2018.03.25 Sunday
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わたしに娘が生まれたら、口笛のふきかたを教えようと思う。たとえば森のなかで迷ったとき、口笛で合図をしあえればつごうがいい。もし彼女がこたえなければ、いまはひとりでいたいのだなとわかる。彼女が<ボート>で遠出をしても、わたしなら風がでてきたからといって、ボートで追いかけて連れもどしたりはしない。コケモモはつまなくてもいいが、キノコ狩りはたのしいから、キノコはつんでもいいといってやろう。わたしの娘はどんなにくたびれたズボンでもはいていいし、わたしに口ごたえしてもよい。ただし度をこしてはいけない。わたしに似ているが、もっと美人だ。もうすぐ秋になる。きょうはもう書くのをやめた。 (「夏について」)
私は死の珠とともに天竺へ向かう。天竺へついたとたん、名状すべからざる香気とともに死の珠はぱちんとはじけて、わたしはうっとり死ぬだろう。いや、わたしの死ぬところが天竺だといってよいかもしれない。
〜こそ日本文化を代表するものだ」と、世間に流通している言説は、その成り立ちを一度は疑ってみたほうがよい。
わたしたちが日本固有の伝統文化と思っているものも、実は近現代に生み出された社会制度に過ぎないものが多い。武道や庭園、禅といったものも、明治以後にモダニズムの波をかぶるなかで意識され、あるいは再編されたものだ。その再編の大波は、実は戦後の数十年のあいだにも起きていて、しかも現在進行形でつづいている―――この点に本書が提示する問題の核心がある。
数ある日本文化論のなかから、一定の好みにあったものだけを選び取り、ステレオタイプを作っているのは、わたしたち自身なのだ。ステレオタイプは、文化の多様性をなくし、文化の力を弱めてしまう。禅もヘリゲルも竜安寺も、さらには日本文化そのものも、もっと自由なイメージで描かれるべきだと、わたしは思う。
石庭は、みるひとの数だけの解釈が許されるのだから。
「愛だとか、宗教だとか、道徳だとか、人間性だとか、貧乏だとか、制度だとか―――そんなものは我々はもう、この実際生活の上で飽き飽きしてゐるんだ。せめて芸術―――文学の上だけでも、我々の肩を軽くして、夢を追はせなくちやならないんだ。」かういふ時だけは、いつも控え目勝ちであり、「庭石」であり、議論嫌ひであつた彼が、昂然として一歩も譲らなかった。」福田耕太郎