっても素敵です。北極圏に程近いアラスカに暮らすアラスカ・インディアンの女性によって書かれた、集団内で語り継がれてきた実話だそうです。
獲物を追って移動しながら狩猟生活をしているグウィッチン族のある集団では、その年は例年になく寒さが厳しくて十分に獲物がとれず、集団生活を維持することが困難になっていました。そこで、リーダーはある決断をします。それは、集団内の二人の老女を置き去りにすること。集団の負担を少しでも軽くするため、普段他の者の世話になっている老人を切り捨てることにしたのです。
残されることになったのは、80歳の老女チディギヤークと75歳のサ。チディギヤークの娘と孫息子は、内心では反対したかったのですが、集団の決定に逆らうことは出来ず、娘はヘラジカの革の束を、孫息子は狩猟人にとって愛する人より大事とされる武器の斧を残して、老女たちと別れます。
チディギヤークとサは、悲しみと怒りで胸が一杯になり、絶望して、すぐ傍にある死を受け入れそうになりますが、生きるために精一杯抗うこと、死ぬにしてもとことん闘ってからにしようと決意します。
「みんなはあたしらのことを老いぼれの役立たずだと思ったんだ。あたしらだって生きるに値するだけのことをしてきたってことを、みんなは忘れてる!だから、いいかい、どうせ死ぬなら、とことん闘って死んでやろうじゃないか、ただ座って死ぬのを待っているんじゃなくて」
とはいえ、老体には何をするのも大変で、苦痛をともないます。しかし、生きるために、過去の経験をたよりに、さまざまなことを試みます。より良い場所への移動、罠を作っての狩など。
そして、二人は今までの自分たちのあり方を省みます。
「ばあさんがふたり。不平ばっかり並べたてて、満足ってことをまったく知らないんだからねえ。やれ、食べるものがないの、やれ、あたしらの若いころはもっとよかったのとね。ほんとは、いまとくらべてよかったことなんて一度もなかったんだよ。とにかく、あたしらは、自分たちのことをとんでもない年寄りだと思っている。あたしらがあんまり長いこと、自分たちはもう無力だ、なんて若い者に思わせるようなことをしてきたから、若い者のほうも、あのふたりはもうこの世の役には立たない、と思い込んでしまったんだよ」
厳しい冬を乗り切り、巡る季節を生き抜く二人の活躍、そして迎える爽快な結末、是非本書を紐解いてお読みいただきたいです。
“わたしはこの物語によって、人間がこの世で果たすべきことをする能力には限界などないこと―――年をとったからもうなにもできない、などということはないことを、教えられた。この大きくて複雑な世界に生きるひとりひとりの人間のなかには、驚くべき可能性が息づいている。にもかかわらず、運命のチャンスにめぐりあわないかぎり、隠されたその可能性は、ほとんど生かされないままに終ってしまう。”
挿絵も入って児童書風ですが、むしろ、老いと向き合わねばならない大人の方がグッとくる内容です。一切子供受けしそうにない地味なタイトル(原作どおりとのこと)は、それ故なのかも。
あ、12月に草思社文庫になるみたいです!
さすがは光文社古典新訳文庫!
訳注がとても親切な上、随所に画像が挿入されていて非常にわかりやすいです。さらに訳者まえがきでは、時代背景が解説されており、巻頭には地図、巻末には年表までつけられています。しかもしおりには、主な登場人物の簡単な紹介が。
このようないたれりつくせり、非常に快適そうな書なのですが、その入り口はなんだかとっても敷居が高いです。
「しばらくの間、辛抱強く読みすすめていただくことを願っています」だとか、「ともあれ、これから『感情教育』の大洋に乗りだす読者が、つつがなく航海を終えることを祈ってやみません」なんてなことが、いきなり、訳者まえがきに書かれているではないですか。
どうもこの上巻は、辛抱の巻であるらしく、読む前から、ちょっと心が折れそう。
ですが、ですが、心配ご無用です。
確かに、主人公の若者フレデリックは、美術商アルヌーの妻に恋心を抱きつつも何ら関係は進展せず、アルヌーの愛人であり他にも幾人もの男と関わっている女性ロザネットにもふりまわされるばかりだし、運よく伯父の遺産を相続したものの、特に何かになろうとするでもなく、「まだる」く物語は進んでゆきます。
が、このまだるさ、連綿と続くちょこちょこした出来事の一つ一つが、なんと非常に面白いのです!登場人物たちが織り成す出来事の数々には、彼らの底の浅さやこずるさが容赦なく絶妙に表現されているのも楽しいです。
そういう楽しみが凝縮されているのが、この上巻の終わり近くにあるフレデリックとシジーの決闘のエピソード。まるでドタバタ喜劇のような展開です。
フレデリックが片思い中のアルヌー夫人をシジーに馬鹿にされたと感じて暴れたことから決闘となる流れからして馬鹿馬鹿しいです。にもかかわらず、一人の女性のために決闘するのだ!とか、一人盛り上がるフレデリック。
決闘の立会人をたのまれたルジャンバールは、相手が貴族と知って居酒屋で剣術指南をはじめちゃいますし、当人に確認もせず断固和解を拒否しちゃう(それに対してフレデリックは「誰か他の人を介添人にしたほうがよかったかも…」と思っちゃう)のみならず、さらに侮辱を受けたのはどちらか、という解釈についてまで話をややこしくしちゃいます。
シジーは、決闘に対して非常に弱気で、いとこが黙って決闘を中止にしてくれないかなとか、フレデリックが脳卒中で死んでくれないものかとか、暴動が起きないかとか、自分が病気にならないかなとか、翌日学校へ行きたくない小学生みたいなことを延々思っていたりします。挙句が当日現地にて失神。せっかくの小説の盛り上がりどころであるはずの決闘なのに、全然かっこよく決まりません。
とどめが「私のために争わないで」と決闘を止めに入るのが、なぜかアルヌー!!
フレデリックの父親が決闘で亡くなっているのですから、この決闘も、普通だったらもっとドラマチックなものになりそうなものですが、全くそうはなりません。というか、フレデリックにしろ、ルジャンバールにしろ、アルヌーにしろ、各々ドラマチックに行動しているのですが、全く現実とかみ合っていないのです。
この小説の注目のしどころは色々あると思いますが、私自身が目が離せないのは、フレデリックとデローリエの関係。
出会いは鉄板の寄宿制の高等中学校、片や、傾きかけた資産しかないものの貴族の旧家出身の母を持ち、平民の父親は生まれる前に死亡していたため、父親不在の家庭で一人息子として期待され大事に育てられてきた者、片や、余裕のない家庭で、もと軍人の執達吏の父親から殴られ続けて育った者。はじめは特に親しくなかった二人ですが、デローリエの暴力事件を機にフレデリックの方から近づいて親友に。上級生と下級生の微笑ましい美味しい仲良し生活の中、卒業後一緒にパリで暮らすことを夢見ます。が、デローリアは、あてにしていた母親の遺産が手に入らないため、学資を貯めるためにトロワで働くことに。
デローリエは、運よく伯父の遺産を手にすることになるフレデリックとは非常に対照的な人物なのです。そのため、現実的でフレデリックにはない上昇志向や野心をもっています。
ただ一人の親友的存在であるはずのデローリエですが、フレデリックからの扱いは非常に酷いです。デローリエをとるかアルヌー夫人をとるか、という選択の場面が2度ありますが、どちらもアルヌー夫人の圧勝。全然つきあってもいないのに。
疎遠になっていた時期には、ロザネットと一緒に乗っていた馬車で泥水ぶっかけたりまでしています。上巻の最後あたりで、仲直りしますが、この二人の今後が非常に気になります。
あと、真っ直ぐで気のいいもじゃもじゃ頭の屈強な青年デュサルディエも気になる存在。彼が登場するだけでなんだか癒されるような気持ちになるのですが、巻末の年表に1851年12月に死亡と書かれてしまっているではないですか!?
私にとってはこの小説を読み進める上での大事な憩いの場的存在ですから、できればそれは、下巻の終わりのほうであってほしいです……。
前書きを読んだ時点では、下巻が出るまでに読み終えられないんじゃないかとか、挫折しちゃうんじゃないかとか心配したのですが、もう今は下巻が待ち遠しくてたまらないです!
評価:
ジョイス・キャロル・オーツ 岩波書店 ¥ 1,944 (2014-01-29) |
岩波書店の「STAMP BOOKS」というシリーズは、“ティーンの喜びや悩みをつづった作品のシリーズ”なのだそうですが、さすがここに入っているだけあって、この作品にはティーンの苦しみががっつり書き出されています。
私立の進学校を舞台とするこの作品は、三部に分かれていますが、一人の少女の死が物語全体を貫いています。
一流とはいえないものの女優の母を持ち、もとは才能ある子役だった少女、ティンク。本名はカトリーナなのですが、ティンクでとおしています。大人に対しても、同級生に対しても顔色をうかがうことなく、自分の思うままに行動する、個性的でかっこいい女の子。焦げたような赤毛で小柄、地味な顔立ちですが、みんなから一目置かれている存在です。
このティンクが友人たちに何も告げることなく、最終学年への進級を前にして突然亡くなってしまったのです。
1部と3部は、ティンクの死後、最終学年となったその友人を主人公とした話であり、2部は匿名の友人視点でのティンクについてのエピソードになっています。
最初の話は、ティンクの友人の一人、メリッサについて。金髪美人ですらりとした肢体、学業でもスポーツでも優秀で、委員会活動も活発に行っている“ミス・パーフェクト”と渾名されるのも当然な少女です。ブラウン大学への早期合格も決まり、順風満帆であるはずなのですが、彼女の内面は非常に危ういものです。というのも、彼女が優等生として頑張っているのは、ただただ父親に愛されたいためであり、そこが満たされないために、彼女自身の自己評価が非常に低くなってしまっているのです。自分で自分を罰することなしにはいられないほどに。
最後の話は、かわいらしい顔つきの肉付きのよい体型の少女、ナディアについて。メリッサとは対照的に、勉強も運動も苦手なタイプであり、コンプレックスをかかえ、自信が持てずにいます。しかも、たちの悪い男子とパーティに行き、酔っ払ってしまったことから起こった出来事のせいで、ネット上で酷いことを書かれたり、実際にからかわれたりしています。
彼女を馬鹿にすることなくやさしく接してくれる若い男性教師に恋心を抱いているのですが、ある行動のせいで、大きな騒動になってしまいます。
メリッサもナディアも心的に家族に支配されていて、ともに自己評価が低く、それぞれに大きな危機にみまわれます。彼女たちが何とか立ち直り、少し自由になれたのは、死んだナディアの存在があったからでした。ナディア自身も問題を抱え、早急な死を迎えてしまいましたが、友人たちを助けることはできたのです。
“どこにも行かないよ。絶対に。
だって、あたしがいなくなったら、あんたたち、てんでダメだもんね。”
少女たちの傷だけでなく、同級生への容赦ない評価だとか探りあいだとか、しんどい十代の日々を生々しく味わわされるため、大変辛い作品ですが、そんな中だからこそ、ティンクの存在は非常に魅力的であり、彼女に背中を押されるように前に踏み出した友人たちの姿もすがすがしいです。
まぁでも、そういう心地よい結末はYA作品の型どおりの枠組を使っただけで、そこにぶちこまれている暗く病んだ部分のほうが、この作者の本領であろうという印象ではありますが。
読書狂の冒険は終わらないんじゃなくて、終われない……。
勝手にもっとお若いのだと思いながら読んでいたので、えらく昭和感あふれる会話に驚いていたのですが、お二人とも四十半ばなのですね。それだけにお二人の読書は、年季が入っていて面白いです。
二人の職も同じならば、年も近く読書傾向も近いということで、対談は非常に盛り上がり、鍔迫り合うように本に関する話がかわされていて、とても読み応えがありました。
モダンホラー、中でも特にスティーヴン・キングについて、江戸川乱歩や横溝正史、山田風太郎の話、角川映画から赤川次郎、ブラックジャックや藤子不二雄などの話、今までに手にした珍本奇本だけでなく、読めずに挫折してしまった本の話なんかもあります。さらに本との付き合い方から、本というものの未来の話まで、話題はさまざまです。話中たくさんの本が紹介されています。
お二人とも、読書家であると同時に蔵書家でもあられるご様子。本の単位が、冊ではなくt(トン)というのが驚きです……。
昭和に十代を過ごしてきた男性ならではの話も多いので、このような対談の女性版をぜひ読んでみたいです。
“だからこの本は「面白い本を知りたい」という人ももちろんですが、「本というものは見た目以上に、もっと深いものや、何か自分の知らない別の側面があるんじゃないか?」と日々疑っている―――まるでフィリップ・K・ディックの小説の登場人物のような方に手に取ってもらいたい、というのが偽らざる心境です。
そして「そうかとは思っていたけど、本にはとてつもない世界が広がっているんだな」と思ってもらえたら、これに勝る喜びはありません。”
“「魔法の絨毯!」女は興奮した声でいった。
自動マネキン社の歴史考察課の主任アロイシアス・スミスは、九世紀のアラビア女はタイムスレッドで空中に浮揚したときには必ずこういうといっていたが、まさにそのとおりになった。アラビアの乙女に関する論文をものしたスミス主任は、被誘拐者をおとなしくさせておきたいならば、イスラムの王族(アミール)のふりをすることだともいった。さらにスミス主任は、九世紀のアラビア女は誰もがひそかに、いつの日か、どこかの王子さまが魔法の絨毯で自分を連れにきてくれるという夢を描いているのだ、ときっぱりいった。スルタンの妻でもそうなのか、とビリングスは訊いたものだ。スミス主任は、スルタンの妻は特にそうだと、学者らしく断言した。”
面白かったです!大好き!!
この物語の主人公の時代の博物館では、歴史上の重要人物そっくりのロボットが、過去の場面を再現しています。そのロボットは、タイムマシンで過去から連れてこられた当人をコピーして作られたもの。そっくりロボットの作成後、何事もなかったかのように当人は過去に送り返されます。
この、歴史上の重要人物を過去から連れてくる仕事を担当しているのが、自動マネキン社の“vipp誘拐員”。その予備員である主人公ビリングスは、今回初めて任務を与えられ、これが成功すれば正規の社員になれることになっていました。その任務とは、千夜一夜物語の語り手、シェヘラザードを連れてくること。
色々ありながらもなんとか彼女を連れ出せたかと思いきや、それはシェヘラザードではなく妹のほう、15歳のドニヤザードでした。しかも、時を越える乗り物タイムスレッドでたどり着いたのは、元の時代ではなく魔人の住む奇妙な世界。ここから、勇敢で機転の利くドニヤザードの協力の下、食人鬼やルフ鳥、人間界とこの魔人界とを行き来できる盗賊たちにまみえる、千夜一夜物語さながらの冒険が始まります。この冒険を通して、ビリングスはだんだん愛らしいドニヤザードに惹かれていきます。
シェヘラザートが歴史上の人物になっている時点で、物語はわたしたちの現実との結びつきを絶ち、完全な架空の世界が立ち上がります。どんな不思議が起ころうとも驚かない構えが読者にできているところへ、非常にファンタジックな出来事が続くため、そのような世界観で物語を読み進めてしまうのですが、終盤この世界観を一変させる展開になり、非常に驚かされます。これはもう見事としか言いようがないです。SF物語が千夜一夜物語の世界に取り込まれたと思いきや、千夜一夜物語を取り込む大きなガチのSF物語があったのです。
さて、ガチのSF物語であるならば、時を越えた恋愛は、時に阻まれて悲恋で幕を閉じるのがお約束。ところがラストは、さらに一転して、千夜一夜物語風のハッピーエンドなのです。
うわーっ、やられた、もう大満足するしかないです。