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芥川龍之介の作品、何作か絵本化されております。『蜘蛛の糸』だとか、『トロッコ』だとか、『杜子春』だとか。そんなよく知られたお話以外にも、『魔術』という作品が、宮本順子さんの挿絵で偕成社によって絵本化されているではないですか。私自身、小学校高学年の頃、この小説を楽く読んだ覚えがあるので、小学生の方々には是非手にしてみていただきたいです。
ところで、魔術師の弟子志願の若者が、魔術師のテストに失敗して、弟子入りを断られるというこの物語の筋書きは、仙人の弟子志願の若者が、仙人のテストに失敗して、弟子入りを断られる『杜子春』によく似ています。
『杜子春』は、中国唐代の伝奇「杜子春伝」をもとにした作品です。「杜子春伝」は、さらに先行するインドの伝説の名残をとどめているため、仙人が杜子春に課す“声を出してはならない”という試練は、仙薬を作るための手段でしかありません。しかし、芥川「杜子春」では、それは人間に愛想をつかした杜子春自身を試すものとなっています。なので、課題の失敗は、人間として合格したことを意味し、“人間らしい、正直な暮らし”へ杜子春を向かわせる素敵で説経臭い結末に結びついています。
「魔術」の方は、筋書きこそ似ているものの、そういった素敵で説経臭い結末は用意されていません。魔術師のテストの鮮やかさ、その面白さが際立たされた作品です。
実は、この作品にももととなったネタがあるらしく、中世イベリア半島にあったカスティーリャ王国王族の血統であるドン・ファン・マヌエルが1335年に書き上げた『ルカノール伯爵』という作品中の一説話に、こんな話があります。
当代随一といわれるトレードの魔術師に、サンティアゴのある司祭長が弟子入りを申し出ます。魔術師は、もしあなたが出世をして偉くなってしまえば、魔術を教えた恩を忘れてしまうだろうから、教えられないと断ると、司祭長は、どれほど高位の聖職者になろうとも、魔術師の意に従うことを確約し、魔術を教えてもらえることになります。二人が魔術を習得する場所へ赴く前、魔術師は召使に奇妙なことを言いつけます。
「夕食にウズラを用意するように、しかし命じるまでは焼きはじめないように」
魔術の修行が進む中、司祭長のもとに、大司教に選出されたという知らせが入ります。魔術師は、それを祝い、自分の息子に空いた司祭長の職を与えてくれるように頼むのですが、この新しい大司教はうまく魔術師を言いくるめて、自分の親族にその職を与えてしまいます。その後もこの男は、どんどん出世を続け、ついには枢機卿、さらには法王に選出され、ローマへ移ります。そこへ魔術師が自分の息子を取り立ててくれるよう申し出ても、新しい法王は拒み続け、魔術師が怒って法王の忘恩を詰ると、法王は逆に魔術師を異端として処罰すると脅しました。魔術師は、恩があだで返されたのを見てとると、故郷トレードへ帰ることにしますが、法王が道中の食事さえも用意してくれなかったため、召使を呼んでこう命じます。
「ウズラを焼くように」と。
その瞬間、そこはローマではなくトレードの魔術師の家となり、法王となった男は、もとのサンティアゴの司祭長のままなのでした。
この魔術師のテストの鮮やかさは、『魔術』の中にもしっかり踏襲されています。同じこの説話をボルヘスが『汚辱の世界史』の中でとりあげていますが、こちらはほぼドン・ファン・マヌエルの作品と同じ内容です。
この『ルカノール伯爵』という作品、非常に面白いので、少しご紹介しておきます。この作中の挿話、「ある王といかさま機織り師たちに起こったこと」は、アンデルセンの「裸の王様」のもとになっていたりするそうですが、この書自体、さまざまな古い説話や伝承を下敷きにした内容なのです。ルカノール伯爵が、さまざまな困難や問題に直面するたびに、有能な家臣パトロニオにアドバイスを求め、パトロニオはいつも上手いたとえ話をすることで、ルカノール伯爵のとるべき方策を示して行きます。そのやりとりが繰り返されること51回、つまり、51の説話を含む、一種の枠物語なのです。
困った友人への対処法、儲け話を信じるべきか、よき結婚相手とは、よき友とは、立派な人物の見分け方等々、時代を問わず人が直面するさまざまな問題に答えるたとえ話が盛り盛り詰まっています。「塞翁が馬」や「李下の冠」といった有名な故事めいたお話もあって興味深いです。
上で紹介した「サンティアゴの司祭長とトレードの大魔術師ドン・イリャンに起こったこと」のように、教訓を除いても、お話として面白いものも沢山あります。個人的には、人間の持ちうる最も優れた資質とは何かを問う「サラディンと彼の家臣の妻に起こったこと」が好きです。家臣の美しく貞淑な妻に恋心を抱き、言い寄るサラディンに対し、その女性は、自分の身を任せる条件として、あることを教えてくれるよう頼みます。あることとは、人の備えうるもので、あらゆる善の母であると同時にその礎でもあるような最良の資質とは何かということでした。サラディンは、何とかその答えを見つけ出そうと、賢者を集めますが、正しく答えられるものは一人もいなかったため、旅芸人に姿をやつし、答えを求めて諸国を旅してまわります。そして、ようやく見つけ出したその答のおかげで、ハッピーエンドに終わるのです。
さて、芥川の『魔術』、元ネタは他にもあって、この物語に登場するインド人魔術師、マティラム・ミスラとその師のバラモン、ハッサン・カンの名前は、谷崎潤一郎の短編小説「ハッサン・カンの妖術」から採られています。とはいえ、物語の内容は全く異なっております。「玄奘三蔵」という作品を書くために図書館でインドについて調べていた著者自身であるかのような語り手が、そこでマティラム・ミスラというインド独立運動に関わる人物と懇意になり、彼が実は、ハッサン・カンとい高名な魔術者の秘術を学んだ者である事が明らかになります。そして、彼の魔術を実体験し、その夢とも現ともつかない世界で、畜生界に落ちた母親に出会うのです。
魔術師の見せる幻影めいたものの中で、畜生と化した親に会うというモチーフは、『杜子春』にも見られますが、ここにも何かつながりがあったりしないものかと感じます。