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表題作『菩提樹の蔭』は、友人の幼い娘のために作った物語を、彼女が大人となり母となったときに、改めて大人向けの物語として作り直された作品だそうです。
この文庫には、その少女・妙子が9才の頃の、著者との親しいやりとり、と言うか、どうしようもないほどの可愛がりっぷりが日記風に綴られた『郊外 そのニ』と、妙子が幼い頃から大人になり35歳で亡くなるまでの間に送られた手紙で構成された『妙子への手紙』が併録されていて、作品や著者自身のことがよりよく理解できる構成になっています。が、『郊外 そのニ』の衝撃が強すぎて、読み終える頃には、表題作のことが頭からきれいに抜けてしまいました。中氏が愛する少女妙子の子どもらしい可愛いらしさが、これでもかと見事に書き出されていて、中氏でなくとも、抱き寄せて膝に乗せて抱きしめて頬擦りしてキスして…妙子タンペロペロと、なってしまいそうです。いい歳の大人が幼女を溺愛する様にドン引くどころか、この部分は可愛がり方が足りなくて物足りない…とか、思うようにされてしまいます。
著者の妙子に対する思いが書かれた妙子への手紙の冒頭部分にあるように、実の父親以上に無私の愛であったためなのか、妙子だけでなく、無垢な少女を愛するこの三十代男もまた、無垢で可愛らしく見えます。
さて、表題作。
出産の際に妻が亡くなってしまったため、男手一つで一人娘を育ててきた彫刻家ナラダのところで弟子として働いている孤児の若者プールナが、その彫刻家の娘チューラナンダと恋仲になるも、結婚はさせてもらえず、苦しんでいた中、娘の方が病であっけなく亡くなってしまいます。弟子と彫刻家はともに悲しみ、思い出のために二人して娘そっくりな等身大の彫刻を彫り上げました。そっくりな姿を目にし、恋心に苦しむあまり、プールナは耶摩の祠で、彫刻にチューラナンダの命を宿して欲しいと祈ります。大それた祈りに怒った耶摩は、プールナを罰するためにその祈りを聞き届けました。その結果、まさに罰としかいいようのない苦しみにプールナは陥ってしまいます。
身勝手な恋情に端を発する悲劇は、最後、プールナが我が子ピッパラヤーナとチューラナンダに対して無私の愛を抱いたことによって悲劇的ながらも優しい結末を迎えます。
苦しい現世へ魂を呼び戻す私利の愛や、欲情のまま行動する愛を断罪するような内容でしたが、これもとの子供向けのお話はいったいどのようなものだったのか気になります。
昔妙子がこの膝の上にこの腕の抱擁のうちにあったように妙子はその一生をとおして善きにも悪しきにも常にわたしの慈悲のなかに生きていたのである。妙子は自らの涙の流れをもって洗い去るべきものを洗い去った。そのうえ私が何を思い何を為すことがあろうか。私にとって大切なのは過誤の有無よりも先に善悪のありかたである。何らかの規約の厳守ならばパリサイの徒も市井の無頼漢もよくするであろう。何よりも肝要なのは道徳心の無私であり純粋である。深く己の凡下を省みず人間愛の不足をもって道徳的潔癖と過り、郷愿的偏狭に閉じ籠もって他の嫉視するがごときは私の最も嫌悪するところである。私は生前その両親との関係において充分達し得なかったところの道徳的完成にまで妙子との関係において達することができた。不思議の因縁であり、大きな喜びである。
かなり進行した膵臓癌だと診断された73歳の母親と、その息子である著者が、本をとおして語り合った2年間の記録。
母とわたしのブッククラブは、わたしたちの人生そのものになったと言えるだろう。が、より正確に言えば、わたしたちの人生がブッククラブになったのだ。おそらく以前からブッククラブであったのだろうが、そのことに気づかせてくれたのは母の病だった。わたしたちはクラブのことをさほど話題にしなかった。本の話をし、わたしたちの人生について語り合っていただけだ。
誰しも読むべき本をすべて読めるわけではなく、すべきことをすべておこなえるわけでもない。わたしは母から多くのことを学んだ。その一つが、読書は活動の対極にあるのではなく、死の対極にあるということだ。母の愛読書を読むたびに、母のことを思う。それらの本を人にあげたり勧めたりすれば、母という人を形成したものの一部が本とともに伝わり、母の意志のいくばくかが読者の心のなかに生き続けると考えている。そして読者は母と同じような形で人やものを愛し、母がこの世でなしたことをその人なりにおこなおうとするかもしれない。
ブッククラブというほど形式的なものではなく、互いに同じ本を読んで、時間の許すとき、たいていは抗がん治療を受ける病院で、感想だけでなくその本を媒介としてさまざまなことを語り合っています。本について語り合うことで、深く母親のことを知ってゆくことができたため、これは読書をともなう闘病の記録であるだけでなく、この母親が生きてきた、なしてきたことの記録でもあり、この母親の生き方、考え方の記録にもなっているのです。
とにかくこの母親が、すごい、すごすぎる方なのです。この書の素晴らしさは、この方の素晴らしさにあるともいえます。ひょんなことからタイの難民キャンプで働いたことをきっかけに(これもかなりすごいエピソードです)、帰国後仕事をやめて難民女性委員会の運営に関わり、銃弾飛び交う紛争地域であろうとも、世界のあちこちを飛び回り難民救済に奔走し続け、癌の宣告を受けた後も闘病を続けながらアフガニスタンに図書館を作ろうとしているような女性なのです。そういった大きな功績だけでなく、日々の暮らしの中でも、常にマリリン・ロビンソンの小説Gileadのなかの一節のような問いが頭にあるような人です。
誰かと出くわしたとき、どのような形にしろ誰かと接するとき、それは問いかけをされているようなものだ。いまこのとき、この状況で、神はわたしに何を求めておられるのだろうか?
非常に勇気ある女性という印象を受けましたが、この方の言うところの本当の勇気について、モームの『五彩のヴェール』をきっかけとして語られている部分に心打たれました。
書中多くの本が取り上げられていますが、その幅広さに驚かされます。重いものから軽いもの、古いものから新しいものまで、さまざまな本が読まれています。それらの本について知ることが出来ることはもちろん魅力的ですが、さらに、本を通して学ぶこと、理解すること、語り合えることがいかに多くあるかを強く感じさせられることが何より素晴らしいです。本好きの方には是非手にしていただきたいです。
「それにどんなときでも、世の中についてもっと学びたい人や、支援の動機をどこに求めていいかわからない人に言えることがあるわ。本を読みなさいって言えばいいの」
わたしは母から、最悪のものから目をそむけず、人はよりよいことができると信じるよう教わった。本は人間の武器庫のなかで最強の武器であり、あらゆるジャンルの本を読むことは、たとえそれがどのような形態 <略> であっても、最高の娯楽であり、人と語らうすべであるという、揺らぎない信念を母はもっていた。母からは、人には世に変化をもたらす力があり、本には実に重要な役割を果たすということを教えられた。本は人生でなすべきことや、人への語りかけかたを知るよすがである、と。さらに、この二年という月日や数十冊の本、病院でともに過ごした何百という時間を通して母が示してくれたのは、本というものは相手と親しくなり、たとえそれがもとから非常に親密な母と息子であっても、たとえかたほうが死んでしまっても、その親密さを維持するための媒体だということだ。