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『気違い部落』がはじめてでたとき、あれは昭和20年ごろでしょう。ぼくが中学校か、おそらく(旧制)高等学校に入った頃でしょう。食うものも食えず、世の中は乱れ放題だったし。ぼくは絶望していて、食うためにパン焼工をしたり旋盤見習工をしたりしてました。日本の小説はワラジムシみたいなのが多かった。何にも精神の爽快というものがなかったときに、『気違い部落』が出たのですよ。あれはいささかペダンティックな趣きがあるけれども、けっして軽薄ではなかったし、じつに爽快、胸のなかを風が吹きぬけるみたいでしたね。明晰そのものなんだ。日本でうけ入れられない最大の文学的美徳は明晰という美徳ではないでしょうか。(中略)
おまけにじつに余裕綽々とやっているのだな、あの文章の作者は。食うものも食えない時代に古代ギリシャや中世フランスに思いを馳せたりしていた、それに文章がまったくいぎたなくない。その頃いろいろな言葉をおぼえかけていて、《精神の貴族》とはこういう人のことかと思いました。その後ずっとそうだ。
開高健
稀に、読書の神様が降臨したのかと思われるほど、偶然に非常に面白い本にめぐり合うことがあるのですが、今回は本当に神懸った面白さです!!
伏字にしたほうがいいのか悩むようなタイトルですが、そういう方々が集団で暮らしていらっしゃる集落の話ではございません。『ファーブル昆虫記』などのの翻訳者であり、マルセル・モースに師事して社会学や人類学を学んだ山田吉彦氏が、戦中から戦後しばらく暮らしていた東京のはずれにある貧しい集落について書かれた本です。
渡航規制のため、自由に海外に行けぬ身を、決闘がもとで閉門となった(←ご子息によるあとがきによると史実ではないそうですが)グザヴィェ・ド・メェストルになぞらえ、彼が蟄居する居室を仔細に観察して『居室周遊紀行』をものしたことに倣って、自分が暮らす狭い集落の周遊紀を書くことにしたそうですが、ただの集落の暮らしのルポタージュではなく、滑稽に見える集落の人々の姿を通して、日本の姿を、日本人を書こうとされているようです。
そして私は部落の英雄たちから自己をできるだけ遠ざけることに楽しみと誇りを見出される文化的読者にはこう云おう。
Mutatis mutandis, de fabulate narrantur
条件を変えれば、これはあなたのことです。
げにや我々の親愛なるシン、ギダ、ピカ、サダ、ヨシ、三平、コイチ等、諸々の英雄豪傑の面面は異った服装と体の中で日常に銀座を歩き、タクシーを飛ばし、官庁で捺印し、事務所で執務しているばかりでなく、なお我々の心の中に巣喰っていないとは云えないであろう。
912世帯5132人からなる村の中の、一番小さな十四世帯のみで構成された部落、ここの住人たちが主な登場人物なのですが、その一人一人が非常に面白いです。純朴な人の良さといった良い面だけでなく、疑り深さや計算高いずるさ、排他的な冷淡さといった愚かしく醜い面も明らかにされています。
著者は、ある通過儀礼を経て部落の人々の内側へぐっと踏み込んで暮らしているのですが、彼らについて書くときには常に観察者としての距離を保っているため、親しき隣人を具に観察することで、人間のありようを見ていらっしゃるようです。
それ故、それぞれのエピソードには、まるでわたしたちを省みさせる寓話のような趣があります。
気違い部落の生活では勇士たちは考えないで行動するとき人間らしい行動を、即ち社会を勘定に入れた生活をなし、考える動物として行動する場合、人間の尊厳を失った動物となる。
今ではおそらく失われてしまったであろう、山村の暮らしを知る資料としても、とても興味深い内容です。
とりあえず、この魅力をお伝えするには、読んでいただくのが一番手っ取り早いかと思いましたので、少し書き出してみます。
部落を構成しているのは十四軒しかない。だが人間は、ポリチコスとアリストテレスが観察したように、ポリスを営む生物である。この点、軒数は少なくとも英雄たちも人間である。だからして社会学者が社会的紐帯と呼んでいるものが、資産、職業、宗教、言語、血縁、住居地域、主従関係、年齢、性別に従ってこの十四英雄の家を縦に横に錯綜して結び、協同と対立を構成している。ただ友情を媒体とするものはない。というのはそんなものは存在しないからだ。
高々友情の萌芽みたいなものはDo ut desおれもやるから何時かおまえもよこせ式な物のやりとりの関係でしかない。所謂原始交換制の一形態である。しかしそこには最早、競覇的な気前のよさ、遣る物の価値で相手をへこまして自己の社会的地位を保ち、或は高めようとする傾向は見られない。等値物を、或は単に外見だけの等値物を返す商業的なものである。そこには貧富・格式などはなく、また部落の旦那衆が昔なら見せたであろう気前などは今では見られない。
友だちに就て云うと、あるときヨシ英雄が友だちとは何であるかと訊ねたので、それは迷惑をかけられて嬉しい奴のことよと答えると、それじゃ要らんもんじゃと云った。先ずそんな程度である。神さま仏さまも同じDo ut desの原則で扱われ、これだけ供物を上げればなんとかして下さるべえとか、この病を癒して下されば畑の芋を十貫目差し上げましょうと云った考え方だ。
血縁に依る紐帯でも甚だ弱く、一度利益的問題が眼に前にぶら下がると、鴉の貪欲になって縁者もへったくれも無くなってしまう。
ただ二つの紐帯だけが利害を超然として厳然として存在している。
それは正義派と正義嫌い派の対立、並びに二音派と三音派の抗争である。
ここに到着して、ひどく奇妙な国に着いたものだと思わせるのは正義派に所属するのはたった一人で、残りの十三勇士は結束して正義嫌い派を組織して対抗している事態である。部落の殆ど全体が反対している正義、それは正義の命題そのものに反対するように思われるということはさて措いて、正義派の孤城を守っているのは英雄ヨシさん、援軍には女房と幼児二人だけだ……
この正義とは、二音派三音派抗争とはいったい何のことか、是非本書を紐解いて脱力していただきたいです。
この部落で暮らして、甚だ怪訝の念に耐えないのは平等化思想と呼んでもよいものが極めて発達していることである。或はギョイヨーに倣ってそれを感情の平衡化と呼んでもよいであろう。
人間はそれぞれの事件に対して喜怒哀楽するように社会によって規定されている。喜ぶべきこと怒るべきこと哀しむべきこと楽しむべきことは大体あなたの生まれて来る前から定められていて、ある一人の人間の喜怒哀楽は他の人間にとってもしかくあるよう決定されている。
しかしわが英雄たちの部落ではこの同調を発見することは大変難しい。
例えばシュウ英雄が何かで金を儲け、ほくほくとして子供たちに白米の一俵も買ってくると、部落の英雄たちは忽ち愁然とする。
そして口々に云う。
―――大した金じゃあるわけはねえ。
―――それに闇をやった金だ。残るもんじゃねえ。
これは客観的批判である。即ち自分のことは棚に上げて物を云うということである。
悲しみのときも同様。
ギダ英雄の父親が亡くなった。これは部落の長老で古風な質実さ或は老猾さを持っていた。この知らせを聞くと部落の英雄たちはみなギダ英雄のところへ出かけて悔やみ、即ち悲しみを分つ表現を述べる。それがすむと悲しみの表情は誰の心の隅にも見られない。そして葬式の支度の大工仕事をはじめ、楽し気に会話するのである。
―――この家もええことばかり続きすぎたあ。何かあるべえと思ってただあ。
―――そうよ。人間ええことばかりありっこねえ。
―――一つ今夜のお通夜にゃちょぼいちでもやってギダ英雄をひんむくべえか。
―――よかんべえや。酒もここにゃ用意してあるべえ。
読者が部落に来て英雄たちと話されたら次のような会話を聞く機会を持たれるであろう。
―――あそこじゃあよ、食うものがなくてよ、三度三度南瓜だとよ。だから見な。子供たちは元気がありゃしねぇや。
この話のとき読者が話者の語調の中に内心の喜悦が洩れるのを聞きのがされたら、音痴と云われよう。但しこんな話をする者がお米を食っていると判断されたら、それこそ大間違いだ。お米なんかあるものではない。彼或は彼女は甘藷或はじゃがいも組で、南瓜には今では喰い飽きて喰わないというだけの話である。
出産は一般に喜びである。この部落でもそれが喜びであった例はたった一度私は知っている。ハン英雄は上からそろって女の子ばかり六人持っている。第七番目が生まれたとき、それが女の子だと解ったら部落の英雄たちはハン英雄よりも欣喜雀躍したのである。
二千五百年も前、ヘロドトスは「神々の嫉み」を基調とした歴史を書いている。部落のこのようなことを見聞きしている私は「神々」を「民衆」と置き換えた嫉みを基調に風土誌を書けそうにも思う。
評価:
ミュリエル・スパーク 河出書房新社 ¥ 2,310 (2013-11-06) |
まりにあまりなタイトルなので、手を出しかねていたのですが、いや、これは面白いです!!「突き抜けた意地の悪さがクセになる」なんて煽りが帯に書かれていますが、皮肉で意地の悪い展開は確かにたまりません。さらに所々に挿入された非常にブラックな笑いも。
例えば『ポートベロー・ロード』、少女時代、干草の山の中から“針”を見つけたことから、ニードル(針)と呼ばれていた女性が、幼馴染の男性に殺害され、干草の山の中から遺体となって発見された際の新聞の見出しが「<針(ニードル)>、干草山で発見!」になるとか。『首吊り判事』だと、ある連続殺人事件の被告人に死刑を宣告した際、なぜか絶頂を迎えたことから、同じ感覚をどうにかして味わいたいと思いつめる元判事の老人が思い出す、ナニの元気がなかった際に愛人から言われた言葉、「泣く子も黙る首吊り(ハンギング)判事のくせに、判事さんがぶら下がっちゃって(ハンギング)」とかね。
でも、それだけが魅力ではありません。死んだ作家の叔父の未完の原稿をこっそり持っている姪が、その原稿に次々と叔父の言葉が現れるのに気付く『遺言執行人』や、タンスの一番上の引き出しからあらわれる幽霊と定職についていない若者が言葉をかわす『人生の秘密を知った青年』、アッと驚くオチを用意した『捨ててきた娘』、自分の過去の未完の作品から登場人物が現れる『ハーパーとウィルトン』など、幻想性のある作品やら、殺人事件のアリバイをめぐるミステリ『鐘の音』、伯母の迷子の子犬のことで警察に行ったはずが、なぜか拘留されてしまう不条理な話『警察なんかきらい』、エレベータで出会った男女の頭の中『上がったり下がったり』などなど、作品の多様さ、ストーリーの奇想天外さも非常に魅力的です。
でも一番魅了されるのは、淡々と描かれた人間のほの暗い側面に、震撼させられつつも、妙に心落ち着かされもすることです。イライラした不快な感情を見せられるのではなく、それが飲み込まれてゆく深い深い暗闇を覗かされるのですから。
特に好きなのは、表題作の『バン、バン!はい死んだ』。
なんだか気になるこのタイトルは、自分とよく似た容姿の幼馴染から、主人公が子どものころに言われ続けた台詞です。公園で親しくなった兄弟と一緒に泥棒と警官ごっこをして遊んでいる際、いつも幼馴染デジレは設定を無視していきなり語り手のシビルをこう言って撃ち殺していたのです。
長らく会うことはなかったものの大人になった二人は、植民地アフリカで再会します。アフリカで夫と死別し、戦争が始まったせいで帰国できないまま女学校で教師をしているシビルは、知性ゆえに孤独で、性に対しては倦怠感しか覚えられないでいます。デジレは、果樹園を経営する一回り年上の男性の妻となっており、親密さの裏で子どもの頃と代わらずシビルに対して敵愾心を抱いています。デジレはシビルの前で夫とともに茶番めいた夫婦関係を演じ、シビルはそのゲームにうんざりしつつも付き合い続けるうちに、ある事件が起こります。
シビルが知人と共に18年前の事件当時撮影されたプライベートフィルムを見ている現在に、シビルの子ども時代や事件前後の出来事の回想が挿入されているひねった構成の物語の中で、この「バン、バン!はい死んだ」というフレーズが非常に活きているのがたまらないです。
あと、『ミス・ピンカートンの啓示』も大好き。ピンカートンの部屋に窓から飛び込んできた謎の飛行物体をめぐる話です。一緒に目撃した喧嘩中の恋人ジョージとその飛行物体についての意見がかみ合わないうえ、取材に来た新聞記者はあからさまにジョージよりな態度、そこでピンカートンは実に鋭くその騒動を収束させてしまうのです。最後のオチもいいです。
突然の空飛ぶ円盤話にびっくりしましたが、この小説が書かれた1955年は、アダムスキーが『空飛ぶ円盤実見記』を出版した1953年から間もないUFOブームの真っ最中だったからでしょうか。
ところで、この物語の男性陣同様、宇宙人の存在は許せても小人?妖精的なもののの存在は受け付けないわーとか思っちゃった方々、是非、稲尾平太郎著『何かが空を飛んでいる』(国書刊行会で復刊されてます!)を手にしてみてください。あっと驚きますよ。空飛ぶ円盤とかありえん!という方も。というと、その実在を熱く語った本のようですが、そうではなくて、理解を超えた現象を人はどう受け止めるのか、空飛ぶ円盤観の変遷を通して考察されているのです。
なかなか読む機会がなかったのですが、やっと読むことが出来ました。
「書物を愛する人のための本」、そんな副題のついた素敵な書簡集です。
戦後間もない1949年、あるアメリカ人女性が、イギリスはロンドンのチャリングクロス街にある古書店に出した、書籍を注文するための手紙からはじまります。届けられた書籍に添えられた書店員による送り状、届いた商品についての喜びと、次なる発注が記されたこの女性からの手紙……という風に、この本には、古書を介してやり取りされた、書物を愛する女性ヘレーン・ハンフと、古書店マークス社の社員との手紙が収められているのです。
アメリカ人らしいフランクさにあふれたヘレーンからの手紙には、届いた書籍に対する喜びや、ときには苦情、そして注文した本の催促などが、非常にユーモラスに書かれており、やり取りを繰り返すうちに折々の近況まで綴られるようになります。対するマークス社店員フランク・ドエルからの手紙は、礼節を保ちつつも、業務上の堅苦しい手紙から、徐々に徐々に、親しみをこめたものに変わってゆきます。
ヘレーンは、イギリスの人々が戦後の物資不足で、さまざまなものが入手できない状況にあることを知って、ハムや卵、ストッキングなどを折に触れて古書店に送るようになり、フランク以外の社員や、フランクの家族とも手紙で交流するようになります。
手紙のやりとりはなんと20年にもわたって続き、変わり行く時代の流れが手紙の中に表れています。人もまた変わり行き、ヘレーンは、週給40ドルの台本のチェック係から、脚本家となり、さらにはさまざまな本を物するようになってゆきます。このやりとりが閉じられるのも、時の流れによって人が最終的に迎えねばならない残念な事情によるのです。
それにしても、10代のころからケンブリッジ大学初代英文学科教授のクイラー・クーチの書に親しんできたという、このヘレーンが欲する本の渋いこと渋いこと。私にとってはもっぱら誰??何??ですが、それがいかにヘレーンにとって魅力的なものであるかは、手にしたときの感激振りから存分に伝わってきます。リチャード・バートンによるカトゥルスの詩集の翻訳に対する苦言「この人、カトゥルス―――カトゥールスともあろうお方の文章―――をわざわざビクトリア朝ふうのおセンチな英語に変えちゃったので、サーの称号なんかもらっちゃったのかしらね」やら、サミュエル・ピープスの日記が抄録でしかなかった時の怒り具合「こんなもの作った奴はくたばっちゃえばいいんだわ」とか、思うような本でなかったときのがっかり具合からも。
さて、悪書や二流の本を軽蔑し、小説嫌いで著者が本当に体験した話を好むヘレーンが、これら書簡の中で唯一「ぼおっとなって」読んだと書いている小説って何だと思いますか??
なんと、ジェイン・オースティンの『自負と偏見』なのです。しかも人にすすめちゃうほど。さすがジェイン!
ナポレオン帝政時代、1812年、スペインにおいてフランス軍とスペインのゲリラ軍とが激しく戦っていた頃、フランスの盟約国であったドイツからも連隊が送り込まれていました。
この物語は、ドイツのある騎士領領主であったヨッホベルクという人物の遺品の中から発見された、スペイン出征時の回顧録をまとめたものという体裁になっています。そこには、若き将校であったヨッホベルクが体験した、スペインのラ・ビスバル市において<ナッサウ><ヘッセンの公子>両連隊が壊滅に至った奇妙な経緯が綴られていました。
ナッサウ連隊の少尉として従軍していたヨッホベルクは、曰くありげに物陰に潜んでいた人々が突然現れて次々と挨拶するも、挨拶された人物はそれらが全く存在しないかのように一切無視して通りすぎてゆく不思議な光景を目撃しました。挨拶されていた人物こそが、この物語のタイトルになっている“ボリバル侯爵”であり、賢明で思いやり深い人物であるという評判を耳にして、さきほどの印象との違いを不思議に思います。
しかし、偶々ボリバル侯爵が、ゲリラ軍の指揮官と接触していた場を目撃したものがあったため、その謎が解けます。ボリバル侯爵は、ゲリラ軍に対し、しばらくは動きをやめて潜伏し、自分が3回合図を送るので、合図のあるごとにある作戦を遂行するよう指示していたのです。そして自分は捕まることのないよう変装することも告げいていました。その際、侯爵は魔術的に姿を変えられるものの、自分の名前にはつい反応してしまうことを指摘されていたらしく、ヨッホベルクが目撃したのは、自身の名前に反応しないための訓練だったと判明するのです。
侯爵とゲリラ軍の計画、その3つの合図の内容を知った以上、合図を阻止することは簡単なため、この戦いが楽勝であることを連隊の将校達は確信します。
ここから知恵者の侯爵がいかにして将校達の裏をかいてゆくのか、さぞや面白い駆け引きがみられるに違いないと、読者であるワタシは胸をときめかせたのですが、その期待はあっさり裏切られます。
フォン・レスリー大佐率いるナッサウ連隊の若き将校たち、語り手のヨッホベルク少尉も含む5人には、大佐の亡き妻、美しいフランソワーズ・マリーと不倫関係にあったという共通の秘密がありました。5人はそれが大佐にばれることを恐れているのですが、5人で語ったフランソワーズの思い出話をフランスの騎兵大尉サリニャックが連れていた騾馬曳きの男に聞かれてしまいます。そのため、その男に窃盗の疑いがあったことを幸いに、5人はこの男を即座に処刑してしまいます。死んだ騾馬引きの顔を見たヨッホベルクは驚きました。この哀れな男こそが変装したボリバル侯爵であったことに気付いたからです。
なんと、ボリバル侯爵は、計画を実行できぬまま、あっさりと物語の序盤で死亡してしまうのです。
しかし、処刑される直前の騾馬曳きに対して5人は、「お前がしなきゃならんことは、俺達が変わりにやってやる」と、正体も知らぬまま神に誓って言ってしまっていたのでした。「主は来ませリ」「汝らは誓い、主は聞き届けられた」そんな言葉を残して、ボリバル侯爵は亡くなります。
もちろん5人がいくら誓ったとは言え、ボリバル侯爵に代わって、自らを滅ぼす合図を自ら送るわけがないのですが、運命のいたずらというにはあまりに周到な出来事の連鎖によって、次々と侯爵の予定通りに自らの手で合図を発することに……。
計画がバレているからこそ、ボリバル侯爵が死亡しているからこそ、すべては驚くほど上手く進んでいくのです。
見えざる大きな手の存在を感じさせる、幻想的な雰囲気を持つ物語ですが、その雰囲気をさらに盛り上げているのが、最後の審判が訪れるまで死の叶わない、さまよえるユダヤ人であるかのごときサリニャック大尉の存在です。さまよえるユダヤ人、不死の身となって後は、敬虔な信者となり悔い改めて最後の審判の日を待っている存在とされているように思うのですが、ここでは反キリスト、悪魔に与した人物のように書かれています。災厄と破滅を運ぶ、破滅の先触れをなす人物として。
自らの手でレジオン・ドヌール勲章をこの男に与えたナポレオンの破滅も、ひょっとしてそのせい……。
さまよえるユダヤ人の登場は、物語の幻想性を高める効果があるだけではありません。その存在は、“神の御業の証”なのですから、サリニャック大尉の恐るべき不死性を目の当たりにした将校達にはもちろん、読者にも、ボリバル侯爵の最後の言葉「汝らは誓い、主は聞き届けられた」を、重く重くのしかからせるものなのです。
非常に厳しい戦況下、この語り手は命を長らえることができたのですが、その理由に最後ぞくりとさせられました。面白いです!
<他のレオ・ペルッツ作品の記事>
『第三の魔弾』
『スウェーデンの騎士』