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「親愛なる人たちよ、もしもあなたたちがまだロバでないならば、ロバに変身できるように神に祈りなさい」
ジョルダーノ・ブルーノ
考えて見ますと、あの古い叙事詩を書いたギリシアの神の如き詩人が、比類なき賢者を描きたいと発心し、その詩の主人公が多くの町を彷徨し、世の人をつぶさに観察して初めて最高の徳を勝ち得た、と歌っているのもむべなるかなと肯かされます。今でも私はあの頃の驢馬を回想して、本当に有難く思い、感謝しているのです。というのも、驢馬が自分の皮で私を覆い隠し、いろいろな運命を体験させて私を鍛え、もっと思慮深くさせてはくれなかったとはいえ、多くの知識をみにつけさせてくれたのですから。
もう何はさておき、先ず最初に言わせていただきいのは、「岩波文庫大好き―――っ!」ってことです。もうホント大好きです。『黄金の驢馬』復刊していただけるだけでも十二分にうれしいのですが、そうではなく改訳も行われたうえでの新版の出版だなんて!古い版のも入手しているのですが、新版ももちろん購入しましたとも!!さらに皆様にもお勧めいたしますとも!!
さて気持ちを改めて、もう何はさておき、先ず最初に言わせていただきたいのは、、「面白い〜〜〜っ!」ってことです。思いがけずロバになってしまった主人公が見聞きし、体験するエピソードの数々ももちろんのこと、ロバから人間に戻ってからの超展開(としか思えない)、イシス信仰のくだりも興味津々、最初から最後まで、とことん楽しめます。
そうそう、タブッキの『夢のなかの夢』の中には、アプレイウス(アープレーイユス)の夢も含まれていましたね。『黄金の驢馬』の主人公ルキウスがロバの姿で登場し、衆人の前で見世物として女性と性交させられそうになっていましたが、『黄金の驢馬』の終盤にも女囚とそういう目にあいそうになる件があります。ルキウスは必死に逃げ出して、その直後にイシスによって救済を約束されるのです。
どの挿話もとても面白いですが、中でも特に有名で、その部分だけが訳出されたりもする「クピードーとプシュケー」の話は、ルキウスが寄宿していた屋敷に押し入った盗賊たちによって荷物運びのために連れて行かれた先で聞いた、攫われてきていた少女を慰めようと盗賊に仕える老婆が語った話です。
その少女は婚約者の策略で無事に救い出されますが、その後、恩人ならぬ恩驢馬として感謝を捧げられたはずのルキウスが酷い目にあうのみならず、せっかく助かった少女も無事夫となれた婚約者もなんと悲劇的な死を迎えてしまうという容赦ない展開が続いて驚かされます。まぁそのおかげで、ルキウスは陽物の切除を免れるのですが。
艶笑話が多く、間男の話が頻繁にでてきますが、夫はいつも騙されているばかりではありません。中には妻と姦通しようとした若者を逆にアッーしてしまう話もありました。しかしこの天晴れな夫は呪い殺されてしまうので、スカッとする話でもないのですが。
とにかく艶っぽくも残酷な話がこれでもかと続くのです。
物語の結末は、それまでの猥雑な展開とは打って変わってしまいます。人間に戻ったルキウス自身が、魔術やら女中の尻やらに心引かれていたかつてとは違う、敬虔な信仰の人となっているのです。イシスやオシリスへの信仰へ帰着するこの物語で、主人公がロバであったというのは、興味深いです。もちろんロバのイメージの悪さから、いや耳と性器の大きさから?この動物にされているのでしょうが、ロバはオシリスと対立するセトと結び付けられた動物の一つでもあるのですから。
驢馬はテュポン(セト)に似ているという幸せに恵まれているわけですが、それは肌の色ばかりでなく、それに劣らず、愚かである、傲慢である、という性質によってもおります……
『エジプト神 イシスとオシリスの伝説について』プルタルコス
さて、先日読んだ『私のいた場所』は、生と死のあわいの世界を扱う物語が多く、解説によれば、そこは作者にとって「非合理的な現象を自在に扱うことのできる最も自由な物語空間」であるようです。その世界が夢として描かれている作品も多かったのですが、夢の世界もまた非常に自由な物語空間なのでしょう。
そんな夢の世界を、自分の、あるいは作中人物の夢としてではなく、オウィディウス、ラブレー、カラヴァッジョ、ゴヤ、ランボー、スティーブンソン、チェーホフなどなど過去の巨匠達が見たものとして書き出したのが、この短編集です。知ることのかなわない「かれらの精神の夜半の旅の軌跡」を見事に垣間見せてくださいます。
タブッキが作りだした夢にはそれぞれの人物の人生や作品が盛り込まれているようなので、詳しく知っていれば、それだけ深く感嘆できるのでしょうが、そうではなくても、どの夢にもたちまち引き込まれてしまうので、十分魅力を味わうことはできます。
とはいえ、著者によるそれぞれの人物の略歴紹介がついているのは、とてもありがたいです。
「黒海に面したトミスの町で、紀元後1月16日の晩、凍てつく嵐の夜のこと、詩人にして宮廷人、プブリウス・オウィディウス・ナーソは、皇帝の寵愛をうける詩人になった夢を見た。そして神々の奇跡のなせる業か、詩人のかれは一羽の大きな蝶に変身していた……」
「1599年1月1日の夜のこと、娼婦のベッドのなかで、画家にして激情家、ミケランジェロ・メリージ、通称カラヴァッジョは、神の訪問を受けた夢を見た。神がキリストのすがたをして訪れ、自分を指さしていた……」
「1882年12月25日の晩のこと、フィレンツェの自宅で、作家にして劇評家、カルロ・コッローディはある夢を見た。夢の中でかれは紙の小船にのって大海原をただよっていた……」
「1939年9月22日の晩、死の前日のこと、他人の夢の解釈者、ジークムント・フロイト博士はある夢を見た。夢の中でかれはドーラになっていて、空襲の後のウィーンの町を歩いていた……」
魅力的な短編集を読みました。
ロシアの作家、リュドミラ・ペトルシェフスカヤの『私のいた場所』。
夢のような、生死のあわいのような不思議な場所をさまよったり、あの世の人物とまみえたりする数々の物語が印象的です。
「私のいた場所」では、事故にあい意識を失った女性がおばの家へ行き死んだおばに会う話、「噴水のある家」は、事故で死亡した娘を生き返らそうと奔走する父親の夢と現実が交錯するような話、「新しい魂」は、異なる人生を送る別の人物に魂がジャンプしたかのような話で、前の家族と運命的な再開を果たします。他にも戦死したはずの夫と暮らす話や、棺の中に落とした党員証を探すため妻の墓を暴いた夫の話「手」。
中には現実的な話もありました。「復讐」では、アパートの隣に住むシングルマザーを憎んでいる女が、その子どもが酷い目にあうよう細工を続け、最後はシングルマザーによって鮮やかに復讐されます。
“死の王国”の章では主人公達が死の国に触れます。死神のような人物にあの世の手前のような不思議な世界につれて行かれる「ふたつの王国」、「生の暗闇」は、“生の暗闇”と言うべき大変な危機に直面した女性が死んだ母親に助けられたかのような話、自分が何者か分からない状態で黒いコートを着て見知らぬ場所をさまよう「黒いコート」などなど。
「お伽噺」の章の物語が特に好きです。キャベツの中から女の子が生まれる話というとまさにお伽噺ですが、「母さんキャベツ」は、女性が母親になる話でもあって胸に響きます。「父」は、どこかにいるはずの我が子を探す男が、老婆の助言で。不思議な場所に赴き、父となり夫となる話。見知らぬ場所で暖かい食事の用意された無人の家にお邪魔してくつろいでいると次々に訪問者が現れる、まさにロシアのお伽噺といった展開。「アンナとマリヤ」は、自分の愛する者以外しか助けられない魔法使いが、病に犯された妻の体を別人の体と取り替える話。首の挿げ替え話の一種と言えそうですが、心はむしろ体の方にあるような内容です。
お伽噺の章にははいっていませんでしたが、「奇跡」もまたお伽噺のような不思議な話です。息子に手を焼く母親が、ウォッカを一瓶飲ませたら願いがかなうというコルニールおじさんのところへ行く話。でも女性は結局願い事をしないことを選び、心のありようがすっかり変わっている素敵な物語です。
不思議な話ばかりですが、多くの物語には家族への愛情が描かれていて、気持ちよく読了できました。
できれば“高齢出産の女性が知的障害のある子どもを出産するという内容を含みます、しかもそれは小説中非常にマイナスな意味付けをされています”という警告を、わかりやすいところにつけておいてほしかったです。まぁそれが最後の最後に明かされる重要なことなだけに、それは、無理な話なのでしょうが。ってネタバレ全開ですみません。
時や歴史、記憶をめぐる数々の語りが興味深く、ミステリアスな展開のため一気に読めてしまう引き付けられる作品でした。
“言葉は本質的に不十分なもの”という前提に立ってある一人の作家について書こうとすれば、『フロベールの鸚鵡』のように、多様な視点からの多様な文体によるごた混ぜな作品になってしまうのでしょうが、言葉の不十分さ、出来事は言語化された時点でずれているということを逆手にとって、むしろそれが劇的な効果となるような小説を書こうとすれば、最もそれが鮮やかにきまる形、ごくごく普通の物語の形になるのではないでしょうか。自分の記憶とは乖離した過去のささやかな一投によって手痛い思いをするこの小説は、ごくごく普通の小説の形になっていてます。
語り手であるトニー・ウェブスターは、離婚した妻や独立して家庭を持つ我が子ともそこそこに良好な関係を維持し、趣味のサークルやボランティア活動を適度にこなしている初老の男です。ある時、全く心当たりのない法律事務所から、ある人物の遺産の受け取りに関する知らせが届きます。それは大学生の頃につきあっていた女性、ベロニカの“母親”からの遺産であり、内容は500ポンドという中途半端な額の現金と、二通の「文書」でした。文書の一通は、もう一通の文書である“あるもの”を譲ることを伝える内容の手紙で、そのあるものとは、トニーの親友であった、22歳の若さで自殺したエイドリアンの日記でした。しかしそれは、法律事務所によるとベロニカの手元にあり、手放すことを拒否しているとのことでした。ベロニカはトニーと別れた後、エイドリアンとつきあっており、エイドリアンの自殺はちょうどこの頃のことでした。
ベロニカの家に滞在した際に会っただけで、その後の付き合いなどなかったこの母親からなぜそんなものが自分に残されるのか、全くわからないものの、かつての親友の日記を手に入れるべく、トニーは、あまりいい別れ方をしなかった過去の彼女、ベロニカへの接触を試みます。ベロニカから送られてきたのは、エイドリアンの日記ではなく、ベロニカとつきあいはじめたエイドリアンに自分が送った悪意に満ちた酷い内容の手紙でした。そしてトニーは、自分の記憶から抜け落ちていたこの手紙から連鎖していった出来事に直面する羽目になり、苦い苦い思いを味わうことになります。
人生の終わりに近づくと―――いや、人生そのものでなく、その人生で何かを変える可能性がほぼなくなるころに近づくと―――人にはしばし立ち尽くす時間が与えられる。ほかに何か間違えたことはないか……。そう自らに問いかけるには十分な時間だ。私はトラファルガー広場で休む数人の若者を思った。若い娘が人生で一度だけ踊っている姿を思い浮かべた。いまとなっては知りえない、わかりえないことを思い、知りうるはずもわかりうるはずもなかったもろもろのことを思った。エイドリアンの歴史の定義を思い、柔らかいトイレットペーパーの山に顔を埋めるようにして私を避けたその息子を思った。卵の焼き方がぞんざいで、フライパンの中で一つが破裂しようとも気にしなかった女を思った。その女は、しばらくして日に照らされて垂れ下がる藤の下に立ち、こっそりと、肘から下を水平に揺らすように手を振った。そして、私は逆巻く波を思った。月に照らされ、逆流し、川の上流に消えていく。学生の一団が叫びながらそれを追い、暗闇の中に懐中電灯の光が行き交う。
累積があり、責任がある。その向こうは混沌、大いなる混沌だ。