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「わたしはアサヒムー―――不殺生を信じている。かといって非暴力が常に正しく、戦争がまちがったものであるというふうに断言したくもない。たぶんヒンドゥー教徒だからだろうな」
びっくりした。「だってヒンドゥーにも善悪の別はあるんじゃないの?」
父はにっこりした。ヒンドゥーの哲学を論じるのが好きなのだ。「なかには、ユガ・ダルマ―――なにが正しいかは時と場所と状況による、という考え方を説いた書物もある」
「でも戦争は人殺しでしょう。殺生はいつだって許されないことのはずだわ」
「それは、たしかにそうだが」父はゆっくりと言った。「ほかの人間の考え方をどうこういう権利はないんじゃないかな。たとえ相手が自分の息子でも」
キッタが口を出した。「それにキリスト教の十戒やイスラム教のコーランのように、善悪についての掟を一冊にまとめた書物はヒンドゥー教にはないぜ、ちがうかい?」
父はほほえんだ。「掟として一冊の書物にまとめて、それで済む問題だろうか。慈悲深い心はどれも同じひとつの神の化身、アヴェターだ、わたしたちにとっては」
唯一無二の経典がないことと、神様があらゆる姿をとりうること―――そのふたつの意味するところを深く考えたことなど、これまで一度もなかった。ヒンドゥー教は善悪をはっきり区別してはいない。教義には定めず、わたしたちが慈悲の心をもってどうふるまえばよいかを、それとなく示しているだけだ。
「図書室からはじまる愛」などと言われると、フフフンフ〜ン♪などとカントリーロードを鼻歌で歌いながらウキウキと紐解きたくなる気持ちになってしまいます。そんな本好き心をぐっとつかむ秀逸なタイトルではありますが、実際に読んでみると、「いやその愛は図書室からはじまってないんじゃないですかい?!」「というかこの本のテーマってそれなの??」と、つっこみたくなりました。それもそのはず、原題は直訳すると、「階段をのぼって」なのだそうです。
時は1940年代初頭、保守的な考えにとらわれない医者の父親を持ち、カーストの上位、裕福な家庭で育ってきた15歳のインドの少女が主人公です。女学校の同級生の多くが、恵まれた家柄の男性との結婚へと心を向けているのに対し、この少女、ヴィドヤは、従来の女性の生き方に反発し、大学への進学を志しています。
その頃インドでは、ガンジーを指導者とする非暴力・不服従による独立運動が行われていましたが、ヴィドヤの父親も密かにこの運動に加担しており、ヴィドヤはそれを誇りに思い、自分もいつかその運動に関わりたいと思っていました。あるとき父親の運転する車に同乗していた際に、独立運動のデモに巻きこまれてしまいます。車から降りないように注意されていたにもかかわらず、興奮したヴィドヤは車を降りてデモに加わり、それを追ってきた父親は、イギリス人の警官からラーティー棒で打たれた女性を庇ったせいで脳に酷い損傷を受けてしまいます。
父親の命は助かったものの、体は動かせても、精神的には廃人のようになってしまったせいで、ヴィドヤの家族は今までのような暮らしを続けてゆけず、父親の実家へ身をよせなければならなくなってしまいます。あからさまに歓迎しない父の兄一家から邪険にされ、息詰まるような生活を強いられる中、ヴィドヤの唯一の心の慰めは、女性が立ち入ることを禁じられた、男性たちの居住空間である2階にある図書室で読書することでした。言いつけられた仕事の合間に禁じられた階段をこっそり上って、ひと時の心の自由を満喫していました。
ところが、兄嫁である伯母にヴィドヤの秘密がばれてしまいます。伯父・伯母から叱責され、きつく禁じられるも、ヴィドヤは思い切って家長である祖父に図書室へ入る許可を求め、この家に居候している大学生、ヴィドヤの父の妹の結婚相手の弟であるラマンという青年の加勢もあって、自由に図書室へ入る許可を勝ち得ました。
ヴィドヤは、図書室で、この美しい青年ラマンと何度か語り合い、二人は次第に惹かれ合ってゆきます。そしてこのまま不幸な境遇の少女が、颯爽と現れた青年によって救い出される展開になるのかと思いきや、この少女はそのようなものにあっさり飛びついたりはしません。
父親の怪我を自分のせいと考えて苦しみ、戦争が拡大してゆく中、兵士に志願した兄にとまどい、悩み、不確かな自分の立場におびえながらも、自分の志を保ち続け、生きる道を見出してゆきます。それは、理解してくれる祖父の助けがあってこそですが、祖父の理解が得られたのは、彼女のひたむきさがあってのことです。そして、自分の意思で、自分の進むべき道を決めた時にようやく、ラマンからの愛を、ラマンを愛していることを受け入れるのです。
従来からのしきたりによって禁じられていた階段を、勇気を持って強い意志でのぼったヴィドヤは、新しい生き方へと自立にむけて、また階段をのぼってゆきます。その姿は本当に清々しく、気持ちよく本を閉じることができました。
インドの風習や、人々の考え、歴史など、あまりなじみのない文化に触れさせてもらえる上、非常に前向きな気持ちにさせられる良書だと思います。YA作品ですので、お若い方々、是非どうぞ。
何ヶ月もブログを放置しておいて、久々に書いた感想が「肉蒲団」だなんて、そリャあズンドコベロンチョなんてコメントがついても文句は言えねぇ〜とつくづく思っております。
もうなんだか暑いというか、蒸っし暑いですね。それならそれで、いっそ暑苦しい肉蒲団にでもくるまれてしまえ!という勢いで読んだわけではないのですが、これ、そんな暑苦しいエロなど書かれておりませーん。
この小説の作者は一片の老婆心から、世の中の人々の淫慾をとどめんものと、この筆をとったのでございまして、ゆめゆめみなさんに淫慾をすすめるものではございません。看官がたにおかれましては、どうぞこの主旨を誤らないようにお願い致します。
さて、この本、清朝風流小説の代表作と言われるほどの作品なのだそうで、古くからひっそりと日本でも愛読されてきていたそうですが、内容が内容なだけになかなか表立った翻訳本の出版はなされなかったのだとか。昭和26年に出版されたこの伏見訳も、完訳と銘打っているものの、ねっとり書かれたあんな部分やそんな部分は省略せざるを得ず、簡潔な表現に置き換えられているそうです。それはそれでいやらしくもありますが。
とは言えこれ、エロというよりは笑いに次ぐ笑い、なんだか非常に面白かったです。
未央生という、優秀でなかなか見目麗しい若者が、“天下第一の佳人を娶る”という望みを果たすべく、美女を求め続ける物語。
未央生の才能と、色に溺れて世に禍をなしそうな様子に目を留めた高僧によって、色事を絶って禅の道へ入ることを勧められ、人の妻を淫すれば己の妻も人に淫せられることを説かれるも、未央生は気にせずわが道を進み、高僧に言われた通り、淫欲のあまりに最後には憂き目にあってしまい、ようやく改悛して仏門に入るまでの遍歴の日々が綴られています。
苦労して娶った美しい妻にあきたらず、さらなる美女を求めて旅に出た未央生は、しかしながら、自分のソレが、人の妻を奪えるほどには立派なものではなかった、むしろ実に貧弱なものだったという辛い現実にぶち当たるのですが、それに対して選んだ道がスゴいです。
微陽をして巨物たらしむことができるという不思議な術者の危険な手術を受けることにするのです。その手術とは・・・・
一番いの牡犬と牝犬に交尾をさせ、その真っ最中に牝の陰を小刀でえぐって牡の腎を取り出し、それを四分割したものを未央生のソレに四すじの切れ目を入れて埋め込むというもの。
十中九分までは成功しないといわれる危険な手術と言われても、風流のためならば命もかけちゃう未央生は、そんなことには頓着しませんし、あまりにスゴいものになってしまうので、処女はもとより10代の娘さんとはできないとか、子どもができなくなるとかいう不便も、まったく障害とは考えません。かくして手術は成功し、スゴすぎるモノを手に入れた未央生は、意気揚々と、他所の女性に手を出してゆきます。
しかし、美しい女たちから奪い合われて、調子に乗って過ごしていたその間に、妻を奪われた男が復讐のため、未央生が郷里に残してきた妻を奪い、さらにはその女を娼家に売り払ってしまっていました。そして、女は秘技を覚えて評判をとり、噂を聞いた未央生は、それが妻とも知らずにその娼家へ行ってしまったために悲劇が起こってしまいます。
悲劇の元凶、未央生の道を踏み誤らせた欲心のもととなっている改造された立派なブツ、それがバッサリ切り落とされて、ようやくの結末。うわぁ〜南無南無南無・・・・・。
このように種々の悲惨な結果を生じます故に、世の人々は女色におきまして、断じて「近きを舎いて遠きに求め、古きを厭って新しきを求める」ということをしてはならないのでございます。
世の奥様方、旦那様に是非一読を御薦めください。