2018.03.25 Sunday
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「洟浚え」
彼は学校の入口に鼻ポンプを据え付け、子供の一人びとりを名前で覚えていた。
おじいさんが話してくれたところによると、昔は洟浚えはポンプなど持っていなかったそうだ。そのかわりい草の管を用いて、それでもって口で洟を吸っていた。そして少しも呑みこまずに鼻の穴を底まで浚えるのが彼は絶妙といってもよいほどうまかったので、その掃除の快感をたくさん味わえるように、悪童どもは洟の棒を一本でなく二本にしていたそうな。
ポンプを用いたのでは興冷めである。ぼくは思い出すが、そのためにクラスの中には洟浚えの存在さえしらぬ者が出てきた。彼らは手洟をかみ、歩道や学校用の上っ張りを汚したものだ。
糸状のひょろひょろした人間が、まるで魚が跳ねまわるような動きで、長くなったり、くねくねと身をくねらせたりしながら、はっとするような軽さで踊りまわっている」。1911年、パウル・クレーは、ヴォルテールの『カンディード』をこんなふうにイメージ化している。彼は、この本が―――ひとつの時代、ひとつの文化の引用という、厚い壁を越えたところで―――今世紀の読者にいまも語りつづける精力的なほがらかさに、目に見えるかたち―――ほとんど音楽をといいたい―――を与えた。
「『カンディード』あるいは速度について」 イタロ・カルヴィーノ
「しかし、ぼくたちの庭を耕さなければなりません」
彼はまず、画板を百の資格に区分けする。それぞれの四角に番号をつけて小さな手控え帖に書きつける。しかるのち、これらの四角をさまざまな色で塗り分ける。さまざまな色合いの緑、黄色、青色、肌色、そのほかできるかぎり多様な混色をおこない、おのおの四角を着彩する。そしてその記録を、先述の手控え帖に書きとめる。そんな引用どおりに、100分割された物語の各章には、それぞれさまざまな色名の章題がつけられています。物語が、それらの100色で塗り分けられたごとく、各章は、章題通りの色合いを帯びた話になっています。
『ネーデルランドの画家列伝』カレル・ファン・マンデル
ことによるといつの日か、自分が最初にいた世界へ戻れないともかぎらない。だから、とりあえず今は、そちらの世界について書き付けておきたいと思う。せめて自分が何者かを思い出せるようにしておきたいからだ。
人が夢中になるのは、熱望の対象にばかりではなく、熱望するというそのことに対してであるということがよく分かる。つまり、人が欲しがるのは、酔いを覚ますことではなく、酔いと欲望であり、何よりも恐れるのは、幻滅させられること、つまり、錯覚から開放されることなのだ。
「なぜって、体こそが先にその状態に合わせて心を作りだしているのですからね。」