2018.03.25 Sunday
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「どんなことが書いてあるのか知りたくてたまらないよ。これは一種の日記なのかい?」
クラウスは言う。
「いや、嘘が書いてあるんです」
「嘘?」
「そうです。作り話です。事実ではないけれど、事実であり得るような話です」
「私は彼女に、自分が書こうとしているのはほんとうにあった話だ、しかしそんな話はあるところまで進むと、事実であるだけに耐えがたくなってしまう、そこで自分は話に変更を加えざるを得ないのだ、と答える。」
「一冊の本は、どんなに悲しい本でも、一つの人生ほど悲しくはあり得ません」
「ぼくはね、ぼくの兄弟をいたるところに見てしまうよ。彼は、ぼくの部屋にも、庭にもいるし、通りではぼくと並んで歩くんだ。ぼくに話しかけてくるんだよ」
「何て言うの?」
「死ぬほど辛い孤独の中を生きているって言うよ」
「リュカ、すべての人間は一冊の本を書くために生まれたのであって、ほかにはどんな目的もないんだ。天才的な本であろうと、凡庸な本であろうと、そんなことは大した問題じゃない。けれども、何も書かなければ、人は無為に生きたことになる。地上を通りすぎただけで痕跡を残さずに終わるのだから。」
「全能の神よ、この子らに祝福を与え給え。この子らの罪が何であろうとも、この子らを赦し給え。醜き世の中にあって迷える羊、この子ら自身、私どもの堕落した時代の犠牲者にして、自らの行為の何たるかに無知なのです。この子らに宿る子供の魂を救い給い、御身の無限の寛大さと、御身の慈愛の内に清め給わんことを、哀願いたします。アーメン。」
なんのために生まれてきたのだろう。そんなことを詮索するほど人間はえらくない。三百年も生きれば、すこしはものが解って来るのだろうけれど、解らせると都合が悪いのか、天命は、百年を越えぬよう設定されているらしい。なんのためでもいい。とりあえず生まれてきたから、いまの生があり、そのうちの死がある。それだけのことだ。綺堂の江戸を読むと、いつもそう思う。
<巻末解説> 『うつくしく、やさしく、おろかなり』(杉浦日向子)
新しい話を聴かせてくれる人はたくさんある。むしろ、だんだんに殖えてゆくくらいであるが、古い話を聴かせてくれる人は、暁け方の星のようにだんだんに消えてゆく。
『桐畑の太夫』
ほら、あのひと、つまり、銅山のぬしのあねさまは、こんなおなごなのだよ。
よくないひとがあねさまにいきあうと、不幸がおこる。が、いいひとがいきあたったって、よろこびはすくないんだ。
ここには、こんないい石がある。でも、おれたち、その石をどうしているんだい?けずったり、切ったり、みがきをかけたり、それで、ほとんど何の役にもたってないんだよ。だから、おれ、石のもっている力をすっかり、自分でも見て、人にも見せられる、そんなふうに作りたくなったんだよ。
「もうわたしのこと、まるで信用してないのね。」
「思ってたような人じゃなかった」
「そんな人いる、サム?この世にいる?」