2018.03.25 Sunday
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読者に短編作家としてのセルバンテスの魅力を提供せんとしたのが本書である。
「あの方はね、わたくしがこの目で拝見し、判断するところでは、恩を忘れない(agradecido)、善良な(bueno)、礼儀正しい(caballero)、気前のよい(dadivoso)、ひたむきに恋する(enamorado)、意志の強固な(firme)、りりしい(gallarbo)、高潔な(honrado)、卓越した(ilustre)、誠実な(leal)、若々しい(mozo)、気高い(noble)、正直な(onesto)、家柄のよい(principal)、資産家の(quantioso)、豊かな(rico)・・・・」親友の妻を口説く男のどこが「恩を忘れず、礼儀正しく、高潔で、誠実で、気高く、正直」なのかは不明ですが。
あの惨劇を惹き起こした原爆は二十数万の生命を奪ったばかりではなくて、さらに生き残った幾十万の人間の魂をどんなに傷つけたことだろう。原爆は眼に見える不幸とともに、とうてい測り知ることのできないほど大きい、眼に見えない不幸を生んだのだ。
『原爆の子』 長田新編 岩波文庫
「うちはこの世におってもええんじゃと教えて下さい」「夕凪の街」における生き残ったこと、幸福であることに罪悪感を感じている皆実に対する答えの温かさ。
そして確かにこのふたりを選んで生まれてこようと決めたのだ「桜の国」において七波の感じる肯定感。
エイドリアンは、人生が簡単に壊れてしまう子どもだった。ささいな困難や混乱で、あっけなく崩れてしまう。窓辺に立ちながら、エイドリアンは吐き気をもよおすような不安の波に飲みこまれていた。灰色の瞳はうるんだ輝きを帯び、まるで恐怖がもれ出しているようだ。エイドリアンはまだ9歳だったが、すでに世界の前に立ちすくんでいた。とにかく不安だった。大人になったらどうやって生きていけばいいんだろう。これから何年もの間、心配事がだんだん大きくなって増えていくのに。
迷子になったり、忘れられたり、ひとりにされることは、エイドリアンにとって、ベッドの下に巣食う夜の怪物よりも、残酷な死をもたらす恐ろしいものだった。
最後までいい子だったエイドリアンは、ニコールを置いては帰れなかった。All the birds of the air
私がこうして生きるのは人を愛し憎しみ許しそれらいっさいが涙と叫びになって大地に空にこぼれていくことだ。私の分身の涙が地にしたたり一片の草を潤すならば、叫びの声が風にのってポプラの梢や山頂の雪と語り合うならばそれでいい。
否、この世のしがらみを恨むよりもそれらを創らなくては治めていかれなかった人間自らの責と恥なのかもしれない。
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人意焉ぞ鬼神の好悪を察し得むや。察せずして是を謂ふ、いづれも世道に執着して、その真相を過つなり。
△それから泉さんはよくポストの周りを廻ってそれから入れるそうじゃありませんか。好きすぎる、どうしよう。。。。
△泉君には色々なことがあります、しかし始めは正当な理由があるのですが、それが次回からは習慣となってやるのです。ポストの周りを廻るのは、入れてから後で廻って見るので、紅葉先生が横寺町にいられた時分に、先生の原稿をポストへ入れに行って、この原稿は非常に大切な貴重なものだから、もし箱の外へ落ちているような事があっては済まないと云うので、入れた後でポストの周りを三度廻ったのです。これが癖になって毎時も廻るようになったのでしょう。これに就いて面白い話があります。泉君はあの通り意気に出来ていますから、ポストの丁度前の内に娘が二人あったのが、泉君が郵便を入れに行くというと、窓から覗いて見るのです。泉君のほうでは夢中ですから少しも気が注かない。ある日もこんな事があって湯帰りに先生が出逢わしたのである。先生はあんな気性ですから、泉!泉!何をしているんだ。外聞が悪いじゃないか、と怒鳴られたので吃驚したという話があります。
僕が横寺町の先生の宅にゐた頃、『読売』に載すべき先生の原稿を、角の酒屋のポストに投人するのが日課だつたことがある。原稿が一度なくなると復谷易に稿を更め難いことは、我屯入も熟く承知して居る所である、この大切な品がどんな手落で遺失疎相などすることがあるまいものでもないと云ふ迷信を生じた。先づ先生から受取つた原稿は、これを大事と肌につけて例のポストにやつて行く。我が手は原稿と共にポストの投入口に奥深く挿入せられて暫くは原稿を離れ得ない。やがて漸く稿を離れて稿はポストの底に落ちる。けれどそれだけでは安心が出来ない。若しか原稿はポストの周囲にでも落ちてゐないだらうかといふ危倶は、直ちに次いで我を襲ふのである。そうしてどうしても三回、必ずポストを周つて見る。それが夜でもならまだしも、真昼中狂気地味た真似をするのであるから、流石に世間が揮られる、人の見ぬ間を速疾くと思ふので、其気苦労は一方ならなかつた。かくて兎も角にポストの三めぐりが済むとなほ今一度と樋める為めに、ポストの方を振り返つて見る。即ちこれ程の手数を経なければ、自分は到底安心することが出来なかつたのである。廻るだけではあきたらず、さらに振り返ってもいた様子。たまりませんvv
然るに或る時この醜態を先生に発見せられ、一喝「お前は何ぜそんな見苦しい事をする。」と吐鳴られたので、原稿投函上の迷信は一時に消失してしまつた。蓋し自分が絶対の信用を捧ぐる先生の一喝は、この場合なほ観音力の現前せるに外ならぬのである。これによつて僕は宗教の感化力が其教義の如何よりも、布教者の人格如何に関することの多いといふ実際を感じ得た。