2018.03.25 Sunday
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事実を捉えるかわりに、わたしは事実がわたしを捉えるに任せること先日読んだ『形見函と王妃の時計』の前編にあたる作品だそうです。前編、といっても単純に続いているのではなくて、こちらでは『形見函と・・・』の典雅な老紳士がオークションで手に入れた形見函、その主である18世紀の発明家クロード・パージュの数奇な人生が語られています。『形見箱と・・・』の方では、この話は話中話としてチラリと登場しているのですが、単純な入れ子の関係ではありません。両ストーリーには似た点が多く、表裏の関係にあるように思われます。老紳士と司書君との関わりから、司書君は『形見函と王妃の時計』の物語を、老紳士は『驚異の発明家の形見函』の物語を生みだしたというところでしょうか。
にした。その方が自己欺瞞としてもより素直な形である
人によっては、これらの品物は何の意味ももたないだろう。わたしにとってはたくさんのことを意味している。なぜ釦や貝や広口瓶がそれほどの関心を持つだけの価値があるのか。この問いの答えが知りたければ、辛抱して先をお読みにならねばならない。
絵を描くのは見る者
本を書くのは読者
タルトに味を与えるのはくいしんぼ
菓子職人じゃないんだよ
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自分が手をかさないかぎり、何が起ころうと、この問題には自分はまったく責任がないのだ、と彼は考えた。そういう考え、すごくよくわかるというか、いかにもありそうというか・・・・しかし、そんな意識の結果を思うと、本当に本当に怖くなります。
わたしがしたのは、自伝に近いことだった―――人生を、自分自身の人生を探求する、といっても四角四面にきちんと事実に基づいて、というわけではない。まず自分を中心に据え、その自分について、できるだけ探るように書いた。
そして、そういう家々のひとつに―――誰の家か思い出せないのだが―――魅力的なドアストップが、大きな真珠貝があって、わたしはそれを遠くと近くからのメッセンジャーだと思っていた、というのも、耳に押し当てると―――誰もいなくて邪魔されないときに―――どくんどくん大きく脈打つ自分の血潮と、それから海の音を聞くことができたからだ。
創世記6章
神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。
8章
人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。
9章
動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。
(http://www.is.seisen-u.ac.jp/~zkohta/bible/index.html)
アラビアンナイトに関しては、「決定版」写本と呼べるようなものは存在しない。つまり、どの写本によって翻訳を進めるかによって、内容のかなり異なったアラビアンナイトが出来上がるわけだ。
彼女は馬鹿だ。そう言うわたしも馬鹿だ。誰であれ、神のみわざがどのようなものか知っていると思う人間は、みんな馬鹿なのだ(とボコノンは書いている)。
『ボコノンの書』は、こんな文章ではじまっている。
「わたしがこれから語ろうとするさまざまな真実の事柄は、みんなまっ赤な嘘である」
ボコノン教徒としてのわたしの警告は、こうだ。
嘘の上にも有益な宗教は築ける。それがわからない人間には、この本はわからない。
わからなければ、それでよい。
はじめ神は大地を創造された。そして、広大無辺な孤独のなかから地上を見おろされた。そして神は言われた。「泥から生き物を作りだそう。わたしのしたことが、泥に見えるように」神は、動き回る生き物を種類にしたがって創造された。その一つが、人だった。泥から生まれたもののなかで、人だけが話すことができた。泥から生まれた人が、起きあがり、あたりを見まわし、話しはじめると、神はそのそばへ行かれた。人は目をしばたたいた。
「いったい、これには何の目的があるのですか?」と人はていねいにたずねた。
「あらゆるものに目的がなければいけないのか?」と神はきかれた。
「もちろん」と人は言った。
「では、これの目的を考え出すことをあなたにまかせよう」と神は言われた。そして行ってしまわれた。
たわごとだ、とわたしは思った。
「もちろん、たわごとだ」とボコノンは言っている。
「おとなになったときには、気が狂っているのも無理ないや。猫のゆりかごなんて、両手の間にXがいくつもあるだけなんだから。小さな子供はそういうXを、いつまでもいつまでも見つめる・・・・」
「すると?」
「猫なんていないし、ゆりかごもないんだ」
<目がまわる、目がまわる、目がまわる>