2018.03.25 Sunday
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「読む」と「手にとって眺める」はほとんどおなじことのようにもおもえる
「読者はみな、それぞれに認識する。書いてあることを、それぞれのじぶんの光のなかで、受けとめたり、受けとめ損なったりする。かくして、書いてあることの「意味」は、じぶんがどういう人間であるかということと密接にからまりあってくるのだ。そして、じぶんの心の変化や成長で、どんどん変わっていく」(ブルース・ウィーバー)
「本を読むというのは、本の中身を、読んだじぶんの感想に合わせて、デフォルメすることなのかもしれない。中身を忘れても、あるいは間違って記憶しても、それはそれで立派な読書なのかもしれない。」「読書とは、きっと、著者と読者の共作行為なのだ。」
「読書を一つの規律としてしまうことは、励ましにしかすぎないものに過大な役割を与えることになる。読書は精神生活の入口にあるものだ。私たちをそこに導き入れることはできるが、精神生活を形成することはない」(プルースト・ラスキン)
「これほど自分の体内にしみ込んだと思った読書体験の、その本の形の記憶がアイマイなので、今回はショックを受けた。(中略)反省してみて、やはり間違っていたとしても記憶の方が大切だと思う。記憶というのは記録が発酵して表現にまで近づいているものなのだろう」(尾辻克彦)
「読書という、きわめて個人的でひそやかで秘密めいた作業は、あらゆる記憶違い、思い違い、読み違い、を許容する。正しい読み方などない。読書の力とは、エーコがいうように、心を鍛えてくれるところに、思索にはずみを授けてくれるところにある。」
「ああ、小人さん、それはまた長い話になりますわ。続きをお話しするとなると、もう一晩かかるでしょう。でも、ここに泊まらせていただけるのは、一晩きり。小人さんが、そういったんですよ。」
「えっ、まあっ、そうですが」と、小人はすこし赤くなりました。「も、もう一晩ぐらい。いいでしょう。ぼく、どうしてもお話が・・・・」
「とにかく、翻訳とは科学的なものじゃない。どうしても主観が入る。それが入らないと、人間のやる作業じゃない。客観的に、何の感情も入れないで訳しても、ある言葉の文法をもう一つ別の言葉の文法に移すだけで、無茶苦茶になってしまう。個人の解釈が入らないことには、何も伝わってこないと思います。だからこそ翻訳っていうのは古くなったりもする。いわば「廃り物」。」
ごく幼い頃から、わたしは人に「お話」を語って聞かせるのが好きだった。自分の頭の中で作り出した「お話」を―――。
さて、人はどのようにして作家になるかという問いに、わたしはこう答える。自分の書いているものへの信念をけっして失うことなく、辛抱強く、執拗に書き続けることによってである、と。」