2018.03.25 Sunday
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「わからないことをそのまま、できるだけ読者を迷わし楽しませるように知恵をしぼりながら差し出しているのが、ここにあげた作品といえるでしょう」
「神さまはこう思っていらっしゃるのです。『ハイジには望みをかなえてやろう。しかしあの子がほんとに幸福になれるように、適当なときにかなえてやらなければならない。もし今かなえてやったら、あとになって、きっと、あのとき望みをかなえてくれなければよかったと、泣いて後悔するだろう』って。それなのにあなたは、神様から逃げていって、お祈りをやめてしまっているのです。神さまはお祈りしているものの中で誰か声の聞こえなくなったものがあると、こらしめのために放っておかれるのです。するとこんな人たちは苦しくなって、『神さま、どうぞお救いください。神さまだけがわたしを救ってくださるのです。』と叫ぶのです。神さまは、『おまえはどうして私から逃げていったのだ。わたしは逃げてゆくものは救ってやれないのだ』とおっしゃるのです。だから、これからもずっと神さまを信じてお祈りしましょうね。」「神さまは、あなたの望むことは何でも適当なときにかなえてくださいます」その言葉を信じて、再びハイジはお祈りをはじめ、その後の経験を通じて、そのことを深く実感するようになるのです。クララがアルプスでの生活によって自分の足で歩けるようになるエピソードこそが、それなのです。
「ハイジや、賛美歌を一つ読んでおくれ。わたしは、これから先は、たくさんのお恵みを授けてくださった神さまに感謝することより他には何もないんだからねえ」
第五、六話の女は老いた旅の巫女であった。通常の「女」一般の与件を切り捨て、ことさらに「女」を怪物化しようとする設定であった。しかも巫女に特有な呪力を付加することによって、その姿はいっそうグロテスクな混沌として表されることになった。それを男が女の中にふと見いだす、奥底の知れない神話的な深淵性といいかえてもよい。などという記述は面白いと感じます。男性にとって理解しがたい女性の深淵に対する恐れが、蛇という姿に結び付けられているのでしょうか。ギリシャの伝承に、花嫁の秘所から蛇が出てきて花婿を食い殺す話があるそうですが、これまたそういう感覚かも。
「蛇」のシンボリズムがそこに託されるのは、もちろんこの国の長い竜蛇の幻想の歴史にもとづくものであって、抽象化の不能な(対幻想の反面性をいいたいのだが)そのような「女」の深淵性が、「蛇」の古来からの多義的なシンボリズムによって、暗喩と喚喩の機能をはたすからである。
無造作に<女>といい、<蛇>というが、近世文学の世界では、<女>という語は、たんなる性別をさすのではなく、また妻女、老婆、嚊、奥方、妾、下女、娘、腰元、風呂女など、日常性につながる女性の在り様をさすものでもなく、それらと異なる一種異様なものの全体をさす語でさえあったのである。つまり日常と違う文芸の世界では、<女>という語には、デモニッシュな意味合いさえ漂っているのだった。
さて其十悪とは、一には貪婬無量、いはゆる男子を思ふ事、海のながれをのむがごとし。つゐにあきたる事あたはず。涅槃経には、たとひ男子の数恒沙のごとくして、ひとりの女人とともに欲事をなすとも、なをたる事あたはずといへり。みづからまとひおぼるゝのみにあらず。世の人を心まどはす事、その過いくばくぞや。四百四種の病は、宿食をもッて本とし、三途八難の苦は、女人を根本とすといへり。ふかくおそれつゝしみて、みだりに女人を見るべからず。智度論に云、たとひ焼たる鉄をもて、眼の中にてんずるとも、散心を以て女色を見ざれ。虫+元(むしへんに元)虫+也(むしへんに也)、毒をふくむ、なを手にとらへつべし。女情人をまどはす、これふるゝべからずといへり。かれは一世の身をそこなひ、これは永劫の魂をなやませばなり。だとか、
二ツには、嫉妬の心、毒ヘビ(むしへんに)のごとく、もしその家に異女ありて、容顔をのれにすぐれたれば、かならず憎嫉をいだき、口にはあひたのしむににたれども、心は怨家のごとし。もしかの女、をのが夫と通ずとしれば、嗔恚の炎むねをこがして、或は人をやとひて殺害し、或は讒奏罵辱し、方便を以、他をのぞき、われひとり立ん事を思ふ。などと書かれているそうです。
ここに「嫉妬の心、毒へびのごとし」という断定が、すなわち「女と蛇」というシンボリズムに重なっているのを見ることができるだろう。
<略>こうした女人罪障の縷々たる唱導の、ことに<女>と<蛇>の比喩などについては、ほとんどが仏教の経典に出所を持つものであることを指摘しておかねばならない。
ジェイムズ・キャンベル『神々の仮面』やバーバラ・ウォーカー『神話・伝承事典』に半ば通説として述べられているところは、こうです。曰く―――インド、オリエント、地中海世界を問わず、その昔、女性的な農耕文化が支配していた時代には、人々は大地母神を崇拝していました。蛇は大地母神と一体、あるいは女神のトーテムとして切ってもきれない関係にあり、大地の豊饒性と女性原理を象徴していました。多くの女神が蛇女神でありました。
すなわち、インドのナーガ族の母神カドリー、バビロニアのデルで崇拝されていた人頭蛇身の女神カディ、蛇の女王と呼ばれたアッカドのニンフルサグ、エジプトの創造女神ペル=ウアチェト―――ところが、後の家畜を飼育し、戦いと略奪をこととする文明が興隆すると、男性的・家父長的原理が世界を圧し、神話の上でも蛇神たちは男神に倒される。
すなわち、インド神話ではインドラの宇宙蛇ヴリトラに対する勝利がそれであり、ヘブライ神話においては海の神レビアタンを倒すヤーウェ、ギリシャ神話ではゼウスのテュポンに対する勝利がそれに相当する。英雄たちの蛇退治も同様で、とりわけ男性原理のかたまりのようなヘラクレスは、ヒュドラー、ラドンといった蛇のみならず、ケルベロス、ネメアの獅子、オルトロス―――とエキドナの子供達を片っ端からやっつけていてエキドナにすれば憎い敵というべきである。
かくのごとくして蛇は、明るい光の世界から追い払われてしまいますが、しかし、けっして死ぬわけではない。秘儀や地方的崇拝、職業組合の礼拝などに生き残り、あるいは闇の世界に隠れひそんでいる。復讐の女神達が蛇の髪の毛をもっているのはそのあらわれということになります。
『蛇女の伝説』南條竹則
古代における蛇のシンボリズムはきわめて多義的且つ重要な意味を担わされていた。それはまず、みずからの尾を啖う円環状のウロボロス(宇宙蛇)としてあらゆる生成に先立つ宇宙的始原状態の象徴である。発端(口)と終末(尾)はまだ別々のものとして分化しておらず、唯一の輪のなかに閉ざされてまどろんでいる。それは始原の全一性の、したがって意識による裂け目をまだ知らない本能や衝動の層の、原睡眠状態にある無意識をあらわす全円である。そのかぎりでは蛇は母性原理的なものの領域の生棲者である。
このとぐろを巻いてまどろんでいた蛇はしかし、鎌首をもたげるようにやがて上方の意識に向かって起き上がる。心理学的には、明暗を混沌として孕む原母的なものの全一性からの、男性的なものの分離、古代インドのクンダリーニ蛇に見られるような脊椎を直立させた男根象徴的なものの出現の局面である。さまざまな対立があらわれてくる。天と地、男性的なものと女性的なもの、明と暗、光と闇などが。こうして蛇は全一性の象徴から両極的な分裂の象徴となり、蛇の評価をめぐって二つの対立する見解が截然と分かれることになる。蛇の象徴性は、肯定と否定、共感と反発の鮮明な二相に分裂する。
『悪魔礼拝』 種村季弘