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「宿命づけられた場所は、外なのか内なのか、あるいはさらに別のところなのか」
『夜のみだらな鳥』、ようやく読了。
これはまさに、饒舌な語りによる「狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く騒然とした森」、時折何かがすぐ側を通り過ぎたように思えるも、姿は見えず、出口もわからないまま彷徨わされます。
かつてアスコイティア家のヘルベルトに仕えていた作家志望の男、ウンベルトは、今は唖の寺男ムディートとしてアスコイティア家所縁の寂れた修道院で暮らしています。このウンベルトが語り手として、アスコイティア家とこの修道院の最期を、過去と現在、修道院とヘルベルトの息子ボーイのためのリンコナーダの館等、時と場所を自在に変えながら、現実とも妄想ともつかない饒舌な語りで描き出します。
複雑な修道院の内部を知り尽くし、姿を見られることなく何処にでもいるムディートであるウンベルトは、その姿を度々物語の中で消しますが、語り手としては姿を変えながら常に存在しています。が、その自在さは閉ざされた物語の中のこと。呪縛された現在、幾重もの異形のものたちによる囲いの内で外界から守られた畸形のボーイよろしく、語り手も物語の真実も幾重もの嘘で囲われ閉ざされてしまっています。とはいえ真実などというものは、そもそも存在するのやら。広げたポンチョのような饒舌な語りが、何かを見せているようで、何も見せてくれません。縫い閉じられた袋から何かが、ひょっとしたら著者自身がのぞくように思えるも、すぐに穴は縫い閉じられます。窓を封じられた館、白い部屋、鍵で閉ざされた修道院、縫い閉じられる袋等々、延々と続く囲繞の、監禁の、密閉のイメージ、閉ざされた息苦しさ。閉塞感が募るほどに、過剰になってゆく不気味なイメージ。閉塞感は物理的なものに限らず、生まれない子供、出ない言葉、書き出せない物語としても描かれます。出口を求めるこの閉塞感はウンベルトの胃袋をも食い破っても行きます。
聖女と魔女、若い娘と醜い老婆、醜と美、異常と正常、主人と奴隷、正気と狂気の目まぐるしい入れ代わり。自分から自分を取り除きたい者、知らぬ間に自分から自分が奪われる者。
語りという嘘で支えられた世界の中心には、いるはずの語り手の姿はなく、そこにはただ黒い焚き火の跡が残るのみ。一体私は何の後を追ってここまできたのやら。呆然と本書を閉じた後は、そこに何があったのか定かでないにもかかわらず、ただただ無性に、あの騒然とした森が狂おしいほど懐かしくてたまらなくなっているのです。
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だが、もしかしたら意味などないかもしれない。もしかしたら、何かを象徴しているのかもしれない。それとももしかしたら、私がただ君の頭を弄んだだけかもしれない。
信じるんだ
「私はどのくらい留守にしていた」?「長い長い間だ」悪魔が答えた。「もう二度と戻らんと思ったよ」
というやりとりがありましたが、そこで、え?ギデオンって悪魔が久しく顔をあわせていない神なのかもって、ちょっと思ってしまったのですよ。
評価:
ジェームズ・ロバートソン 東京創元社 ¥ 3,456 (2018-01-12) |
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我々は悲劇役者、書かれている通りに動くだけ―――選択の余地なんてありません。
『ハムレット』の2次創作BLの王道と言えば、レア公(レアティーズ×ハムレットの通称、レアハム=レア公)ですが、そのリバ以上に多いのが、ロズギル(ローゼンクランツ×ギルデンスターン)かと思われます。公式設定が幼馴染であることや、常に共に行動しているあたりが、腐女子の妄想を掻き立てているんだと思っていたのですが、実際にはある金字塔的作品のせいで、多くのレア公派がロズギルに転んだせいらしいです。その金字塔的作品というのがこれ、『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』!
……というのは勿論嘘ですが、あれ?これってロズギル2次創作??って思ってしまったのは事実なんです。「お前の足を舐めてやる」とか、「お前が感じるようにグリングリンしてあげる」とか、何なのこの二人??
さて、『ハムレット』に登場する二人の脇役、すり替えられた手紙のせいで処刑されてしまうことになるローゼンクランツとギルデンスターンを主人公とした視点で『ハムレット』を描く、若きトム・ストッパードによるこの戯曲を読むにあたって、未読だった『ハムレット』を先に読んだのですが、私今までこの話、恋人を犠牲にしてしまったり、親友の恨みを買ったりしながらも、信念を貫いて ハムレットが復讐を成し遂げ事切れる話だと思っていたので、あまりの違いに驚きました。ハムレットは殺された父親の復讐に一心に進んで行くのではなく、何というかぐるぐるとした迷宮的な足取りで、事が成就されるのは、ハムレットの意思によってというより、突発的な成り行き、迷宮がいつしか中心点に到達するように、至るべくして至るものだったのです。狂気を装う理由にしても、復讐の機会を捉えるためではなく、ただただ事をなすかなさないか宙釣りな状態を長引かせるためだけのもののように 見えました。ハムレットは復讐譚における英雄ではなく、物語に踊らされる道化のようだったのです。
裏ハムレットとでも言うべきこの戯曲でのロズとギルは、自分たちが何のためにここに居るのか、これからどうすべきか全くわかっていません。しかしながら観客あるいは読者は、彼らの役割や運命を知っています。この当人は知らないが観客(読者)は知っている状態は時に喜劇を、時に悲劇を作り出しますが、自らの死に向かう物語の中で大変喜劇的に振舞わされているロズとギルは、まさに哀れな道化なのでした。それは、『ハムレット』におけるハムレットの姿であり、さらには哀しく可笑しい人間の姿でもあり……
船に乗ったのが間違いだった。無論、俺たちはここで自由に動けるし、フラフラ向きを変えたり、うろつき回ることもできる。でも俺たちがどう動こうと、それはもっと大きな動きの中に取り込まれていて、風や潮のうねりが俺たちを情容赦なく流していた……
評価:
トム・ストッパード 早川書房 ¥ 1,296 (2017-10-05) |
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タイトルから、コミカルで気楽な短篇小説集を想像していたのですが、違った。全く違った。すごいですこれ、今のところ私にとっては今年一番の書。深みがあってキレもある、これぞ短篇小説!という感じでした。非常に読み応えのある長編小説ができそうな素材をふんだんに使って丁寧に調理した上で、そこから思いがけない部分だけをさっと取り出してみせたような贅沢で濃密な作品揃いなのです。しかも、そこかしこに印象深いフレーズが散りばめられています。は〜、好き、これは好き、大好き。
事故当時のチェルノブイリで原子力エネルギー局の技術主任をしている男、ブリタニアの国境で軍務についている古代ローマの書記官、ナチスドイツのアーネンエルベに所属しインド=ゲルマン語族の起源調査の一環としてチベットでイエティーを探している学者、19世紀中頃オーストラリア中南部を行く探検隊を指揮する男、マラトンの戦いに従軍するアイスキュロス、世界初の女性宇宙飛行士としてロケットに搭乗するソ連の女性、フランス革命時国王や王妃の処刑を担当した死刑執行人サンソンといった興味深い人物たちをはじめ、ハイスクールのアメフトチームの選手や、酷いサマーキャンプに参加中の子どもなどなど、当人になりきった語りによる物語集です。そのなりきりぶりが素晴らしく、本当に手記を読んでいるような、当人から話を聞いているような気分になります。
事故や災害、戦争、革命、探検などといった特殊な状況に関わる特別な人の話であっても、そうでなくても、人間の内面のもやもやした部分は変わらないというか、変わらないもやもやしたものが、様々な状況のなかで描かれているというのか。もやもやしたものを抱えた人々が、なりゆきのままに望ましくない状況に置かれている物語たち。誰もが酷いサマーキャンプに無理やり参加させられた無力な子どものよう。どうしようもない無力さ、寂しく辛いもやもやしたものが、物語という形で差し出されたような作品揃いで、もうほんとたまりませんでした。どの物語も愛しい。
「ローマは兄を弟と、父を息子と敵対させることで世界を征服してきた。<略>兄を弟と、父を息子と敵対させる。なにしろ、こんな簡単なことはないのだから。」
これは比喩だとしても、そういう兄と弟、父と息子といった近い肉親間の、愛情だけではない複雑な感情、近くて遠い関係から生まれるもやもやしたものが描かれている作品が多かったです。兄弟のエピソードには著者の精神的に不安定だった兄とのことが盛り込まれているそうで、それぞれのキャラクターにそんな風に著者自身が織り込まれているからこそ、より一層リアリティが生まれているように思います。
ひょっとしてタイトルで誤解して手を出さずにいる方がいらっしゃるんじゃないかと心配。でも、私はタイトルで面白そう!と、思って手を出したんだった……。
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不思議なものはいくつも見てきた
でも初めてだ、生者と死者が
馬に相乗りしているなど……
中世のアルバニアを舞台にした物語。死者である兄が、遠方へ嫁いだ妹を、生前の約束どおり会いたがっている母親のもとへ連れて来たという伝説に基づくものです。
この伝説、私は「月間たくさんのふしぎ 2009年3月号 吸血鬼のおはなし」の中で出会いました。それはブルガリアのバラードをもとにしたものでしたが、9人の兄弟がペストで亡くなっていることや、皆が反対する遠方への婚姻を一番下の兄だけが賛成していたこと、母親がその息子の墓前で恨みをぶちまけるなど、ほぼ同じストーリーです。吸血鬼の登場しないこの話が、なぜ吸血鬼の号に掲載されているかというと、この号であつかわれている吸血鬼は、ドラキュラ的な西欧で作られた吸血鬼像ではなく、そのもととなっている東欧の吸血鬼、必ずしも人の血を吸うものではない、語義的には狼男をも含む吸血鬼、生きた死者たちだからです。東欧に伝わるさまざまな伝説が紹介されているだけでなく、ドラキュラ伯爵が東欧のどのような伝説や言い伝えから生まれてきたのかや、吸血鬼という古くからの幻想が、ペストの流行によって現実として捉えられたことなどにも触れられていて、非常に面白いので、この号も是非ハードカバー化していただきたいものです。
小説に戻ります。この小説は、死んだ兄コンスタンチンが妹ドルンチナを馬で2週間はかかる遥かボヘミアの婚家から母親が一人寂しく暮らす生家へ、生前の約束どおりに連れてきたという事件について、その真相の究明を命じられた地方警備隊長のストレスを中心にして書かれています。
ノルマン軍との戦争、その軍によってもたらされたペストのせいで、3年前に相次いで9人の息子すべてを亡くしていた母親は、かつて自分の反対していた遠方へのドルンチナの縁談を、いつでも会いたいときには自分が迎えに行って連れて来るからと約束することでおし進めた末息子コンスタンチンの墓前で、寂しさのあまり、その約束を反故にしたことを詰り、呪いの言葉を発します。その3週間後、突然娘が帰宅し、驚いた母親が一体誰が連れて来たのかを尋ねると、ドルンチナはコンスタンチンだと答えます。遠方に住むドルンチナはこの時まで、兄達が全員死亡していることを知らなかったのです。母親、娘ともに、この出来事によるショックがもとで病臥し、ほどなく二人とも亡くなってしまいます。
不思議な事件は人々の噂となって広まっており、救世主以外の死者が蘇るなどということは、教会にとっては異端思想に他ならず、放置できる問題ではないため、なんとしてもドルンチナをボヘミアから連れて来た実在の人物を探し出して、この噂を止めるようストレスは大主教から強く命じられます。それというのもこの時代、カトリックと正教会、キリスト教は東西2つに分裂しており、そのちょうど狭間に位置するアルバニアは、まさに両者が勢力争いをしている場所であり、この公国はつい最近カトリックから正教会派になったばかりなため、この状況を放置することはカトリック側につけいる隙を与えることになりかねないからです。大公もまたビザンチンとの関係を悪化させぬため、教会への配慮を官吏たちに求めており、大公補佐官室からも、早急に事件を解明するよう命令書が届きます。
兄を騙るものの仕業なのか、兄というのはドルンチナの嘘なのか、はたまた本当に死者の行いなのか、死者の行いだと信じるものの中にも、それは“誓い(ベーサ)”のためと言うものもあれば、近親相姦の欲望のためと言い出すものもあり……。
ドルンチナの婚家からの情報で、ドルンチナが誰か男の馬に乗って出て行ったことが事実であることが判明し、その後ほどなくドルンチナを連れ去った男が捕まりますが……。
この物語、不思議な出来事の謎をめぐる、半ば幻想的な物語なのかと思いながら読んでいたのですが、大主教、ビザンチンの代表者、大公の使者他大勢のものが集まる大集会において、事の顛末を説明するストレスの演説にいたる終盤では、さまざまなものが対立する深刻な世界情勢の中で揺れながら漂うアルバニアという国家において必要なもの、見直されるべきものについて熱く語られています。近い結婚派と遠い結婚派の対立もそうですが、この書が書かれた1979年頃のアルバニア、エンヴェル・ホジャの独裁のもと厳格なイデオロギー統制や鎖国が進められていた状況を憂えて書かれたものと思わずにはいられないものでした。そんな著者のアルバニアに対する思いに心打たれましたが、謎を巡る物語としても、非常に面白かったです。
われわれは皆、庶民も国王も、シーザーであれキリストであれ、自分自身の中に窺い知れない謎を秘めているものなのです。
評価:
エドワード・ケアリー 東京創元社 ¥ 3,240 (2016-09-30) |
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「栓は開けるものであり閉じるものであり、小さな丸い扉なんだ。ふたつの世界を隔てる扉なんだよ」
「わたしたちの血のなかには大きな秘密が隠されています。不思議な不思議なものが。おまえはこの血から逃れることはできません。」
ロンドン郊外のフォーリッチンガム、別名フィルチング特別区にはロンドン中のゴミが集められた私有地があります。その巨大なゴミ山の真ん中には、大海原の中の孤島のように堆塵館と呼ばれる屋敷があり、棄てられた家具や資材で作られたその大きな屋敷の中には、ゴミから財を成したこの地の管理人、アイアマンガー一族が暮らしています。アイアマンガー一族には、生まれるとすぐに与えられる「誕生の品」を、いつでも身につけ、大切にしなければならないという決まりがあります。この物語の主人公の一人である15歳の少年、クロッド・アイアマンガーの誕生の品は“浴槽の栓”。他の者は、安全ピンであったり、ドアの取っ手であったり、片手鍋、灰皿など様々、中にはマントルピースであるために、生まれてからずっと部屋から出ることが出来ない者もいたりします。クロッドは、なぜかこれらの誕生の品が発する声を聞くことが出来ます。それらは皆、「ジェームズ・ヘンリー・ヘイワード」だとか、「パーシー・ホッチキス」、「ヘンリエッタ・ニスミス」等々、それぞれ人名を連呼しています。誕生の品以外の身の回りのものの中にも同様の声を発するものが時々存在しています。
堆塵館には、純血のアイアマンガーの他に、使用人として働いている多くの純血ではないアイアマンガーたちも暮らしています。彼らは特別な地位についているもの以外全員「アイアマンガー」と呼ばれ、個人名を剥奪されています。ここでは彼らは名前だけでなく、不思議なことに過去をも失ってしまっています。彼らにも誕生の品が存在しますが、それらは金庫に保管されていて、一週間に一度しか触れてはいけない決まりになっています。
この堆塵館に、もう一人の主人公である赤毛で緑の瞳、そばかすだらけの丸顔の16歳の少女、ルーシー・ペナントが、アイアマンガーの血が流れているということで、孤児院から使用人として引き取られてきた時から、さまざまな騒動が起こり始めます。
複雑な堆塵館の内部や広大で恐ろしいゴミ山の様子、奇妙なアイアマンガー一族、物と人の不思議な関係、物が名前を連呼する謎、ルーシーの両親がかかった奇病等々、さまざまな事や謎が、ひょんなことから出合い、好意を抱きあうようになったクロッドとルーシーを通して、少しずつ明らかになってゆくとともに、あらたな謎もどんどん増えてゆきます。
ルーシーが実はアイアマンガーの血が流れていないことが判明して追われる身になった際、クロッドは、特別な能力を持つ選ばれたものとしてアイアマンガー一族のために全力で奉仕することを求められていたにもかかわらず、一族よりもルーシーを選びます。その結果……。
とっても久しぶりのエドワード・ケアリーです。私は『望楼館追想』以来なので、約12年ぶり?あ、『もっと厭な物語』内の短篇読んでるから、2年ぶり?でも、気持ち的にはやっぱり12年ぶり。この物語もまた、『望楼館…』同様不思議な舞台で奇妙な登場人物たちが織り成す物語ですが、児童書として書かれているそう。著者による挿絵までついているのが素敵。「子供向けのほうが自由に書けるような気がするときがある」と著者自身仰っているように、舞台の不思議度も登場人物たちの奇妙度もぐっとあがって、のびのびと奇妙な物語が描かれている感じがします。でもちゃんとボーイミーツガールありのハラハラドキドキの冒険譚になっています。大人の私も夢中になって読んでしまったうえ、今は先が気になって仕方がないです。
捨てられたものたちが荒れ狂う世界の真ん中に君臨するアイアマンガー一族の物語はどこへ着地するのか、絶望的な状況に陥ったクロッドとルーシーの運命はどうなってしまうのか、まったく外に開かれていなかった物語は今後どうなってゆくのか、ものすごく気になるので、なるべく早く2部を出版していただきたいです。
「わたしたちは大丈夫。きっと大丈夫。もしあなたがいなくなっても、わたしがきっと探し出す。どんなことがあろうと。わたしがあなたを見つけだす。わかった?」
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1714年7月、ペルーのリマとクスコを結ぶサン・ルイス・レイ橋が壊れ、5人の通行者が転落して亡くなる事故がありました。この事故をたまたま目撃したジェニパー修道士は、これがただの偶然によるものではなく神の意思によるものであることを証明しようと、墜落した者たちのそれまでの人生について詳細に調べて書物にまとめました。この物語は、語り手が、焚書となったその書の写しを読んだという体で書かれています。
「邪悪な者には破滅が訪れ、善良な者は年若くして天国に召されるという事実が認められる」というジェニパー修道士の考えに反して、修道士によって調べられた彼ら姿は、ことさらに善良でも、悪でもなく、思い通りにならない人生の中で、皆それぞれ苦悩しながら生きていたのでした。そして苦しい思いを抱え、新たな決意を持ってあの橋を渡ろうとした時に事故に巻き込まれたのです。
残念な風貌と吃音のために孤独に育った豪商の娘、モンテマイヨール侯爵夫人ことドーニァ・マリーアは、嫌々ながら没落貴族に嫁ぐも結婚生活は虚しく、その結果一人娘に過剰な愛情を注いでしまうことになります。それを疎ましく感じながら育った娘は絶えず反発し、結局ペルーを出てスペインの伯爵家に嫁いでしまいます。娘に去られてしまったドーニァ・マリーアは、ますます内向的となって飲酒にふけり、周囲からは頭のおかしくなった変わり者として嘲笑の的になってしまいます。ペルーで一番富裕で、一番訳のわからない老嬢と見なされるほど。しかし娘に対しては、相当な金銭的援助(そのおかげで娘の伯爵夫人はスペインにおけるあらゆる芸術や学問のパトロンとなったとか)と、愛情と種々の面白い話題に溢れる手紙の送付を続けていたのでした。機智に富んで優雅なその手紙は、のちにスペインの学校生徒の教科書や文法学者の研究資料となったとのこと。作中作なのでしょうが、この手紙の引用が非常に面白いです。ホントにこの書簡集あればいいのに!
ドーニャ・マリーアのもとには話し相手として修道院付属の孤児院から借り受けた娘、ペピータがいました。実はペピータは修道院長から、自分の跡を継ぐものとして非常な期待をかけられており、侯爵家へ行かせられたのも一種の修行だったのですが、当人はまったくそんなことに気づいてもおらず、むしろ見捨てられたような気持ちで、色々辛いことのあるこの変な老嬢のもとでの生活を続けているのでした。
娘の安産祈願のため、ドーニャ・マリーアは、ペピータを連れてサンタ・マリーア・デ・クルシャンブクワの神殿へお詣りにに行きます。その際、宿屋でペピータが修道院長にあてて書こうとした素直な愛情に溢れた手紙を読んだことで、気持ちを劇的に改められ、新しい生き方を試みようと決めた二日後、リマへ帰宅するためにペピータとともに橋を渡ろうとした時に事故が起こったのでした。
3人目の犠牲者は、修道院に捨てられ、そこで育った双子の一人、エステバン。兄弟であるマヌエルとは他の人にはわからない言葉で会話し、一心同体に過ごしてきたものの、ペリチョーレという女優の手紙の代筆をマヌエルが引き受けたことから関係がおかしくなりはじめ、怪我がもとでマヌエルが亡くなってからは、その人生を自分のせいで台無しにしたような自責の念と半身を失った悲しみとで苦しんでいました。心配した修道院長のはからいで、双子が尊敬していたアルバラード船長が、彼自身も亡くなった娘について後悔し苦しみを抱えながら航海を続けていたのですが、自分の仕事を手伝うよう説得にやってきます。自殺を試みるほど苦しんでいるエステバンに船長は語ります。
「人間には自分の力だけのことしかできないんだよ。できるだけ頑張るまでのことさ、エステバン。永いことはないんだよ。時はどんどん過ぎてゆくんだ。後になってみれば、年月の経つのは早いものだとびっくりするぜ。」
ようやく心を決めて、リマへ向かうため、荷物の運搬を監督するために川に下った船長と別れて橋を渡ろうとしたところで、事故にあったのでした。
4人目は、アンクル・ビオと呼ばれる人物。もともとはカスティーリャの名家に生まれたものの、正妻の子供ではなかったために居心地が悪く、10歳にしてその家を飛び出し、持ち前の聡明さでさまざまな仕事をこなしながら世の中を渡り歩き、そこそこの成功が掴めそうになるも、束縛を嫌う漂泊気質からそれに甘んじることなく過ごし、巻き込まれたトラブルがもとで、ペルーに渡ってきていたのでした。ペルーでも同じようにうまく立ち回る中、カフェで歌っている少女カミラ・ペリチョーレと出合います。、彼女の才能に惚れ込んだアンクル・ビオは、この少女を引き取って、種々の教育を施し、立派な女優へと育て上げます。その才能を愛し、どこまでも高みを目指させようとするアンクル・ビオに対し、カミラのほうは芸術に対する真剣味を失ってゆきます。カミラは、ペルー総督の愛人となって子どもを産んだ後にも様々な色恋沙汰に溺れ、舞台も引退してしまい、社交界に生きるようになります。ところが、不幸にも天然痘にかかってしまい、命は助かるもその美貌を失う羽目に。誰も寄せ付けず荒れ果てた荘園で子どもたちと孤独に過ごすカミラに対し、変わらず献身的に行動し続けるアンクル・ビオ。しかし、あることをきっかけにカミラから会ってもらえなくなります。アンクル・ビオはなんとかカミラと話をする機会を持ち、もうカミラのもとには現われない代わりに、身体に障害のあるカミラの長男ハイメを教育のため、一年間自分に預けることを承知させました。そしてハイメを連れてリマへ向かおうと、橋を渡ったときに事故が起きたのです。なので5人目はカミラの息子ハイメ。
以上の5名が亡くなった事故、これが神の摂理だとしたら、随分と皮肉な運命がお好きなのだなとしか思えません。著者はこの後、残された者たちのその後をも描きます。彼らの運命を調べて書にしたジェニパー修道士については、それを異端の書とみなされたために火刑となっており、これもなんだか皮肉な運命といった感じですが、それだけではなく、修道院長、ドーニャ・マリーアの娘クララ、そしてカミラに、愛が残されている様を描きます。不幸な事故があれどもそこに残る、大きな愛の存在を描くのです。
生者の国があり、また死者の国があって、その二つをつなぐ橋は愛なのだ、ただ一つ不滅なるもの、唯一の意味である愛なのだ。
5人の人物の人生が語られているにしてはかなり短い物語ですが、印象的なエピソードがたくさん入っています。物語そのものにも心動かされましたが、細部、小さなエピソードの数々が非常に魅力的でした。エーコの『ヌメロ・ゼロ』にちらりと登場していたことで、はじめてその存在を知った書だったのですが、手にして本当によかったです。映画も観たい!
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『プリズン・ブック・クラブ』で取り上げられていた小説です。第二次世界大戦中、ドイツ軍によって占領されてしまったチャネル諸島のガーンジー島、そこが当時どのような状態であったのかを、ある読書会メンバーたちと女性作家との手紙のやり取りを通して描き出す小説です。
30歳過ぎの女性作家、ジュリエット・アシュトンは、戦争中イジー・ビッカースタフというペンネームで、戦時下の様子を巧みに面白く書いてきましたが、戦後次に書くものに行き詰ります。そこへ、元はジュリエットの物であり、彼女の名前と住所の記されていた本をたまたま入手したガーンジー島のドージー・アダムスという男性から、手紙が届きます。その本とは、チャールズ・ラムの『エリア随筆』、その手紙には、ドイツ軍に占領されていた時期、この本が彼の心をとても慰め、ラムはまるで友だちのような存在になっていたことが書かれ、島には書店がなく他のラムの著書や伝記などが入手できないので、ジュリエットの暮らすロンドンにある書店の住所を教えてもらえないだろうかという依頼が記されていました。自分自身もラムが大好きなジュリエットは、この手紙に快く応じて行きつけの書店との仲立ちをした上、先の手紙に書かれていた「ローストピッグをドイツ軍の目から隠すために」誕生したという“ガーンジー読書とポテトピールパイの会”の話に興味を持ち、それについて詳しいことを教えてほしいと返事を書いたことから、文通が始まります。
占領時、ガーンジー島では、あらゆる家畜がドイツ軍によって管理されていましたが、ある日、こっそり豚を飼育していた人が、ドージーや近所の人を招いてローストピッグを密かにご馳走してくれました。食糧難の中、久しぶりにお腹いっぱいに食べて盛り上がったため、招かれた人たちは皆すっかり長居していまい、夜間外出が禁止されている時間帯になってしまいます。しかし、皆気が大きくなっていたため、禁止令を無視して帰宅する事に。すると、運悪くドイツ軍士官たちに見つかってしまいます。禁止令を破ったことも問題ですが、豚のことがばれれば全員収容所送りになりかねません。銃を向けて詰問されたその時、エリザベスという女性がとっさに、これは「ガーンジー読書会」の帰りなのだと嘘をでっちあげました。この嘘を真にするためにはじまったのが、「ガーンジー読書とポテトビールパイの会」でした。ドージーはこの読書会を通じて、『エリア随筆』を手にしたのです。
ジュリエットが、「タイムズ」から依頼された読書に関する記事に、この読書会のことを書かせてもらえないかと依頼したことから、読書会の他のメンバーとの手紙のやりとりも始まります。彼らからの手紙には、読書会のことはもとより、爆撃による被害のこと、外部との情報が絶たれ、食べ物や物資の不足していた苦しい暮らしぶりのこと、それはドイツ兵にとっても同じことで、食べられそうなものは何でも口にしていたため、中には毒草を食べて亡くなる兵士もいたこと、地雷だらけだった海岸のこと、島では子どもだけでも助けるためにドイツ軍のやってくる直前にイギリスへの集団疎開が行われていたことなど、当時の島の様子も色々書かれています。また、ジュリエットからの手紙には、空襲を受けたロンドンの様子が描かれています。
読書会のメンバーは聖書やカタログ以外の本とは無縁の生活を送っているものが少なくありませんでしたが、皆なにがしかの本を選んで読み、それについて他のメンバーと語り合ってゆくうちに、始めは嘘をつき通すためのものであった読書会が、だんだん占領下の陰鬱な状況を忘れさせてくれる、心から楽しめるものになっていきます。読書によって皆が元気付けられていたのです。
しかし突然悲劇が襲います。この会をはじめるきっかけとなった勇敢な女性、エリザベスが、この島を要塞化する工事のためにやってきたトート機関が使い捨ての道具のように酷使していた強制労働者の少年をかくまったために、フランスの収容所へ連れ去られてしまったのです。
エリザベスは戦争が終わった今でもまだ、行方不明のままでした。エリザベスには戦中亡くなったドイツ軍の医師であり指揮官であった男性との間にクリスティーナという女の子がいましたが、皆からキットと呼ばれるその女の子は、読書会のメンバーたちによって育てられていました。
ジュリエットは島の人たちとの手紙のやりとりを通し、この島に実際に行くことを決めました。島で過ごすうちに、この島とこの島の人々についての本を書いてみたいと思うようになります。
この物語、戦争を扱ったものであり、かなり重い内容を含んでいますが、非常に楽しく読めました。というのも、この小説は、何を書けばいいか迷っていたジュリエットが、ガーンジー島のことを知って、エリザベスについての本を書くことを決意する物語であると同時に、彼女が最適のパートナーと巡り会って結ばれる物語でもあり、鈍すぎる両片思いの男女にさんざんやきもきさせられる恋愛小説でもあったからです。それに何より、ジュリエットのユーモア溢れる手紙の楽しさも。
多くの人がたくさん大切なものを失った様が描かれていますが、決して陰鬱な気持ちにしかなれないものではないのです。知らなかった歴史に目を向けさせられ、人の勇気に心打たれ、大切なものについて考えさせられながら、しかも楽しませてももらえるのです。アメリアの手紙に書かれていた、島のような本だと思いました。
でもひょっとすると、死を嘆く気持ちには終わりがあるかもしれない。悲しみは聖書にある大洪水のように、あっという間に世界をのみ込み、潮が引くには時間がかかります。でも、すでに小さな島が見えはじめていないでしょうか―――希望や、幸せの島?少なくともそれに似た島が。
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ニュー・イングランドの美しい港町の郊外にあるギリシャ神殿風の屋敷、マノン邸を舞台に、家族間のそれは激しい愛憎による悲劇が描かれた戯曲です。タイトルに「エレクトラ」がはいっていることから察せられるとおり、妻とその愛人によって殺された英雄アガメムノンの復讐を果たす、息子オレステスとその姉エレクトラについてのギリシャ悲劇を下敷きとしたものです。
いやもう、ほんと恐かった。母娘間で延々睨み合いが続き、どっちもどっちでとっても恐い。が、本当に恐いのは……。
さて、アガメムノン一家の物語、凱旋したアガメムノンが殺害される1部、異国へ逃れていたオレステスがアポロンの神託をうけて帰国しエレクトラと見え、父親を殺したアイギストスと母親を殺害する2部、母親殺しの罪のため復讐女神に追われるオレステスが、アテナイで裁きを受け、アポロンの弁護によって救われる3部という3部構成の悲劇をアイスキュロスが書いています。
『喪服の似合うエレクトラ』も、愛人ブラントの協力によって妻クリスティーンが戦争から帰還したマノンを殺害する1部、真実を知った娘のラヴィニアが、戦場から帰ってきた弟のオリンを説きつけてブラントを殺させ、その結果クリスティーンが自殺してしまう2部、裁きを受けるという選択をしない二人の行く末を描く3部からなるため、アイスキュロスの悲劇がベースとなっているよう。とはいえ、アイスキュロスの作品では、エレクトラは復讐を願う者として登場するもののあまり重要人物のような扱いではなく、むしろ復讐の実行者オレステスの物語になっています。
しかし、ソポクレスとエウリピデスは、ともに「エレクトラ」という悲劇を書いており、そこに登場するエレクトラは、母親とその愛人に対し激しい憎悪を抱き、オレステスの復讐を強く後押しする人物になっているので、ラヴィニアに反映されているのはこちらのエレクトラ像なのかも。
ラヴィニアはエレクトラ・コンプレックスそのままな、とってもファザコンで、母親に対してはライバル心というか、敵愾心しかないような女性。というのも、母親の愛人ブラントに、実はエレクトラも心惹かれているから。父親を独占していながら裏切るだけでなく、愛する別の男の心も掴まれているとあっては、恨みもするというもの。肉感的で魅力的な母親への嫌悪とその底にある同一化願望。
オリンは、この設定ではアポロンの神託は使えませんから、殺意の生じる要因として、異常なまでに母親への愛情をもった男性にされています。なので父親はむしろ邪魔者であるため、その死がブラント殺害につながるのではなく、自分を愛してくれているはずの母親が、女として別の男を愛し、その男のものになっていること、その裏切りへの怒りとブラントへの強烈な嫉妬心によって殺してしまうのです。その結果、誰よりも愛する母親をも失う羽目に。
アガメムノンの悲劇は、そもそもアイギストスの父親のテュエステスが、兄弟であるアトレウス(アガメムノンの父)から迫害されていたことから、アイギストス自身アガメムノンに恨みを持っているうえ、妻のクリュタイメストラは娘がアガメムノンによって生贄にされたことを恨んでいたり、悲劇を生むそもそもの要因が過去にありますが、悲劇が連鎖する本当の原因は、アガメムノンが神を怒らせてしまったために呪いを受けたことにあります。悲劇を支配しているのは、神なのです。それゆえ、解決するのも神。
この戯曲でも、そんな神の呪いのような、登場人物たちを縛り、舞台を支配する禍々しいものが存在します。それを象徴するものとして使われているのが、屋敷。まるで墓場のような、幽霊屋敷のような不気味さをもっています。そう、本当に恐ろしいのは、この屋敷なのです。そして、その対極にあるのが、罪悪を知らない人たちが住む“島”。クリスティーンとブラントが二人で行くことの叶わなかった場所、オリンにとっては子宮のような場所として憧れていたも失われた場所、ラヴィニアにとっては開放され本当の自分自身になりえた場所。けれど、島は遠く離れてしまい、最後は結局、ラヴィニアがマノン家の血筋という呪いを自らをもって禍々しい屋敷に封じ込める如く、すべての罪を一人で清算すべく、恐ろしいことを決意して終わります。恐い、この最後は本当に恐い。
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ムショの中での読書会…ちょっと意外で不思議な感じがしましたが、この書ではその意義深さが理解できるとともに、そのもととなっている本の力、読書の素晴らしさや楽しさ、それを改めて感じることができました。今すぐ取り上げられていた本を読んで書中交わされていた言葉に触れなおし、この書の読書会に間接的に参加したくなります。
友人が運営しているカナダの刑務所内での読書会に関わることになった女性ジャーナリストによる、1年間の記録がまとめられたものです。選書を手伝うだけのはずが、良い選書のためには実際に読書会の様子を見るべきだと勧められ、現場へ同行する事に。とはいえ、彼女にとってこれは非常にハードルが高いことでした。普通であっても、犯罪者たちに囲まれる読書会に参加するなんて、かなり勇気のいりそうなことですが、著者は数年前にロンドンで暮らしていた際、強盗事件に巻き込まれて心に深い傷を負い、未だにそれが完全には癒えていない状態であるため、尚更なのです。しかし著者は、判事をしていた亡き父親の言葉、「人の善を信じれば、相手は必ず応えてくれるものだよ」を胸に、なんとか刑務所の門をくぐります。
読書会で使われる部屋に通された著者は驚きます。そこには警備する看守がおらず、監視カメラもなく、ここまで案内してくれた警報機を持った教誨師は別室に姿を消し、読書会の運営スタッフと自分だけが残されるのです。そこへ次々と受刑者たちが現れ、読書会がはじまります。緊張と恐怖で、脳内では護身術の手順をさらうばかりの著者。結局この日は、恐怖ばかりでほとんど何も得られなかったものの、ここから著者の中のジャーナリストとしての好奇心と作家としての下心が芽生え始め、その後何度も読書会へ足を運ぶことに。
著者の緊張がほぐれるにつれ、しっかりと観察が行われるようになり、読書会の様子が詳細に紹介されてゆきます。ノンフィクションや小説、さまざまな書について、毎回色々な意見が交わされています。かなり鋭い見方や、監獄の中に囚われた身であるが故の視点などもあって、非常に面白いです。この読書会を始めた著者の友人キャロルや著者には、こういう風に感じてほしい、こういうところに気づいてほしいという希望があったりもしますが、必ずしもそのとおりになるわけではありません。しかし、自分の見方を提示することはあれども、参加者の意見を否定することはなく、むしろそれを尊重し、そこからキャロルも著者も新しいことに気づかされたりします。もちろんさまざまなき気づきは受刑者たちにもあり、読者である私自身も何度もはっとさせられました。
とはいえ、参加者が少なかったり、課題本を読んでこない者や意見を出さない者がいるなど、読書会そのものに課題がないわけではありません。そのためキャロルは、熱心な参加者を読書会大使に任命し、読み進められていない者を励ましたり、新たな参加者を誘ってくることを依頼するなど、読書会を盛り上げることに腐心します。時には読書会に著者本人を招くことも。
新しいことに積極的に取り組む意欲と人の役にたちたいという使命感をもつキャロルが、刑務所内での読書会を始めたきっかけには、フランスで発達障害者と介護者がともに暮らす共同体を設立した人物から言われた言葉にありました。「精神科病院の入院患者と刑務所の受刑者こそが、もっとも社会から阻害された孤独な存在である」。キャロルの別荘のあるオンタリオ湖のアマースト島から見える町には刑務所があり、そこにいるもっとも社会から阻害された人たちのためになにかできないかと動きだす中で、読書会というアイデアが自然に出てきたそう。それは、「受刑者たちにも本を好きになってもらい、見習うべきヒーローやヒロインを見つけてもらえたら」、さらには「読書によって彼らを中産階級に引き上げたい」という願いがあってのこと。とはいえ、読書によって受刑者を更正させようなんてつもりはありません。ただ受刑者たちが充実した読書の機会を持てるようにすることが目指されています。
読書会に参加している受刑者の一人が、読書について語った印象的な言葉があります。
「本を一冊読むたびに、自分の中の窓が開く感じなんだな」
本を開くことは、自分自身の窓を開くことだということは、すごく共感させられます。読書によって閉塞感のある現実から窓を開くように束の間の開放感が得られることもあるし、開いた窓から今まで知らなかった自分自身が見えることもあるし、読書会で取り上げられていた『もう、服従しない―――イスラムに背いて、私は人生を自分の手に取り戻した』のヒルシが書物を通してより自由で平等な世界の存在を知ったように、どのような状況であれ、より広い、未知の世界の見える窓が開かれることもあります。キャロルが行っているのは、「最も社会から阻害された孤独な」人たちに、そんな窓を開く方法を伝授することであり、それが伝授された人たち自らの手によっても、それが広がっていっていることに胸躍らされました。
「彼らが夢中になっているのは、もはや麻薬ではなく書物なのだ」
もう一つ感動させられるのは、読書会では、刑務所内に存在する人種や民族やギャング団の派閥の壁がなくなっているということ。また、トラブルを避けるために他の受刑者と関わらないようにしていた者も、読書会以外の場であっても課題書などについて気軽にメンバーと会話を交わすようになっていたりすること。『アンナプルナ南壁』という映画中のある登山家の台詞に「われわれは違う国から来ているというより、“山”という同じ国の住人なんだ」というのがありますが、ここに集う人たちは、“読書会”という同じ国の住人になっているようなのです。ただそれゆえに、その場が少し排他的になってしまうことが、ちょっと残念です。
この書では、読書会や受刑者たちのことが描かれる合間合間に、著者が泊めてもらうキャロルの別荘のある島で目にする豊かな自然についても活き活きと描かれています。無機的で管理された刑務所とは対照的な、「もともと善良な」自然の豊かさと力強さを描くところに、著者の人の善を信じる気持ちがあらわれているのかもしれません。
評価:
アン ウォームズリー 紀伊國屋書店 ¥ 2,052 (2016-08-30) |
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ブレンターノってどちら様?なのですが、ドイツ・ロマン派の一人として小説や詩を書いたり、アヒム・フォン・アルニムとともに後のドイツの詩人や作曲家に大きな影響を与えるドイツ民謡集『少年の魔法の杖』を編集した他、ライン河沿岸に流布する童話を採集して物語と化したライン童話集や、バジーレ『ペンタメローネ』中の話をもとにした作品などを書かれていたそう。ローレライ伝説の生みの親でいらっしゃるのだとか。この『ゴッケル物語』は、『ペンタメローネ』中の4日目の第一話「雄鶏の石」がもとになったものです。
「雄鶏の石」は、こんな話。唯一の財産である大事に育てていた雄鶏を魔術師たちに売ることになった貧しい男ミネコが、魔術師同士の会話からその雄鶏の中に不思議な力を持つ石が隠されており、それを指輪にして願い事をすれば、なんでもかなうと知り、魔術師のもとから雄鶏を連れて逃げ、その石の力で若さと豊かさを手に入れ、王の娘と結婚します。ところが何年かして、からくり仕掛けの人形を作ってミネコと王女の間の娘ペンテッラを誘惑した魔術師たちによって、指輪は奪い去られてしまいます。ミネコはもとの貧しい老人にもどり、王宮を追い出される羽目に。その後ミネコは指輪を奪った魔術師たちを探す旅に出、辿り着いたネズミ王国の王の協力によって無事指輪を取り戻します。
これがブレンターノの手になると、さまざまな面白い挿話が加えられ、いくつもの山場のある非常に面白い物語になります。
主人公ゴッケルは伯爵なのですが、今では荒れ果てた城の中の唯一屋根のある空間、鶏小屋に妻と娘とで暮らしています。それというのも、元は立派な城であったのが曽祖父の代にフランス人によって破壊されたことから没落し、その後代々鶏の守として隣国の王に仕えてきたものの、ゴッケルの仕える王があまりの卵好きであったため、その卵の浪費を咎めたことでゴッケルはクビになってしまい、仕方なく破壊されたもとの城へと戻ってきていたのでした。戻ってきたその夜、ゴッケルは猫に狙われていたネズミの王子と王女を助けます。
ゴッケル唯一の家臣は、気高い雄鶏のアレクトリオと雌鳥ガリーナなのですが、ゴッケルの妻ヒンケルと娘のガッケライアは、少しでも仕事をサボるとうるさいアレクトリオのことを疎ましく思っていました。そのため、ゴッケルが町へ出かけて留守にした日、ヒンケルは邪魔されぬようアレクトリオを袋につめて朝寝をし、ガッケライアはガリーナの産んだ卵から孵った雛を、遊び相手の仔猫たちに見せてやろうと、仔猫たちとともに親猫も鶏小屋の中に入れてしまいます。結果ガリーナと雛はすべて殺されてしまいました。この事態を母娘は、すべてをアレクトリオの仕業ということにしてゴッケルに訴えます。冷静さを失ったゴッケルは、アレクトリオを以前からそれを欲していた三人組のユダヤ人に二束三文で売ることにします。暴れるアレクトリオをユダヤ人の家に運ぶ途中、アレクトリオから話しかけられたことでゴッケルは何かあると感じ、ユダヤ人たちを狩のためにつくっておいた落とし穴に落として、雄鶏の頸の餌袋にはあらゆる願いをかなえるソロモンの指輪の宝石が隠されていること、隣国を追い出されたのも、雌鳥と雛を殺した猫たちを用意したのも全部このユダヤ人たちの仕業だったことなどを聞き出しました。その後、アレクトリオの願いどおり、雌鳥と雛殺しを裁く裁判を行って猫たちを死刑にし、ヒンケルには悪事を永久に記念するため紋章に鶏の骨と猫の爪を加えさせ、ガッケライラには今後一切人形遊びを禁じる罰を与えます。そしてアレクトリオの希望通りに伝家の宝刀でその頸を刎ねて宝石を手に入れます。
鳥たちが詩によって証言する裁判の様子も面白かったですが、ここからゴッケルは鶏たちを称える荘重な演説を行うのですが、これがまた興味深いです。岩波文庫の訳注によると、この部分の記述の多くはコンラート・ゲスナーの鳥について書から採られているのだとか。
さてソロモンの指輪を手に入れ、若さと豊かさを手にしたゴッケルは、かつて仕えていた隣国の卵好きな王と親しくなります。ガッケライアは王子と仲良しに。めでたしめでたしですが、ここで終わることはなく、「雄鶏の石」同様、ユダヤ人たちは動く人形を餌にして、ガッケライアに指輪を持ってこさせます。禁じられていたからこそ、ガッケライアはあっさり人形の魅力に負けてしまうのです。ゴッケルは、魔法によって得たものすべてを失ったのみならず、ガッケライアまで、走る人形を追って行方不明に…。
「雄鶏の石」同様最後はハッピーエンドですが、物語を「おとぎ話」に化する結末の楽しいこと。
この書には、さらにテオドール・シュトルムによる、賢者の石を求めるあまり、大切なものを得られなかった男の人生を描く幻想的な短篇「薔薇と鴉」が収められています。鴉がもっている眼鏡が活躍しすぎて、とんだ悲劇に。
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若きフィレンツェ公爵アレクサンドル・デ・メディチが、従弟にあたるロレンゾ・デ・メディチに殺害されたメディチ家の暗殺事件を題材にした戯曲です。訳者渡辺守章氏は、日本で初めてこの戯曲を舞台化した演出家でいらっしゃるそうで、訳注や解題ではその舞台についても触れられています。若き堤真一演じるロレンゾだなんて、すごく見たーい!
さてこの作品、光文社古典新訳文庫の帯には「同性愛の匂いがする暴君アレクサンドルと従弟ロレンゾの関係」なんて書かれていて、期待しかない状態で読み始めたのですが、もう期待以上でした。二人に肉体関係があることがちょくちょく匂わされているようなのですが、それははっきり言ってどうでもいいです。この二人の関係の何がいいって、ロレンゾのあまりに一方的で一途な強い思いです。清らかで生真面目だった青年ロレンゾが、わが手で暴君アレクサンドルの暗殺を成し遂げるという思いに囚われ、アレクサンドルの懐に入るため、ともに放蕩を楽しむ演技が演技でなくなるほど我が身を汚しまくりながら、ただひたすら一途に暗殺の日を待ち焦がれているのです。その待ち焦がれっぷりと、他の誰にも手を出されたくない独占欲の激しさ。ロレンゾは暗殺を「婚姻」と呼び、アレクサンドルを殺すのには誰の血でも穢れていない剣を使いたいとか思っています。このあたりなんだかとてもエロエロしい。訳注にも、このあたりのロレンゾの台詞は殺人を性的結合のイメージで語っていると書かれてます。暗殺の場なんて、綺麗にしつらえられた寝室ですしね。花なんか飾ってみたりして。
そして、その暗殺、どうもフィレンツェのために暴君を誅するという単純なものではないようです。暗殺計画を実行するため「人間というこの荒海の真っ只中に身を沈め」ておぞましいものを目にした結果、ロレンゾの中で何かのための何かが失われてしまったかのよう。
「「人類」という名の女神が、裾をからげて、自分に相応しい信者だとばかり、そのおぞましい裸の姿を見せてくれた。人間たちのあるがままの姿を見て、問わざるを得なかった、「いったい僕は、誰のために働いているのか?」
「僕が確かめておきたいのは、自分が破滅した人間だということです、人間たちは、僕のやることを生かすことも、理解することさえ出来ないだろうということです。」
「僕の全人生が、此の短剣の切っ先に懸かっている。僕の剣の突き刺さる音を聞いて、天の摂理が顔を背けるか背けないか、そんなことは知らない、とにかく丁か半か、人間の本性を、アレクサンドルの墓の上で賭けてやる―――あと二日すれば、人間どもは、僕の意思という法廷に、否応なしに引き出されるのだ。」
訳注では、これを「己が刻印を人類の上に刻みたいと願うロマン派的英雄」の姿であるとし、訳者解題でロレンゾは「19世紀の90年代に社会現象として出現する、あれら「テロリスト」の先駆者」、さらには「無償の殺人者」、ラスコリニコフに通じる人物ではないかと書かれています。
戯曲内では、暗殺を目論むロレンゾの動向以外にも、フィレンツェ市民や、アレクサンドルの放蕩仲間によって娘を殺されてしまった共和派の首領であるフィリップ・ストロッツィと復讐に燃え立つその息子たち、義妹がアレクサンドルの愛人であることを利用してアレクサンドルを操作しようと目論むチーボ枢機卿などの動向も描かれています。そしてロレンゾがなしとげた暗殺は、虎視眈々と権力を掌握することを狙っていたチーボ枢機卿にちゃっかり利用されてしまうのです。共和制が取り戻されることはなく、ロレンゾは人類に己を刻むこともかなわない結果に。ロレンゾが死を自ら受け入れるような結末は史実とは異なるそうですが、この物語のロレンゾには似つかわしい最後でした。
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『人生の真実』だなんて、噓くさい人生指南書のようなそそらないタイトルだと思ってしまいましたが、世界幻想文学大賞受賞作なのだそう。ならばと手に取りましたが、驚くほど非常によかったです。原題"The Facts Of Life"は、訳者あとがきによれば、「厳しく避けがたい人生の現実」を意味する言葉とのこと。まさにそんな、色々な形で平坦ならざる人生と向き合って生きねばならない人間の姿が、戦後少しずつ復興してゆくイギリスの地方都市を舞台に、たくましい母親と7人の娘とその家族たちの物語として描かれていました。
七人娘の母親であるマーサと、末娘のキャシー、その息子フランクは、死者の姿や声を感じ、予言的なメッセージを受け取ったりする不思議な能力がありますが、この物語ではそれがことさらに特別なことという印象を受けません。その理由の一つは、さまざまな死や死者との関わり方が描かれているため、その能力もその一つと思えることです。さらに、特殊な能力はなくとも家族全員がそれぞれに個性的で、個性的なメンバーが揃ったマーサ一家自体が非常に風変わりなことも。
その風変わりな家族について、「家族とはどれをとってもおかしなもので、おかしさの度合いが異なるだけなのだ」と言ってしまうマーサが非常に魅力的。そんな風にたくましく家族をまとめるマーサはもとより、個性的な娘たちは皆それぞれに活動的で、フランクをはじめ、男性も勿論重要な役割を持って登場しますが、それでもやはり、これは女たちの物語という感じがします。
精神的に未熟で放浪癖など問題を抱えている末娘キャシーは、戦争が終結して間もなく出産し未婚の母親となるも、母親の務めは果たせないだろうと他人に赤ん坊を譲ることを姉たちから勧められ、そうしようとしますが、不思議な幻覚を見たことで、それを中止し家に連れ帰ります。その結果マーサは、家族みんなで協力してフランクと名づけられたこの男の子を育ててゆくことを決めます。その後フランクは、農夫と結婚した五女ユーナの農場や、スピリチュアリスト教会の重鎮で独身の双子次女・三女イヴリンとアイナのさまざまな自称霊能力者が出入りする家、結婚などの制度に縛られない実験的な共同生活を送っている六女ビーティのところや、まるで死体のような姿のエンバーマーの夫がいる長女アイダの家などで生活する事に。
フランクが成長してゆく物語の合間合間に、家族たちの悲喜交々、直面する困難、「厳しく避けがたい人生の現実」、それを乗り越えてゆく様が描かれます。
不思議な能力が特別なものという印象を持たないと書きましたが、フランクが、ユーナの農場の橋の下で見つけ、こっそり会話し続けていた謎めいた不気味な<ガラスの中の男>の正体が明らかになる終盤、母から子へと受け継がれてきたその不思議な能力こそが、実は最初から最後まで物語を繋いでいる糸であったことに気づかされ、この風変わりな家族の物語が、非常に巧みに構成された見事な幻想小説でもあることを改めて感じさせられました。「人生の真実」が描かれた家族の物語としても非常によかったですが、幻想小説としても素晴らしいです。
舞台となっているコヴェントリーは、重税に苦しむ人々を救うため裸で馬にのって町を回ったゴダイヴァ夫人伝説の地であり、この伝説の用いられ方もすごくいいです。
「人生ってのは計画なんて立てさせてくれないものさ。人生は人の足元に忍び寄って、ちょうどお皿を並べ終わったときにテーブルをひっくり返すんだよ。」
こうした人生のややこしさは、マーサにとって困難の別名ではなく、生きることそのものであり、マーサはそれを歓迎していた。
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イーヴリン・ウォー、ほとんど読んでいないのはたぶん出会いが悪かったからかと思います。英語の教材としてでしたから。確か「The Loved One」。不真面目学生だったために、いい加減に聞き流していた上、話半ばにして授業が終わってしまったため、全くその面白さに気づくことなく、退屈な授業の印象のままに退屈な話なのだと思い込んでいました。もっと短い話であったならば、あるいはそのときに好きになることもあったかも。いやいや、それよりも、せっかくの原文で読む機会を無駄にした自分自身が嘆かわしい。
そのせいか、この書を読んでまず素晴らしいと思ってしまったのは、どの話も短いというか、すごくいい長さだなということ。傑作短篇集なんだから、そりゃそうですが、しかもどれも単に短いだけでなく、たいへん密度が濃く、ウォーの面白さがギュウギュウに詰まっていたため、とても好きになってしまいました。なにしろ、上流階級の人々の滑稽な振る舞いを辛辣に描くなど、作中挟まれる笑いはどれも非常に意地悪なものなうえ、物語の展開にしても悲劇としか言いようのない容赦のなさでありながら、むしろその容赦のなさで笑いを取るような物語揃い、大変私好みだったのです。
印象的だったものをいくつか。
「良家の人々」、かなり酷い話でありながら、すごく可笑しい。半分耄碌したような祖父たち老人によって狂人扱いされ、家に閉じ込められてきた若き侯爵のグランドツアーに、語り手はチューターとして同行することになり、意気揚々とロンドンに向かい、旅行用の服を仕立てたり劇場を回ったりしていたものの……「自然は、怠惰な作家のように、明らかに長編小説の書き出しにしようと意図したものを、不意に短篇小説にしてしまうことがあるように思われる。」
零落する貴族、税や維持費による経済的困窮やそのための吝嗇は他の作品にも書かれていました。
「<ザ・クレムリン>の支配人」、パリで人気のロシア風ナイトクラブを経営する亡命ロシア人の語る店を持つに至る過去の話。300フランの持ち金しかない状態でパリへやって来た男の取った意外な行動。「母国を失えば、人気のあるナイトクラブを所有するのさえ、むなしい」というこの短篇最後の行が、今チビチビ読んでいるナボコフのロシアへの郷愁に溢れたエッセイにつながる感じ。「かつて楽園があった……。かつてロシアがあった。」
「不況期の恋」、新婚旅行の際に、停車した駅でちょっと降りただけのはずが、妻を乗せた列車に乗り損ねるという失敗から、それは見事にどんどん思わぬ方向へむかってゆくのが、たまらなく可笑しい物語。そもそもの婚約の時点からして、それでいいのか?だったように、容赦ない展開の犠牲者になるにふさわしい人物が、そうなってしまう話。
「現実への短い旅」、書くことに行き詰まり経済的に困窮する作家が、映画会社から脚本を書いてほしいと依頼され、その活力に溢れて慌しく多様で充実した、でも無駄な仕事に翻弄される物語。「人生で初めて“実生活”に触れたんだ。僕は小説を書くのをやめようと思う。それは、いずれにせよ無駄骨なのさ。書かれた言葉は死んでいる――最初はパピルス、次は印刷された本、今は映画さ。芸術家は、もはや一人で仕事をしてはいけないんだ。芸術家は、自分の生きている時代の一部なんだ」等々語らせておいて……
「アザニア島事件」、『黒いいたずら』で用いられたアフリカ東岸の架空の島を舞台にした、誘拐事件の話。人々の振る舞いが辛辣に描かれるのも可笑しいうえ、誘拐されたらしき女性からのメッセージが暗号になっていると解読を試みるケンブリッジから来た青年やら、身代金を持ってやって来た記者の書く妄想記事の妄想っぷりの酷さやらに笑いが止まりませんでした。
「ベラ・フリース、パーティーを開く」、英愛条約が結ばれた後もアイルランドに残ったイギリス上流階級の一族、フリース家の最後の一人である、今や近隣では笑いものになっている老女が、朽ちかけた屋敷で、古書を売ったことで得た1000ポンドを使ってクリスマスパーティーを催すことを思いつき、懸命に準備しますが……。ひぇ〜!この書一番度肝を抜かれた作品です。
「ディケンズ好きの男」、浮気している妻の気を引こうとブラジル探検隊に加わった男のたどる悲惨な運命。お金はあるが運のない、これまた容赦ない話の犠牲者たるにふさわしい人物の話。
「見張り」、農業事業を始めるため遠国に行く男が、事業に成功するまでチャーミングな鼻の婚約者が自分を待っていてくれるように、見張り役として仔犬をプレゼントしたところ、仔犬は懸命に巧みにその使命を果たし続けるも、ある時強敵が現れ、あわや婚約者は別の男性と結婚しそうになるも……。見事な「鼻」話。
「勝った者がみな貰う」、長男と差をつけられまくりで育った次男が、長男においしいところを持っていかれ続ける話。兄と兄を偏愛する母親の姿がかなり辛辣に描かれています。解説によれば、兄を偏愛した父親に対するウォーの恨みが反映した作品なのだとか。
「イギリス人の家」、長閑な田園暮らしを脅かす土地開発を、近隣住民が揉めつつも阻止しようとする話。オチがまさに「イギリス人の家」。
などなど。長編も読みたくなってきました。
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すごく不思議な小説。
メラニーという結核に冒された女性の物語。彼女には裕福な新進気鋭の刑事弁護士である夫ガイと、病気のせいで早産する事になったものの無事に7ヶ月育っている息子リチャードがいます。寝室に寝たきりで、子どもと自由に触れ合えない不自由さはあるものの、古い家を改装した素敵な住居で、手厚い看護を受けています。病状もよくなってきているようで、検査結果がよかったことと、長らくおとなしく休んでいた「ご褒美」として、休む部屋を寝室から居間へと移動してもらえることになります。その居間に置かれた、結核が判明する前日、まだ自由に活動できた最後の日に骨董屋で購入した“ヴィクトリア朝の寝椅子”の上に寝床を移してもらい、訪れるはずの幸福を思い、暖かで心地よい春の空気に包まれて横になっているうちに、「恍惚」とした状態となって眠りに落ちたのですが、目覚めてみれば、そこは先ほどとは全く異なる薄暗く嫌な匂いのする部屋。なぜかメラニーの意識は100年ほど前にこの寝椅子に臥せっていた別の女性ミリーの身体に時を越えて囚われてしまったのです。一体自分の身に何が起こっているのか、全くわからないまま、寝椅子の上から動けない状態で周囲を観察し(この描写が見事)、自分の世話をしている冷淡そうな女性や、訪れ来る人々との会話を通し、徐々に徐々に肉体の方の自己、ミリーのことがわかってくるとともに、何とか本来の自分であるメラニーに戻る方法を考えますが……。
精神が別の人間の肉体という牢獄にとらわれ、そこからなんとか脱出する道を探るスリリングなタイムスリップファンタジーのようであり、謎だらけの状況が徐々に明らかになるミステリアスな物語でもあり、個人のアイデンティティーが崩れるサイコホラーのようでもあります。また、極端に不自由な状況の女性が自分自身を探求し、自己の開放を求めるフェミニズム小説として読むこともできそう。
メラニーとミリーを繋ぐヴィクトリア朝の寝椅子、メラニーがこの寝椅子をたまたま立ち寄った骨董屋で購入したのは、何か猛烈に惹かれるところがあったためです。彼女はこの寝椅子を見たとき、誰かにこの寝椅子に押し倒されている、自分ではないミリーの身に起こったことの記憶を感じ取ります。そんなメラニーとミリーの繋がりの不思議さ。快適な状況で、病状も良くなっているような希望に満ちたメラニーと、心地の悪い状況で死に瀕しているミリーは全く対照的で、二人は全くの別人のようですが、なぜか意識は奇妙に混交してしまっており、メラニーとともに読者である私も困惑させられ、なかなか恐ろしい気分になります。とはいえ、時代も含め置かれた状況の違いによって二人が対照的にみえているだけで、本質的には同じなのかもとも読まされます。
この二人が時を越えて一体となる奇妙な出来事の鍵として、ヴィクトリア朝の寝椅子の上での「恍惚」が取り上げられているのですが、その点がこの小説を独特のものにしています。宗教的、性的なものも含む「恍惚」、それこそが自己の枠をはずし時間を消失させるものとして描かれているのです。
訳者横山氏の解説によると、著者がこの物語の着想を得たのはある修道士が野原で雲雀の歌声に聞き惚れ、うっとりしている間に、いつの間にか1世紀たっていたという伝承なのだそう。著者が読んだ話の出所がJ.M.バリーからさらに探検家ナンセンまでたどられているのが興味深いです。
この伝承、フランスの説教集、古いものだと12世紀のものなどに入っているようで、修道士が神に「天上の悦楽の一番小さなものの一つをお示しください」と願い続けた結果小鳥が現れ、その妙な歌に聞き惚れていたら…という話であり、「天上の悦楽に達するには数多の辛苦を経ねばならぬこと」のたとえとして語られたものなのだとか。恍惚によって時を越えたというよりは、恍惚の代価として、すっとばした辛苦分として時が加算されたということだったのかも。