2018.03.25 Sunday
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神はまた人騒がせなヴォードビリアンでもあって、どうやらわたしは当面、その神の引き立て役といったところであるらしい。問題のジョークは、まちがいなく目に関係したものだ―――ワトキンの目、血を流していた娘の目、シャルビューク夫人を見られないわたしの目、そして、この世ならぬものと会話し、見えないはずのものを見る夫人の目。こんな話を読むはめになったら、たとえそれが技巧派の作家が書いた小説だとしても、バカらしいといって表紙を閉じてしまわずにいられないだろう。
混乱した?結構!もうしばらくつきあってくれれば、何もかもわかってくる。こんなことは全部、最後までためておくこともできた。だが、いま眉をひそめてほしかったのだ。開いてくれることを祈りながらほんとにコードを引く前に、パラシュートにとんでもなくおかしい点があるのを知っておいてほしかった。追伸。開かないよ。ギャ――――――!!!
―――今晩は。
大寺さんは声を掛けた。同時に気が附いた。何と美しい月光であろうか・・・・。戸を開けると直ぐ土間があって、狭い所に自転車や靴や下駄が散らかっている。のみならず、大きな林檎箱が二つ三つ積んである。だから、大寺さんは入口から首だけ突込んでいる。左手は壁、右手は障子、突当たりは壁に丸い硝子窓が切ってある。その正面の硝子窓が美しい青い月光を映していて、そのせいか、乱雑な土間も何やら物語りめいて見えるのである。
大寺さんは、その月光を鑑賞した。ところが、肝腎の返事の方が一向に聞こえない。大寺さんは些か不安になった。そこで一段と大きな声を掛けた。
―――御免下さい、今晩は。
それから、これは何か童謡の文句のようだと思った。その文句は青い月光と良く釣合う気がして、大寺さんは悪い気がしなかったが、依然として何の応答も無い。そのとき、大寺さんの耳は微かな響を捉えた。しかし、ひと度捉えると、微かどころではない。相当の鼾だと判明した。波の引いては寄せるような鼾を聞いている裡に、大寺さんは硝子窓に映る月光が、実は月光に非ずして青電球の光なのに気が附いた。
吉田兼好のいうとおり、あらまほしきは先達、すなわち水先案内人です。
私は他人にこう読んで貰いたいと思うように読む。つまり、非常にゆっくり読むのだ。私にとっては、一冊の本を読むということは、その著者と十五日間家をあけることである
アンドレ・ジイド
だれの暮しにも、それぞれに固有の時間のめぐりかたがある。その暮しの時間のめぐりようによって、本の読み方はおのずと形をなしてくる。暮しよりも先に読書があって、そのあとを暮しが追いかけてくるのではない。
暮らしの時間を、自分の手でめぐらせるのか、少なくともめぐらせようとするのか。あるいは、めぐる時間と競争しながら生きるのか。あるいは、時間のことなど意に介さないか。そうした暮らし方があって、本の読み方はそれにともなって形をなす。
それを無視して月に何冊読めなどというのは、およそバカげたことなのだ。
日本語の歴史を知ると言うことは、、日本語の将来を考え、日本語によってつむぎ出された文化そのものを大事にし、後世に伝えてゆく精神を培ってゆくのに役立ちます。私たち人間は、よって立つところの母国語がなければ、文化をつむぎ出せないのです。
日本語は、その時代に合わせて姿を変えてきています。私たちが日本語をどうしたいか、どうすべきなのかという考え方一つで変えることのできる面があるのです。