2018.03.25 Sunday
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書物には誤植がある上に、原稿の誤書があり、文字の誤用がある。その上に内容の誤謬まで数えたら、大抵の書物は誤に充ち満ちていることになる。与謝野寛氏に、誰も注意してみない正誤表というのを、ご苦労様に拵えて附けるという意味の歌があるそうであるが、全く一片の正誤表くらいで追ッつくことではない。そうかと思うとまた、寺田寅彦博士もいわれたように、「間違いだらけで恐ろしく有益な本」もないではない。そこに書物の面白さが存する。支那の何という人だったか、書物の誤を考えながら読むのも、また読書の一適だといっている。さすがに支那にはえらい人がいると、それを読んで私は、すっかり頭が下がった。そうなると、小さな誤植など、もう問題でなくなってしまう。(森銑三)
作家たる者は此の十七校の熱誠無かるべからず。印刷所たる者は此の十七校の面倒を見る深切無かるべからず。版元たる者は此の十七校の損失を屑(もののかず)とせざる勘弁無かるべからず。故に世間の読者たる者は亦此の熱誠と深切と勘弁とに酬ゆる好意無くして可からんや。 尾崎紅葉
その場合に応じて、両方を使い分けても一向に差支えないのである。(澁澤龍彦)
こと文学に関しては著者の責任において、自由に漢字を使う場合もあり得るのである。(宮尾登美子)
それをなにがなんでも「一統」しようというのは、生きた言語への介入である。だれにもそんな権限はない。校正者じしん、話をするとき、言葉に強弱高低のアクセントをつけている。それをコンピューターの発音のように、抑揚もリズムもなく話せ、と強制されたら、じつに奇妙な、ことばの死んだ世界にほうりこまれたことになるだろう。(山田宗睦)
誤植はときに詩的発想を飛躍させ、思索を深化させる。消しても消しても現れる誤植ウイルスは、そんなふうに肯定的に捉えておいたほうが得策さろう。言葉の奥深さ、不可思議さは、誤って植えられた種から生え出てくるのかもしれないのだから。(堀江敏幸)
人の言葉を幾重につないだところで、人間同士の言葉でしかないという最初の認識が来た。草木やけものたちにはそれはおそらく通じない。無花果の実が熟れて地に落ちるさえ、熟しかたに微妙な違いがあるように、あの深い未分化の世界と呼吸しあったまんま、しつらえられた時間の緯度をすこしずつふみはずし、人間はたったひとりでこの世に生まれ落ちて来て、大人になるほどに泣いたり舞うたりする。そのようなものたちをつくり出してくる生命界のみなもとを思っただけでも、言葉でこの世をあらわすことは、千年たっても万年たっても出来そうになかった。
「道路ちゅうもんのごつ銭食うもんはなか。もうえらい銭食うて。この道路にゃ、かぐめ石の奥の山ば二山食わせても、まだ足らんじゃった」
と春乃はいう。
「あの山はとっておきの、最後に残ったよか山じゃったて」
そして溜息をつき、自分に云いきかせる。
「道路は失敗したばってん、この道のぐるりにゃ、よか町の出来るかも知れんねえ」
よか町であったかどうかは今もって判断しがたいが、辺鄙な浦々の、松の影がさしている磯のかたわらに、日本窒素肥料株式会社というのがきて港が出来る。そこから村々の中にむかって道路が一本のびてゆけば、道のへりに家並みが出現して、町というものの雛形が出来あがってゆく。
戦争になって戦いが切迫した時には、恋をしていない者は恋をしている者に武器をとってはとても太刀打ちできない。それは、恋を知らぬものは神の秘儀に与らぬただの俗人であって、その精神と体力の許す限りにおいてしか勇敢でありえないところから、恋する者にたいしてはこれを避けて逃げるからである。そして、相手のことを身も心も神に満たされた者―――それもよく言われるアレス(軍神)による狂気ではなくエロス(愛神)の狂気に取り憑かれた者として恐れるからである。この二柱の神のうちどちらか一方に取り憑かれた者は―――ホメロスはそんな一人のことを、「まるでアレスのように猛り狂う」と述べている―――一つの神霊がのりうつつのだから、見事なまでの戦いぶりをしたとしてもそれは一回の熱狂分にとどまる。これに対してエロスに帰依した者は、アレスの衝動に駆られるとともにエロスの火に焼かれ、二神に奉仕して戦うわけだから、クレタ人の考えどおり、その戦果も二倍になるのが当然なのである。それゆえ、二柱の神ではなくただ一柱の神の下で戦う兵士が、アレスとエロスの両神に動かされて切りかかる者に太刀打ちできなかったとしても、誰も咎めることはできまい。
わが肩掛けを脱がしめしは少年ならで太陽にこそ。
君人妻とよろしくやる折は、北風吹いて「こんにちは」と来たれるのみ。
ああ愚かなるかな、君、他人の畠に種を蒔きて、
エロスをば追剥ぎの科にて告訴されしむとは。
インキで洋紙に書くのに候文は感じが悪いからだが、総てのものを出来るだけ日常語に近づけたいと思い出したのも、全部が万年筆のお蔭とはいえないまでも、少なくとも影響は大きかったであろう。
「万年筆」 徳田秋声
それにボールペンでは苦吟とか彫琢とかの感じがしない。
「万年筆」 福永武彦
世の中の流れというものに乗ることは基本的に嫌いではないのである。しかし、やっぱり全然受けつけなかった。文字を「打つ」と、何だか思考そのものが変わりそうで、どうしても好きになれなかった。
「6Bの鉛筆」 内館牧子
書くのが速いということがワープロのひとつの美点とされているが、きまりきった事務文書をつくるならともかく、自分の文章を書く者にとっては、ワープロはむしろゆっくり考えながら書くのにむいている。ゆきつもどりつしながら書くのもひとつの書き方だということが分かる。字を書く苦痛に気をとられていた私には、この新しい筆記具が以前とは違う文体をもたらすというのが、あながち嘘とも思えないのだ。
しかしまた、筆記の方法によって左右されるほど自分の頭はやわなのだろうか、とも思う。
「書くこと」谷川俊太郎
早い話、読者が賢明であるほど、それだけ書物は賢明となり、それに反し、読者が愚かで、より不毛であれば、それだけ書物もまた愚作となる。ぼくの世界像、暗くて、エロティックに官能的で、かつ醜怪なビジョンについては、もう一度繰り返すが、怖じ気を振るう必要は無い。ぼくはぼくの合法的財産となっているこのビジョンを少しも押し付ける気が無いのだ。
サロン、ダイニングルーム、白いカーテンの向こうの自室、どこにいようが、純情無垢、それにトイレ……黙れ!とんでもない考えだ!あの子に限ってそんなことはしない、そんなことも知らない、そうでないとすると、おそらく天に神は存すまい―――とは言え、これは嘘だと彼は自覚していた―――。ともかくも、そういうことは、彼女に関わりなく行われ、そのあいだ、彼女は精神的にお留守で、いわば、自動的な行為となる……
超・密集集団を率い先陣に立ち、超・突撃する超・国王は夜の闇へと溶け込んで行った。