2018.03.25 Sunday
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この詩にあるものは善かれ悪しかれ
すべてが英知の風示であり暗示です
それぞれの話は(教訓の)宝庫にして
単なる作り話ではございません
お話して、ピュー。
どんな話だね?
ハッピー・エンドの話がいいな。
そんなものは、この世のどこにもありはせん。
ハッピー・エンドが?
おしまいがさ。
お話して、ピュー。
どんな話だね?
何度でも最初から始まるお話。
それはつまり人生の物語だ。
でも、それってあたしの人生の物語なの?
お前さんが語りさえすればな。
お話して、シルバー。
どんな話?
その次に起こったこと。
それは事と次第によるわ。
事と次第って?
わたしがどう話すか次第だってこと。
ほら、光の筋が海を照らしだす。あなたの物語。わたしの。彼の。それらは見られ信じられるためにある。耳を傾けられるためにある。絶え間なく垂れ流される筋書きの世界で、日常の雑音を超えて、物語は耳を傾けられるのを待っている。
最良の物語には言葉などない、という意見もある。それは灯台守として育てられなかった人たちの言うことだ。確かに言葉はぽろぽろこぼれ落ちるし、大切なことは往々にして言葉にされずに終わる。大切なことは顔つきや仕草で伝えられるのであって,不器用にもつれる舌によってではない。真実は大きすぎるか小さすぎるか、いずれにせよ、言語という鋳型には寸法が合わないものだ。
それは私だって知っている。でもわたしは他のことも知っている、なぜなら私は灯台守として育てられたのだから。日々の雑音のスィッチを切れば、まず安らかな静寂があってくる。そしてつぎに、とても静かに、光のように静かに、意味が戻ってくる。言葉とは、語ることのできる静寂の一部分なのだ。
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さうかも知れません。併し又、さうでないかも知れません。若し馬を回復させるためには妻は胸に血を流さねばならぬと知つてゐましたら、先生、御言葉のとほりをやつたかも知れません。そして麥の一桝ぐらゐは惜しまなかつたかも知れません。ですがかやうな高いものになつたうへは、成るやうに成らせたいと思ふのです。