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泥鰌地獄!!この真相はかなり気になっていたので、この話題はとってもうれしいです。鍋に水と豆腐と生きた泥鰌を入れて煮込むと、泥鰌は熱さから逃れようと豆腐の中に逃げ込み、鍋の中には豆腐の姿しか見えなくなるというもの。人がやっているのを見たことがあるという目撃情報はあるものの、実際にやってみると全く成功しないそうです。果たして事の真相は……なるほどなぁ〜です。
引用されている岡本一平の小説の一説が、まさに「万古不易の名言」と言われるのも納得な素晴らしさです。
水が湯になる為の熱さに堪へられず冷たい豆腐に逃げ込むだらう。この考へは人間の頭の産物である。泥鰌は熱くなつてそこに豆腐あり豆腐は冷たきものいふ順序よき考へを刹那に起こすか頗るあやしい。
色々なエピソードが書かれていますが、特に印象的だったのは北京の「都一処」という焼売の老舗の話。その店内の土間には、魚の背のように隆起した部分があったのですが、それは、かつて乾隆帝が狩の帰りに唯一遅くまで開いていたこの店に立ち寄って食事をしたことがあり、それ以来この店では入り口から帝が座った席までの通り道の部分だけ床を掃くことなく“竜跡”を残したため、「土竜」と呼ばれるほどの土の盛り上がりができたというもの。「都一処」という店名も、その際乾隆帝から賜ったもの。これが中華民国時代は春節の時だけ掃除されるようになり、日本占領時代には5寸に満たない高さとなり、共産中国になって公私合営となってすっかり平らにされてしまったのだそう。
『あまちゃん』が終わってしまって、あまロス症候群を恐れていたのですが、かなり楽しんで『ごちそうさん』を観ちゃっています。でも、『あまちゃん』の時のように、感想まとめサイトを日々巡回したりはしていませんが。
『あまちゃん』の楽しみの一つは、そうやって、気づかなかった、知らなかったことを教えてもらうことで、「おおーっ」と感嘆してしまう、新しい面白さに後から後から出会えることでした。知る楽しみがあるからこそ“知らないことが楽しい”、そんなことを宮藤官九郎さんもエッセイに書かれていたように思いますが、まさにそんな楽しさがギュギュっとつまった本をご紹介いたします。
『ボヴァリー夫人』、読んだことはなくともストーリーはほとんどの方がご存知かと思います。凡庸な医者の後妻として嫁いだ若き女性エマが、田舎での結婚生活に幻滅し、不倫と散財を重ねて破滅してゆく物語だと。でも実際読んだ方はきっと、そういう粗筋だけに終わらない数々の要素に、驚かれたのではないかと思います。そもそもシャルル(エマの夫)の学校入学から語り始め、薬剤師オメの受勲で終わるという構成自体が私には謎でした。この本は、そういうことを解き明かしてくださるのはもちろん、私が気づいていない、わかっていないあんなことやこんなことを指摘してくださる、「おおーっ!」に満ち満ちています。書籍化されるまでの過程で書かれた筋書きや数々の下書きといった草稿を丹念に読み比べることで、フロベールのさまざまな意図を明らかにすることが試みられているのです。
のっけから私が間違っていたのは、シャルルを普通の“医者”と思っていたこと。物語の舞台である19世紀のフランスには“保健士”と“博士”という2種類の医者が存在したそうです。保健士は、博士に比べると、養成過程や論文審査がなく、称号を得やすいのですが、開業する場所や医療行為に制限(保健士は、博士の監督のもとでないと高度な外科手術は行えないため、オメにそそのかされて中盤シャルルが行うイポリットの足の手術は、そもそも違法にして無謀なもの)があるのです。シャルルは、開業場所に制限のある保健士であるため、田舎暮らしは職業上必然であるため、シャルルと結婚した時点で、パリに憧れるエマの夢はかなわないものとなっているのです。
シャルルが保健士というのは、オメとの関係を考える上でも手がかりになるようです。資格のない医療行為を行っているオメにとって、商売敵となる医者は邪魔な存在であり、また違法診療を暴露されかねない危険な存在でもありますが、簡単な治療しか行えない“保健士”であり、しかもお人よしなシャルルにはそんな心配がなく、むしろ、正式な医者がこの村で開業するのを阻止する都合のいい存在と考えられます。そんな自分にとって有益なシャルルの破滅に、オメ自身一役かってしまっていますが、それ故それは陰謀ではなく、「人並みはずれた虚栄心」や現状に対する盲目性というエマ要素をオメが持っていたからからこそなのです。
世論を味方につけ、顧客を増やし、勲章までもらってしまったオメのことを、破滅を迎えたエマやシャルルに対して成功者のように思っていたのですが、それもどうやら怪しい様子。オメの成功は世論の風向きが変わればたちまち覆されかねない不安定なものであり、せいぜい近代化に遅れた「ものぐさな村」においてのものでしかないのです。
停滞した村における成功に甘んじる、「進歩」を口にしながらも実際には置いてゆかれているオメに対し、真の成功者と言えそうなのがルルーです。ルルーを中心に見れば、この小説は、村の一商人が資本家へと飛躍する物語になってしまうのです。エマを自殺へと追いやる原因作りのためにあるだけの副次的な脇役に終わらない、「特定の地域性を脱して絶えざる拡張の方向を目指す資本の運動を体現するにふさわしい人物」にまでなっているのです。訳の分からないまま雪だるま式に増えて行く借金に「ギャーギャー」悲鳴を上げつつ読んでいるだけでしたが、それこそが「金銭が資本へと転化する」ところだったのですね。
あと、シャルルの最初の妻エロイーズの死、公証人に財産を横領されたことの波紋で病死してしまったことは、公証人と手を組んだ高利貸しの奸策によって財産を差し押さえられる羽目になり自殺するエマの運命が予言されているという指摘も「おお〜っ!」です。
この書の副題は「恋愛・金銭・デモクラシー」となっていますが、エマのボヴァリズムはデモクラシーの産物という指摘もありました。先ほどの資本の話といい、そういった今日の社会にも通じるものがあるからこそ、“今でも変わらずありそうな陳腐な話”に見えていたのかと思いました。
残念ながらこの本、絶版なうえに、古書価格もあまりお安くないので、どうせだったら岩波現代文庫として再版とかあったらいいのになぁー。
舞台はオランダのユトレヒト近郊の村、村長にして村の裁判官でもあるアーダムのところにある訴訟がもちこまれます。昨晩、娘の部屋にその婚約者が押し入る騒ぎがあり、その際に家宝の甕が壊れたため、マルテという女が甕壊しの犯人として娘の婚約者ループレヒトという若者を訴えに来たのでした。ちょうどこの村にはユトレヒトの司法顧問官が視察に訪れている最中だったため、そのヴァルター顧問官の前で、アーダム裁判官による裁判が行われることになりました。訴えられたループレヒトの方は、婚約者エーフェの部屋には別の男がいたと主張し、自分が押し入ったために慌てて逃げ出したその男こそが犯人だと主張します。さらに、他の男を部屋に連れ込んでいたエーフェをののしり、婚約も当然破棄とのこと。
双方の主張が食い違うこの裁判、どう裁くのやら…ですが、裁判官アーダムは、裁判の前から非常に様子がおかしく、あきらかにこの事件の真犯人なのです。そのため、なんとも滑稽な裁判が行われることになります。
この物語、『オイディプス王』を意識して作られているそうで、“裁くものが実は犯人”という点が、オイディプス王では悲劇となり、ここでは喜劇を生み出しています。
渦中の娘エーフェは、ことの真相を知っているにもかかわらず、頑なに犯人の名を伏せます。実はループレヒトは間もなく民兵として徴兵されることになっているのですが、アーダムは、その行き先がユトレヒトというのは建前にすぎず、実際には死亡率の高いアジアの戦場へ送られるという情報をエーフェに漏らし、偽の診断書を作って徴兵されないよう細工してやることを申し出、その見返りを求めようとしていたのでした。
当然のことながら、裁判官の悪事は最終的に明るみの出るのですが、エーフェとループレヒトの間の不信やループレヒトの未来に関する不安が拭われる点ではハッピーエンドなものの、裁判官がきっちりしっかり制裁を受けることはないため、正義という点ではやや曖昧な結末です。
さて、この本、上述の戯曲のほかに、最初の上演で使われたとされる最終場の異曲も含まれており、さらに異曲に欠けている結末部分を初期の手稿から訳されていて、クライストが本来意図した結末を明らかにしようと試みられています。
その結末ですが、エーフェとループレヒトは和解できたものの、ループレヒトの徴兵先については、改訂された戯曲ではアジア行きはあっさり嘘とされているため安心させられるのですが、異曲の方では、その点が曖昧なのです。むしろヴァルター顧問官は、民兵の派遣先がアジアの戦場であることを知りつつ、エーフェたちを騙しているような印象を与えるのです。さらにアーダムの処遇についても、手稿の結末では赦しと思えるほどの寛大な処置が告げられています。本来の作品は、正義が曖昧どころではない、腐敗をより強く感じさせるものだったようです。
喜劇としては、改定された最終場のほうがおさまりがよいのでしょうが、クライスト的と感じるのは、やはり異曲の方だと思います。
手塚富雄訳の岩波文庫の『こわれがめ』にも、手記の部分はないですが、ちゃんと異曲が含まれています。どちらかというと手塚訳の方が好みですが、訳注の数が多く、表現がわかりやすいこちらの山下訳で色々わかったことが多いので、お勧めです。