2018.03.25 Sunday
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恐怖の源、それは何より「死」である。肉体の死ばかりでなく、精神の死とういうべき「狂気」である。直接的な恐怖はほとんど全て、このふたつの死へと収斂されると言っていいだろう。絵の中に潜んでいるそういったさまざまな恐怖を、著者はここでむんずと取り出して見せて下さるのです。ドガの絵から見える社会の闇、ムンクの絵に描かれた不安、クノップフの絵の中の甘美な死、ブロンツィーノの絵に描かれた人間性を逸脱させる官能の恐怖、ダヴィッドのスケッチに見える悪意、ルドンの絵の孤独、ホガースの絵に含まれた死の予言等々・・・。
脆い肉体に襲いかかる「苦痛」「暴力」「戦争」「大自然」「闇」「野獣」「病気」は肉体の死と結びついているし、自己の存在を揺るがす「嫉妬」「孤独」「喪失」「悪意」「怨霊」「悪魔」「(人肉食などの)タブー破り」は狂気と結びついている。それら前段に当たる「未知」「不安」「他者」も同じだ。また「愚かさ」も大きな恐怖の種になる。愚かさゆえに人間は、自分で作り上げた半端な社会制度によって「偏見」「貧困」「差別」を産み、やはり緩慢な死へと自も他も追い込んでゆく。
左様、文学としての評価とは別に、また趣味の違いを超えて、蒐集家なら誰もが自分にとって、あるいは自分にとってはそうでなくとも、少なくとも同胞の誰かにとって、それぞれ珠玉の価値を備えていることを認める書物が存在する。それは稀覯性、活字、造本、挿絵などの美しさ、あるいは過去の著名な人物となんらかの関わり合いなどによって尊重される書物である。これらの書物について、ここではもっぱら、その保存方法、それを損なう害敵、捜し求めるべき場所、などについて述べてみたいと思う。これは狭い意味での学術というよりも、むしろ好古趣味に関わる問題である。文学よりも書籍それ自体、批評よりも書籍学、すなわち、一見、無味乾燥だが、それなりの情緒を備えていなくもない学問、文学の奥ゆかしい<付き添い婦人>に関心を寄せるわけだ。
モアの『ユートピア』のような、イギリスの古版本なら、紋章を箔押しした仔牛革装。初期のラブレーやマロは、革に幾何学文様を型押ししたグロニエ好みの様式で装わせたい。モリエールやコルネイユの本は、ラ・フォンテーヌが身代を棒に振ってでも手に入れたいと望んだ、あの手編みヴェネチア・レースに似た模様を金箔押しした、ル・ガスコンの優美な同時代様式で装わせる。トゥーヴナン流の<華麗様式>装丁は、前世紀の小説家を引き立てるのに、額縁模様のロシア革はシェイクスピア二つ折判を飾るのに向いているし、一世紀を閲したイギリスの作家の本はロジャー・ペイン流のがっしりとした衣装をまとわせるのがよい。・・・・(以降まだまだ続きます)
あたまのなかのさびしい声
あたまの底のさびしい歌
しっかりやりましょう。―しっかりやりましょう。―
しっかりやりましょう。―しっかりやりましょう。―
しっかりやりましょう。―しっかりやりましょう。―
しっかりやりましょう。―しっかりやりましょう。―
しっかりやりましょう。―しっかりやりましょう。―
しっかりやりましょう。―しっかりやりましょう。―
しっかりやりましょう。―しっかりやりましょう。―
しっかりやりましょう。―しっかりやりましょう。―
しっかりやりましょう。―しっかりやりましょう。―
しっかりやりましょう。―しっかりやりましょう。―
しっかりやりましょう
かなしみはちからに
欲りはいつくしみに、
いかりは智慧にみちびかるべし。
* * *
風のなかを自由にあるけるとか、
はっきりとした声で何時間も話ができるとか、
じぶんの兄弟のために
何円かを手伝えるとかいうようなことは
できないものから見れば神の業にも均しいものです。
そんなことはもう
人間の当然の権利だなどというような考では、
本気に観察した世界の実際と余り遠いものです。
どうか今のご生活を大切にお護り下さい。
上のそらでなしに、
しっかり落ちついて、
一時の感激や興奮を避け、
楽しめるものは楽しみ、
苦しまなければならないものは苦しんで
生きて行きましょう。
木でできたものをこんこんとノックすることは止めなかった。私はそれをいつもやっていた。「止めること」を根や樹皮に封印するために。聞いて、と私は木にむかって話しかけた―――私がやっていることをよく見てて。しるしをつけておいてね。気づいて。木と数学は、不透明で不安定、とても不安な世界で、ある種の安心を与えてくれるものとして非常にふさわしいように思われます。
評価:
E.L.カニグズバーグ,小島 希里,E.L. Konigsburg 岩波書店 ¥ 714 (2000-06) |
シリントン荘でおこった何かのおかげで、今までやったことのないことでも、やっていいんだと思えるようになった。今まで思いもしなかったことだって、やってもいいんだって。あそこでおこった何かが引き金となって、卵からかえりかかっていたぼくのいろんな部分が広がりだしたんだ。
「コップ一杯のやさしさ。シンさん、わたしが見つけたものはこれかしら?」
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何らの自己の、地上の権利を持たぬ私は第一に全くの住所不定へ。それからその次へ。
<無題詩>
夜になると訪ねてくるものがある
気づいて見ると
なるほど毎夜訪ねてくる変んなものがある
それは ごく細い髪の毛か
さもなければ遠くの方で土を掘りかへす指だ
さびしいのだ
さびしいから訪ねて来るのだ
訪ねて来てもそのまま消えてしまつて
いつも私の部屋にゐる私一人だ
<情欲>
何んでも私がすばらしく大きい立派な橋を渡りかけてゐ
ました ら―――
向ふ側から猫が渡つて来ました
私は ここで猫に出逢つてはと思ふと
さう思つたことが橋のきげんをそこねて
するすると一本橋のやうに細くなつてしまいました
そして
気がつくと私はその一本橋の上で
びつしよりぬれた猫に何か話しかけられてゐました
そして猫には
すきをみては私の足にまきつこうとするそぶりがあるのです
<蜜柑>
美しい少年の頭へうまそうな蜜柑を一つのせて部屋の中
を歩かせろ
そして、少年の頭の蜜柑の香のしみたところを力いつぱ
い指で弾け。
少年がぶつとおこつて部屋を出てゆけばそれでいいの
だ。
畳にころげている蜜柑を拾つてきれいにむいて夕刊を見な
がら喰べるのだ。
つまづく石でもあれば私はそこでころびたい
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私は夢見る人に会えば、一目でそれとわかります。あなたは目をさまし、歩きまわりながら夢みているのです。御自身の生きかたをえらぶのに、あなたはまったくなにもなさらない。世界が御自分のまわりで、ある運命をかたちづくるにまかせておられる。それからやおら目をあけて、御自分がどんな立場にいるかを発見なさる。今夜のこの航海も、あなたの夢のひとつでしょう。運命の波が御自分をもてあそぶにまかせ、それから明日になると、御自分がどんなところにきたのかを眺めるというわけです。
コーヒーの苗を植えるとき、主根を曲げてしまうと、その木はやがて、かぞえきれない小さな細い根を、地面のすぐ下に張るのです。その木は育ちませんし、実を結ぶこともありません。しかし、ほかの木よりもはるかに豊かに花を咲かせます。
地表近く張ったこまかい根は、その木の夢なのです。こまかい根をびっしり張ると、その木はもう、曲がった主根のことを気にしなくなります。そして、こまかい根によって生きてゆく。わずかな間です。決して長い命ではありません。逆に、その木はこまかい根、つまり夢のせいで死ぬといってもさしつかえないわけです。なぜなら、夢みることは、行儀のよい人びとの自殺の手段にほかならないのですから。
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センプローニオさんのろばは、ほっそりとしていて、すらりと背が高く、毛並みもつやつやぴかぴかしていて、見たところは馬のようでした。もし、耳が長すぎなかったら、ほんとの馬みたいだと、みんながいいました。主人のセンプローニオさんは、ろばを馬にみせるぐらい、おやすいご用だと思いました。
センプローニオさんは馬を飼っている、近くの人のところへいくと、新聞紙で、右の耳と左の耳の二まいの型をつくりました。それから、自分のろばの両方の耳に、紙で作った馬の耳型を、のりではりつけ、はさみで耳を切りました。ろばは、痛くて痛くて、なんどもとびあがりました。でも、センプローニオさんが傷口にはちみつをぬると、ろばはおとなしくなりました。そして、傷口がふさがると、ろばを売りに、ろばをばくろうのところへつれていきました。それを見て、ばくろうはいいました。
「こいつは、ずいぶんへんなけものだな。耳は馬の耳だが、馬にはつのなんかないからな。」
なるほど、センプローニオさんは、馬にはつのがないこともわすれていたのですが、自分が飼っているろばが、ほんとうは少々長めの耳をした牛だったのだということも、すっかりわすれていたのです。
「センプローニオさんが飼っていたもの」
アクセルは思った。人生にも、それに相当する矛盾に満ちた生き方があるのだろうか?そこで死ぬ運命にある者として生き、墜落しながら連続性を保ち、永遠の古典的な逃走、遁走のただなかで均衡を維持することができるような。―――音楽にはある。そこでは遁走曲という。
学のある人が、海には底がある、と言っても、そんなことはでたらめなのですよ。それどころか、四大元素のなかでいちばん高貴な水は当然、大地にすっかりしみ通るので、わたしたちの星は本当はしゃぼん玉のように宙に浮いているのです。そして地球の反対側の海を一隻の船が進んでいて、わたしはそれと足並みをそろえて行かねばなりません。二隻は深海にあって互いを映し出しているようなもので、むこうの船は地球の反対側にあって、いつもこちらの船の真下にいるのです。船の下を大きな魚が泳ぎ、水中の紺色の影のようについてくるようすはご存じないでしょうね。でも、そうやってあの船は、わたしの船の影のように進み、わたしはどこへ行くにもそれを引いてまわります。ちょうど月が地球を突き抜けて潮の満干をおこすようなものです。わたしが今、航海をやめたら、商船で生計をたてているあの気の毒な水夫たちはどうすればいいのでしょう?でも、ひとつ秘密を教えてあげますね。わたしの船はついには地球の中心に沈みますが、まさにそのとき、もうひとつの船も沈むのです。―――海中には上下というものはないはずですが、沈むという言い方をするので。―――そしてそこで、世界の中心で、わたしたちの両方が出会うのです。