2018.03.25 Sunday
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ここに、アンナそっくりの人間がいました。ひみつの友だちをもつこと―――、それこそ、アンナのねがうところでした。ほかの人はだれも知らない友だち。ほんとうに生きている人間で、でも、どことなく、ほんとうではないような・・・、そんな友だち・・・。
十までの世界は、計算する数字ではない「無算」の呪術的世界で、十一からが、通帳に記載できる数字なのではあるまいか。
「本来、「ひとつ」はきざし(兆・萌)だから一つに限るのである。発端であって、しかも一つの世界をすでに完成するかたちなのである。」
「「一」はハレ(晴)、「二」はいつもケ(褻)なのである。」
「とかく「三」は世界の構成を指し示す幻の数であって、実数ではない。」
「「五」は尽きる数でもある。つまり山場を示唆する。」
「「六」は、五つの世界からもう一つでた、もう一つの世界の幻影を構成したのである。この世でないものに入ってゆく数が「六」なのである。」
「七回巡るというのが生の勤めなのである。」「「七」は転生の理が働く年数なのであろう。」
「「八」は驚異を感じさせるもの、力量の優れたものに用いる数字であった。」「「八」の生産に対して、「七」は負の数字なのである。」「ものの数は七つまでは極まりあり。八つといひてより無量ことを八つ挙ると也」
「「九」は、数のきわまりであり、数の終わりなのである。」「究は究極である。」
「「九」までは数で、数えられるが、「十」は数ではなく十の字の記号であったのではないか。」
「豊葦原の美しさはそういうところにあるの。生まれては亡び、いつもいつも移り変わってゆくところに。どんなになごり惜しくても、とどめようと手を出してはならないものよ。そうしたらその瞬間に、美しさも清さも、どこかへ失ってしまうから。」「あなたがた輝の御子は、別の美しさを持っているわ。永遠で不変の。でも、それは天上のものであって、この豊葦原にはむかないものなのよ。」
日本の狐には長い歴史があるので、狐を通じて、わたしたちは意識の古層に触れることができる。それはとても貴重なことなのではないだろうか。
西洋文は、原則として、センテンスの始めにおかれた主語と、それに続く述語を基本構造として、一つ一つのセンテンスが、まとまった意味内容を、独立して表現する。近代日本文も、これにならって、まず、「主語」らしい要素が、「〜は」として、文の始めにおかれた。述語は、日本文では、原則として文の終わりにくるので、この構造上の配置はあまり変化がなかったが、述語の終わりに、「た」や「ル形」や「である」という文末語をつけることになった。そして、その後に句点「。」という文の終わりの印を発明し、一応まとまった意味内容を、独立した形におさめて終える、という文型をつくった。この構造文装置によって、近代日本は、先進西洋文化の法律、学問、思想などを次々に翻訳し、また小説などを紹介してきたのであった。
そこで、その翻訳である。ここで私の述べたい結論を先に言うと、問題を大きく捉えて、一般にA言語・文化を他のB言語・文化に翻訳すると、その結果としてAでもBでもないCができていく、ということである。そして、そのできあがってゆくCは、その意味内容が正確に確定されない、ということである。もとのAやBは概念が明確であっても、そこから生み出されるCは、その概念が未知、不可解である。少なくとも、どこか未知不可解であり、そうであり続ける、ということである。
異言語、異文化交渉におけるこのような過程は、一般には当事者である人々には、あまり意識されない。B言語・文化を受け入れたA言語・文化の人々は、受け入れたのは、Bそのものであると思う。あるいは、しばらく後になると、異文化由来であることは気づかれなくなってしまう。現代口語文は日本語じたいの発展の結果であると考えられるようになるわけである。
視点を変えて言うと、翻訳でつくられた「主語」を先立てた構文は、この思いがけない結果であるCを導く装置であった、ということである。
もちろん翻訳の結果、Aの内容も翻訳されるし、Bの内容も残っていくだろう。しかし、AでもBでもないCができていくということは、通常もっとも気付かれにくいので、ここで私はとくに強調するわけである。言葉の形成には、通常多数の人が参加している。だから、形成の過程は明瞭に意識されることはあまりない。いつの間にかできあがっている、という具合である。「現代口語文」と名付けられた文体も、こうしてできてきた。
「わからないかい、ジェイン。われわれのまわりには魔法がみちみちているってことが。そのうちのひとつとして説明がつきやしないし、誰ひとりこの秘密の真相を実際に知っている者はないんだ。」
ここにあるのは情事という世界における私の冒険の数々である。それらのことを明るみに出すのは、はじめ苦痛に思われた。性的生活というのは、私たちーーー詩人、作家、芸術家ーーーにとっては常に幾層にも包まれたもの。ヴェールに覆われた女、半ばまどろむ女、なのである。
「われわれはセックスが愛と呼ばれる精神のエネルギーの現れだというのを忘れている。」
「それは性器による<抱擁>なのだ。」
「これまでの一生、私は愛というものを、双方が合意のうえで一種の奴隷になることだと理解してきた。でもそれは嘘だ。自由というのは、愛があるときにのみ存在できるのだから。自分を全面的に手放せる人、自分を自由と感じる人こそが、一番たくさん愛することができる。
そして、一番たくさん愛する人は自分を自由と感じるのだ。」