一定期間更新がないため広告を表示しています
アイザック・ディネーセンのちょっと意外な長編小説に出会いましたので、読んでみました。第二次世界大戦のさなかである1944年、デンマークで別人名義で出版され人気を博した大衆小説です。
昔々私がとある女子大に通っていた頃、何軒か家庭教師のアルバイトをしていましたが、学生間ではなぜか家庭教師のことを「ガバ」と呼び、教え子のことは「ガバ男」、「ガバ子」と呼んでいました。
それが女性家庭教師をさす言葉、“ガヴァネス”に由来することを知ったのは、卒業してからのこと。「ガバ、ガバ」言ってたけど「ガヴァ」だったの!?とショックを受けたのも遠い話。
それよりもずっとずっと昔、19世紀のイギリスでは、住み込み家庭教師ガヴァネスというのは、教養ある独身の中流女性がレディとしての地位を得られる唯一の職業だったそうです。しかしいくらレディとしての体面が守られるといっても、実態はつらくみじめなものだったよう。
この物語は、そんな時代のイギリスが舞台となっており、ある邸宅で盲目の子どものガヴァネスとして主人公が働き始めるところから始まります。若く美しい娘であるこのルーカンが自活の道を選ばねばならなかったのは、母も植物学者であった父も亡くなり、一家が離散してしまったからでした。男やもめであるこの邸宅の仕事一筋だった主人は、次第にルーカンに惹かれてゆき、結婚を申し込みます。何の後ろ盾もない女性にとってその申込は、飛びつかんばかりのありがたい話…のはずですが、物語はここでハッピーエンドとして終了したりはしません。愛のない結婚を望まないルーカンは、父親ほど年の離れたこの男性からの自信満々のプロポーズ、そこにありありと表れる差別の構図に屈辱を感じ、怒りのあまり夜中に邸宅を飛び出してしまいます。そして寄宿学校時代の大親友、大金持ちの娘だったゾジーヌのもとへ行くことを思いつきます。
ゾジーヌには歓迎され、華やかなゾジーヌの誕生舞踏会にも参加できたものの、一夜明けると驚く出来事が待ち受けていました。実はゾジーヌの父親は大きな投機に失敗しており、それが原因で訴えられていたため、債権者や警察の手から逃れるため、舞踏会の途中で偽者とすりかわり逃げてしまっていたのでした。登場人物の本当の姿が明かされ物語が大きく動くのはディネーセン作品ではおなじみですが、物語の後半でも悪者の仮面が剥がされます。
さて、助けを求めて訪れたはずの親友の家で、逆に親友のピンチに立ち会うことになってしまったルーカンですが、今や無一文の親友ゾジーヌとともに再び職探しを始めます。二人一緒に雇ってもらうことを条件にしていたせいで、なかなか思うように仕事が見つからなかったのですが、思いがけないチャンスがやってきました。フランスに居を構える学識高い老牧師から、善行のために二人を1年の契約で養女として迎えたいという申し出があったのです。
裏がありそうな気配がプンプンしているものの、二人は牧師の養女となってフランスへ渡る事にしました。そして田舎の牧師宅で勉学に勤しむ日々を送ります。完全に牧師を信用し、素敵な男性との出会いがあったりしながら過ごすうち、二人は牧師夫婦のとんでもない裏の顔を知ってしまいます。もうここからは、スティーブンソンも斯くやという、ハラハラドキドキ、サスペンスフルな展開。ピンチを乗り越え、敵を追い詰めたはずが、逆に精神的に追い詰められてしまいます。しかし悪魔の化身であるかのような敵に最後に打ち勝つことができたのは、タイトルどおり“天使の優しさ”によってなのでした。
手に汗握るハラハラ展開の後はもう、読んでるほうが恥ずかしい激甘エンディングまでついています。どこまでも行き届いたサービス、この物語が書かれた時代状況から、そのサービスが誰のためであったかを思うと、黙ってありがたく享受するより他ありません。
レベルの違いはあれども、本好きな人にとって日々増え行く蔵書の収納問題は、まさに“苦しみ”ではないかと思います。私自身も低レベルではありますが、蔵書がすでに本棚の許容量を超えてしまっているので、収納には頭を抱えています。増やすのは簡単ですが、減らすのは非常に困難、読むか読まないかという実用だけの問題ではなく、持っていることが満足という面もあるので、家の中の他のアイテムに比べると、格段の処分し難さです。
とはいえ、「自分のその時点での鮮度を失った本は、一度手放せばいい」ということには、大いに頷かされます。吉田健一がそうだったという、絞り込まれた500冊のみの蔵書というのには、大いに憧れてしまいます。
思い立ってわずかばかりを古書店に持ち込んでみたりもしてみましたが、焼け石に水というよりは、結局別の本を購入して帰る有様。書中、著者が思い切った蔵書処分の翌日に古書店でお買い物されている姿には大いに共感させられます。
といっても著者も含め、書中に登場する蔵書家たちの蔵書ぶりは、床が抜けたり家が傾くのも当たり前の万〜十万単位の冊数で、共感どころではありませんが。
この本、そんな蔵書家達の感心したり笑ってしまうようなエピソード、中には戦災などですべての蔵書が灰燼に化してしまった胸の痛む話などのほか、著者自身が蔵書整理のために行った一人古本市の様子など盛り沢山な内容です。
本という物は、集まると空間を圧迫し、地震があれば凶器に変わり、火事があれば燃えてしまう厄介な代物。ならば電子化すれば解決するか……というと、蔵書に苦しんでいる人々というのは、そもそも紙の本―――「紙質から造本、持ったときの手になじむ触感、あるいは函入りであったり、変形本であったり、それぞれの姿かたち」といったものの総合体―――に惹かれているのだから、電子化されたものは別物でしかないのです。蔵書の苦しみは楽しみの裏の顔、「「本が増えすぎて困る」というぼやきは、しょせん色事における「惚気」のようなもの」。ご馳走様でした。
ご多分に漏れず、連続ドラマ『あまちゃん』にはまっております。
日々挿入されるコネタの数々もいちいちツボにはまるのですが、何はともあれ、いやもう松田龍平さんが素敵すぎです。何という素敵眼鏡!この方がクソまじめな辞書編纂者なんかを演じようものなら、それはもう、さらなる萌えであるに違いなく、『舟を編む』が観たくてたまらなくなったのですが、時既に遅し、せめて小説を読んで脳内上映で我慢しようかと思いつつ、手にしてしまったのがなぜか『舟を編む』ならぬ『辞書を編む』。だって、このリアル辞書編纂者の飯間浩明氏も、とっても素敵な眼鏡紳士なんだもの。
さて、この著者飯間浩明氏は、三省堂国語辞典の編纂をされている方であり、この著には、辞書作りにおける編纂者の仕事が非常にわかりやすく書かれております。
『舟を編む』にも、辞書の好みなんて、一般人は全然考えたことがないというようなくだりがありますが、私自身も辞書の違いは、収録語数の多寡や語釈の個性くらいなものとしか思っていませんでしたが、実際には性格とでもいうべき編纂方針がそれぞれ違い、まさに十辞書十色なのだそう。
ここでとりあげられている三国こと三省堂国語辞典は、長らく編纂に携わってきた見坊豪紀氏の方針を引き継いで、世の中に定着した言葉を載せる実例主義の辞書であり、中学生にも分かる言葉での簡潔な説明を心がけている辞書なのだそうです。
手元に第三版の三国があったので、今まで目を通したことのなかった序文を読んでみると確かにこう書かれていました。
辞書は“かがみ”である―――これは、著者の変わらぬ信条であります。
辞書は、ことばを写す“鏡”であります。同時に、
辞書は、ことばを正す“鑑”であります。
“鏡”と“鑑”の両面どちらに重きを置くか、どう取り合わせるか、それは辞書の性格によってさまざまでありましょう。ただ、時代のことばと連動する小型国語辞書としては、ことばの変化した部分については“鏡”としてすばやく写し出すべきだと考えます。”鑑”としてどう扱うかは、写し出したものを処理する段階で判断すべき問題でありましょう。
そのことばを見出しに立てる、ということがまず大切です。
そのことばが社会にあることを知り、次に、そのことばが辞書にないことを知る―――新しい見出しが辞書に立つまでには、この二つの手続きがどうしても必要です。そして、その手続きを可能にする方法はただ一つ、用例を採集することであります。
常に新しい今のことばを知るために必要で、辞書作りに欠かせないのが、用例採集だそうです。編纂者は、世にあふれるありとあらゆる情報から、これはということばを掬い出しその使われ方、用例を集めていらっしゃいます。街中を歩くときでも、乗り物の中でも、テレビを見ていても、時には奥様との会話の途中でも、気になることばがあればすかさず記録。町で気になる表現の使われた看板の写真を撮って歩いていらっしゃる様子などは、簡単なことのようにも思えますが、新しい用例をすかさず記録できるためには、ことばに対する鋭敏さ、何より日本語の相当な知識がなければならないようです。たとえば、テレビから流れてきたナレーションの台詞「いさぎのいい」という表現に、私自身はおやっとなったりなんか絶対しません。(”いさぎよい”とは、“いさ”+“清い”であって、いいとか悪いとかではないのに、現代は“いさぎいい”とか“いさぎのいい”という表現が定着しているそう。本来の日本語としては誤ったものであっても、それが広く実際に使われている言葉であるならば、辞書に掲載すべきというのが、三国の方針、実例主義にのっとった考え方なのです。)
同じ光文社ですから、当然『舟を編む』の人気をうけての本書の登場なのでしょうが、書中『舟を編む』の影響で語釈が変わったエピソードがあって驚きました。「愛」ということばの語釈、これが異性に対する感情とされていることに対し、小説中では同性愛もあるではないかと議論されているのですが(さすがはしをんさん)、それを受けて三国の語釈も“男女の間で”という記載が変更されてなくなったそうです。素晴らしい鏡ぶりではないですか。
この書の後半では、膨大な収録語数でありながらコンパクトな電子辞書に対して、いかにして三国が張り合えるのか…という話題が出てきます。著者は、相手がなんであれ、三国は三国の目指す方向、実際広く使われていることばを丹念に拾うことで、他の辞書にないことばを載せること、誰にでもわかりやすい説明を目指すこと、それこそがこの辞書の胸をはれる部分だとおっしゃっています。
その点も確かに魅力ですが、第七版の編纂に立ち会ったような気分にさせられる本書を読むと、無性に三国が愛しくなってしまいます。第七版の発売が待ち遠しいです!