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評価:
エドワード・ケアリー 東京創元社 ¥ 3,240 (2016-09-30) |
JUGEMテーマ:読書
「栓は開けるものであり閉じるものであり、小さな丸い扉なんだ。ふたつの世界を隔てる扉なんだよ」
「わたしたちの血のなかには大きな秘密が隠されています。不思議な不思議なものが。おまえはこの血から逃れることはできません。」
ロンドン郊外のフォーリッチンガム、別名フィルチング特別区にはロンドン中のゴミが集められた私有地があります。その巨大なゴミ山の真ん中には、大海原の中の孤島のように堆塵館と呼ばれる屋敷があり、棄てられた家具や資材で作られたその大きな屋敷の中には、ゴミから財を成したこの地の管理人、アイアマンガー一族が暮らしています。アイアマンガー一族には、生まれるとすぐに与えられる「誕生の品」を、いつでも身につけ、大切にしなければならないという決まりがあります。この物語の主人公の一人である15歳の少年、クロッド・アイアマンガーの誕生の品は“浴槽の栓”。他の者は、安全ピンであったり、ドアの取っ手であったり、片手鍋、灰皿など様々、中にはマントルピースであるために、生まれてからずっと部屋から出ることが出来ない者もいたりします。クロッドは、なぜかこれらの誕生の品が発する声を聞くことが出来ます。それらは皆、「ジェームズ・ヘンリー・ヘイワード」だとか、「パーシー・ホッチキス」、「ヘンリエッタ・ニスミス」等々、それぞれ人名を連呼しています。誕生の品以外の身の回りのものの中にも同様の声を発するものが時々存在しています。
堆塵館には、純血のアイアマンガーの他に、使用人として働いている多くの純血ではないアイアマンガーたちも暮らしています。彼らは特別な地位についているもの以外全員「アイアマンガー」と呼ばれ、個人名を剥奪されています。ここでは彼らは名前だけでなく、不思議なことに過去をも失ってしまっています。彼らにも誕生の品が存在しますが、それらは金庫に保管されていて、一週間に一度しか触れてはいけない決まりになっています。
この堆塵館に、もう一人の主人公である赤毛で緑の瞳、そばかすだらけの丸顔の16歳の少女、ルーシー・ペナントが、アイアマンガーの血が流れているということで、孤児院から使用人として引き取られてきた時から、さまざまな騒動が起こり始めます。
複雑な堆塵館の内部や広大で恐ろしいゴミ山の様子、奇妙なアイアマンガー一族、物と人の不思議な関係、物が名前を連呼する謎、ルーシーの両親がかかった奇病等々、さまざまな事や謎が、ひょんなことから出合い、好意を抱きあうようになったクロッドとルーシーを通して、少しずつ明らかになってゆくとともに、あらたな謎もどんどん増えてゆきます。
ルーシーが実はアイアマンガーの血が流れていないことが判明して追われる身になった際、クロッドは、特別な能力を持つ選ばれたものとしてアイアマンガー一族のために全力で奉仕することを求められていたにもかかわらず、一族よりもルーシーを選びます。その結果……。
とっても久しぶりのエドワード・ケアリーです。私は『望楼館追想』以来なので、約12年ぶり?あ、『もっと厭な物語』内の短篇読んでるから、2年ぶり?でも、気持ち的にはやっぱり12年ぶり。この物語もまた、『望楼館…』同様不思議な舞台で奇妙な登場人物たちが織り成す物語ですが、児童書として書かれているそう。著者による挿絵までついているのが素敵。「子供向けのほうが自由に書けるような気がするときがある」と著者自身仰っているように、舞台の不思議度も登場人物たちの奇妙度もぐっとあがって、のびのびと奇妙な物語が描かれている感じがします。でもちゃんとボーイミーツガールありのハラハラドキドキの冒険譚になっています。大人の私も夢中になって読んでしまったうえ、今は先が気になって仕方がないです。
捨てられたものたちが荒れ狂う世界の真ん中に君臨するアイアマンガー一族の物語はどこへ着地するのか、絶望的な状況に陥ったクロッドとルーシーの運命はどうなってしまうのか、まったく外に開かれていなかった物語は今後どうなってゆくのか、ものすごく気になるので、なるべく早く2部を出版していただきたいです。
「わたしたちは大丈夫。きっと大丈夫。もしあなたがいなくなっても、わたしがきっと探し出す。どんなことがあろうと。わたしがあなたを見つけだす。わかった?」
さて、これは、著者プロイスラーの生まれ故郷で親しまれてきた山の神さま、リューベツァールについての話、再話や創作織り交ぜた24話に、ご自身の体験談3話をあわせたものです。
リューベツァールは、シレジア(ポーランド)とボヘミア(チェコ)の間にある山地、リーゼンゲビルゲに住んでいるとされ、この名は渾名に過ぎず、本当の名前もその姿も不明なのだそう。とはいえ、主にドイツ系の人々の間で親しまれてきたことから察せられる通り、もとは金や錫の鉱床を求めてこの地に移り住んできたドイツ系の人々によって持ち込まれた鉱山の精であった様子。
その名前の由来については諸説あるらしく、この書で紹介されているムゼーウスの話では、リューベンツェーラー、「蕪を数える者」という意味の渾名で呼ばれるようになった由来が語られています。が、これは、俗説であり、他にはriebe(荒々しい)+zagel(しっぽ)、、<しっぽのある怪物>的な意味の、山の神さまに対するののしり語だったなどという説もあるのだとか。山で遭遇する自然の猛威がこの神の御業とされていたとすれば、ののしられるのもいたしかたないのかも。
山が、荒々しく人を襲うこともあれば、豊かな恵みを与えてくれることもあるなど、さまざまな顔を持つように、リューベツァールが人の前に姿を現した際の行いはさまざまです。驕れる者、罰当たりな者、弱者を虐げる者たちに対しては、鉄槌を下し、罪もなく貧しい暮らしをさせられてきた弱者に対しては、力を貸したりもします。この書の中では、そんなさまざまなリューベツァールに出会えます。
キリスト教から見れば、異教の神、悪魔的な存在ということになり、相容れない存在です。そのため、リューベツァールのことを悪魔のまやかしと説いた司教が酷い目にあう話もありますが、しかし、今際の際に神父に来てもらいたいと願った老女の願いをリューベツァールが叶える話もあり、人々が、宗教に縛られることなく、困った時に助けを与えてくれる暖かい存在として信じていた姿が垣間見えます。
この書の最後は著者自身の体験談で締められていますが、そこには自伝的内容が含まれており、『クラバート』や『おおどろぼうホッツェンプロッツ』などの作品には親しんでいても、ほとんど知らなかった著者自身のことについて、色々教えられました。もとはチェコのボヘミア地方、ドイツ系の人々が多く暮らしていたライヒェンベルクというところに住んでいらっしゃったそう。しかし、第二次世界大戦後、チェコにドイツ人はいられなくなってしまいます。そのため長らく捕虜となっていたロシアからようやく開放された際、チェコに帰ることができず、ドイツ南部のバイエルン州、ローゼンハイム近郊の村で新しい生活を始めることになりました。そこで、故郷で婚約したいた女性と再会して結婚し、教師としての職を得、教職のかたわら、作家としての活動も始めていかれたとのこと。
この話中に書かれた、ドイツでのリューベツァールとの思いがけない出会いがいいです。著者にとってのリューベツァールは、時に怒ったり、いたずらを仕掛けたりするものの、信じるものたちを暖かく見守り助ける存在であり、それを身をもって感じていらっしゃるのです。
戦後長らく経ってようやく故郷を訪れることができた著者は、リューベツァールの王国であった山や森が人の手によって荒廃してしまった姿を見ます。ひょっとしたら、もうかつての王国にリューベツァールは存在しないのかもしれません。しかし、人々の信じる心のなかには存在し続けます。この書は、故郷で出会い、故郷を遠く離れた今も見守られていると感じる、そんな著者の心に存在し続けている「わたしのリューベツァール」の新たな王国なのです。そしてその王国は、この書を読んだものの心にも、広がってゆくことでしょう。
<以下印象的だった話>
「ヨハネス・プレトーリウス修士」
プレトーリウスは、1665年ごろにリューベツァールのさまざまな伝承に創作を交えてまとめた書を出した人物。ムゼーウスの作品をはじめ、後世書かれた色々なリューベツァール物語のネタ本なのだそう。もちろんこの書にも、ここからとられた話があるそう。
これは、プレトーリウスがいかにして新たなリュ―ベツァールの物語を創作しえたかという話。もちろん、あの方が……。
「霧のボウリング仲間たち」
無鉄砲な若者がリューベツァールの正体を見極めようと山へ行くも、そこで巨人が九柱戯をしているのに遭遇する話。
アーヴィングの『スケッチ・ブック』中の浦島譚「リップ・ヴァン・ウィンクル」、ドイツ移民がもたらした民話が元になっているということでしたが、“山中で異界の者たちが九柱戯をしている”という要素は、なるほど、リューベツァールの伝承にも存在するということがわかって、私的には「おおっ!」となる話でした。
JUGEMテーマ:読書「アルキメデスは、有名な物理学者で数学者だ。」と、クサンチップス先生はみんなに教えた。「かれは、『わたしにてこの支点が与えられれば、世界をひっくり返してみせる。』という金言をのべた。われわれには象徴的に言って、そういうてこの支点が必要なのだ。ムキウス、きみたちがこれまでルーフスの件で見聞きしたことを、もう一度くわしく話してみたまえ。なに一つわすれないように気をつけてな。くだらないようにみえることでも、じつはたいへん重要で、われわれの手がかりになるようなことがあるものなのだ。」
古代ローマが舞台の児童書です。古代ローマの男の子達がいったいどんな暮らしをしていたのかって、全く想像もつきませんが、友だちと喧嘩したり、先生に怒られたりというのは、いつの時代も変わらないのかもしれません
ローマで一番授業料の高いクサントス文法学校に通う少年達のお話です。そんなわけですから、みんな父親が元老議員や裁判官、将軍といった、それなりのお坊ちゃんぞろいです。
ある日、授業中に悪ふざけで「カイウスはばかだ」と書字板に書いて掲げたことで、カイウスという少年とルーフスという少年が喧嘩になります。それがもとで、落書きをした少年ルーフスは、先生から退学をほのめかされるほど怒られたのですが、事はそれだけではおさまりませんでした。
次の日、あろうことか、神殿の壁に真っ赤な絵の具で「カイウスはばかだ」と落書きがされていたのです。クサントスの生徒達は、ルーフスの仕業ではないかと驚いたのですが、ルーフスは、強く否定します。しかし、著名な鑑定家によって、その筆跡がルーフスのものに間違いないと断定されてしまい、ルーフスは神殿の冒瀆罪で逮捕され、牢屋へ入れられてしまいます。しかも、ひょっとしたら死刑の判決を受けるかもしれないことになってしまいました。
友人を信じる少年達は、なんとかルーフスの無実を証明しようと、色々調べはじめます。ケンカしていたカイウスも途中から仲間に加わり、普段は怖いクサンチップ先生の多大な協力もあって、結果、思いがけない恐ろしい陰謀を暴くことになります……。
ルーフスの筆跡そのままの落書きのなぞはもとより、クサンチップス先生を襲った奇妙な強盗のことや、なぜか濡れていたルーフスの服など、物語中のさまざまななぞに頭をひねらされ、少年達が巻き込まれる危険にハラハラさせられる面白い内容でした。最後の最後、クサンチップス先生の台詞もいいです。
岩波少年文庫この秋復刊した18冊のなかから、気になるものを読んでいます。
ドリトル先生シリーズでおなじみのヒュー・ロフティングのよる児童書。ドリトル先生シリーズ一冊も読んだことないのですが、このお話には、ぐっと惹きつけられました。“秘密”っていうタイトルに弱いんです。
金策に頭を悩ませている父親を助けるため、幼い兄妹のジャイルズとアンは、魔女と噂される老女アグネスに助力をもとめます。アグネスは、二人に、「<ささやき貝>を、もっとも必要とする人にとどけたものはだれでも、莫大な財産がもたらされるであろう」という言葉とともに、美しい巻貝を一つ与えました。その貝は、貝の持ち主のことを誰かが話していると熱くなり、耳にあてるとどんなに離れた場所であってもその話が聞こえるという不思議な「ささやき貝」でした。
二人はこの貝をもっとも必要としている人を探そうと、いろいろ試してみた挙句、王様こそが、貝の持ち主としてふさわしいのではないかと考えます。
つい最近王国を治めるようになったばかりの若い王様に、ジャイルズは命がけで
なんとかこの貝を手渡すチャンスをつかみます。国王は、この貝のおかげで、大変な陰謀を知り、危機を脱することができました。結果ジャイルズには父親を助けるに十分な褒美が贈られ、しかもわずか9歳にして、騎士の地位まで与えられました。
ここまでで、めでたしめでたしと、お話が終わってもよさそうなものなのですが、この物語が素敵なのは、この後さらに続編が続くことなのです。
ジャイルズは特技を生かして王様の「探しもの係」として、お城で王様の側で仕えることになりました。持ち前の観察力と記憶力によって、それに時には「ささやき貝」の力も借りて、とても有能な「探しもの係」として、また、王様の信用の厚い友人として9年を過ごします。いろいろなものを探し出してきたジャイルズですが、今度はとんでもないものを探すよう命じられます。それは、王様との挙式を目前にして姿を消してしまった伯爵令嬢バーバラだったのです。しかもジャイルズは密かにこのバーバラに恋をしてしまっていたというのに・・・・。
子どもたちの冒険譚的な、わくわくドキドキさせられる前編とは趣を変え、後編では王様の苦悩や切ない恋情が扱われ、別種の危機が書かれていて、ますます引きこまれてしまいます。
この物語では、魔法のような、不思議なことが扱われてはいますが、ファンタジーにありがちな魔法とは違う、神秘とでもう言うべき厳かなもののように感じられます。不思議だけれども、不思議じゃない、ただわたしたちが知りえないだけのこととして、書かれているのです。ささやき貝の秘密はあかされぬまま、失われてしまいますが、深遠な秘密を信じる気持ちは、物語の余韻とともに、ずっと心に残りそうです。
精霊や要請は人間の世界を去ったので、もう奇跡はおきないというのでしょうか?しかし、これもまた魔法ーーーそう、ジェフリーがいつもいっていたようにーーー太陽が夕方の海にしずみ、朝の大地にのぼるのも魔法のわざなのです。それがいま、真実に思えるのです。むらさき、バラ色、そして銀ねず色にとうつりかわり、うずめき、まじわるけんらん豪華な光の祭典。神秘の時間、不思議なる物、エルフとゴブリン、霊魔と人魚の魔法のわざ。魔法にかけられた夢のおわりのやすらかな眠りのように、しずかな暗闇にまじりゆく。
これは、魔法のたそがれなのか?おそらく。ただし今日一日だけの。太陽にまたのぼる力があり、人にさがす気力があるかぎり、魔法はけっしてほろびはしない。
岩波少年文庫、創刊60周年ということで、この秋どどんと18冊が復刊されたとのこと、まったくおめでたい話でございます。
中にハウフの童話集、『隊商』がはいっているのがうれしい限りです。
ハウフの童話、単品で読んでもおもしろいものが多いですが、すべての童話集が枠物語になっているので、やっぱりちゃんと一冊の童話集で読みたいところ。枠の物語には、どれも驚く結末が用意されているのも、大きな楽しみです。
そんな結末が特におもしろいのが、この『隊商』だと思います。砂漠を横断中の隊商の商人たちが、休憩時の暇つぶしにさまざまな話を語りあうのですが、その中で一人の商人が語った身の上話の知られざる側面が、最後に明かされ、その感動冷めやらぬうちに、最後の最後にもう一つ、ある事実が明かされるという心憎さ。今にして思えば、予想の範囲内かもしれませんが、子どもの頃にうけたこの衝撃は、私の枠物語好きの原点になっています。
挿話の中には、ちょっと不気味な話がいくつかありますが、中でも怖かったのが、ネタバレになりますが、結末に関わる片腕のない商人の身の上話です。以前は商売の傍ら、医者としても仕事をしていたその商人は、正体不明の人物の依頼で、女性の遺体から首を切断する仕事を引き受けます。ところが遺体のはずのその女性は、実は眠っていただけで、そうとは知らずに、その商人は首を切ってしまうのです。切りつけた瞬間、遺体のはずの女性がカッと目を見開く、そのシーンの恐ろしいことといったら、もう。
ところで、この商人は、ある復讐計画のために騙されて利用されていたのですが、復讐のために医者を欺いて女性を傷つける、同じ手口が、コナン・ドイルの短編小説「サノックス卿夫人の事件」にあります。堂々と不貞を働く妻とその相手に対して、物静かな夫によって行われた鮮やかで恐ろしい復讐の話です。だまされて女性の唇を切除する羽目になる医者こそが不貞の相手で、そのような形で妻の自慢の美貌を奪うことが、夫の復讐なのでした。
岩波文庫のほうもついでに『盗賊の森の一夜』を復刊してくだされまいかなぁ〜。
こちらは枠の話のほうでも、ハラハラさせられる楽しみがあります。
金原氏による英米怪奇小説のアンソロジー。岩波少年文庫の一冊ですから、お若い方々を対象として編まれているのでしょうが、大人だって十二分に楽しめる充実した恐怖がつまっています。扱われる恐怖も多様で、ジワジワくる恐怖から、はっとと驚かされるもの、恐怖以上に胸をつかれるものまで揃っています。優良な作品ぞろいなだけに、既刊のアンソロジーに収録されたことのある作品がいっぱいなのだそうですが、私は未読がいっぱいなのでノープロブレム。しかも全作金原氏による新訳(しかもエドガーアラン・ポーの作品にいたっては翻案までされてしまっています)というのも魅力的。
はっと驚く系の話では、既読でオチも覚えていましたが、サキの「開け放たれた窓」が大好きです。初めて読んだときは悔しくて仕方なかったですが、今やこのうまさに感嘆するばかりです。でも、その鮮やかなオチゆえに怖い話ではありません。かたや、フレドリック・ブラウンの「うしろから声が」は、はっとさせられるお話であって、しかもとっても怖いです。はっとさせられうろたえているうちに、バッサリと恐ろしいところで幕が引かれて呆然というか、ガクブルです。
このアンソロジーの中での一番怖い話は、「ポドロ島」ではないでしょうか。「あれ」って何なのか、「あれ」って実在したのか、解釈は色々なのでしょうが、どう解釈しても怖くって仕方がないです。
とても短いお話ですが、ロアルド・ダールの「お願い」も大好きです。カーペットの模様を危険に見立てて子どもが遊んでいるだけのお話であるにもかかわらず、それが非常に恐ろしい内容になっております。是非とも短編集を読んでみたいです。
レノックス・ロビンソンの「顔」は、崖下の水面に現れる美しい顔に心奪われた男の物語、昔話的な切なさと怖さを併せ持つ儚く美しいお話で、これも好きです。
ロード・ダンセイニの「谷間の幽霊」は、編者が怖くないと言い切っているとおりのお話ですが、「かつてはいたのだ」という幽霊のかすかなため息、ダンセイニ節がうれしいではないですか。
他には、エドガー・アラン・ポーの作品の翻案「こまっちゃった」、耐え難い夏の夏さのなかで読むべき表題作、W.H.ハ−ヴィーの「八月の暑さの中で」、リチャード・ミドルトンのなんとも不思議な話「ブライトンへいく途中で」、幽霊よりも怖いものを見ちゃった話、E.M.デラフィールドの「もどってきたソフィー・メイソン」、そのデパートにはないはずの13階で買い物をした男の話、フランク・グルーバーの「13階」、お約束的なゾッとするオチのついたというか、タイトルそのまんまなジェイムズ・レイヴァーの「だれかが呼んだ」、そして私としては「ポドロ島」の次に怖かったローズマリー・ティンパリの「ハリー」。切ない話としても読めるのでしょうが、奪われる側の視点で書かれているので、私はただひたすら怖かったです。
時節にあったこのような気の利いた新刊が出るあたり、岩波少年文庫素晴らしいです。
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しめった土と かわいた土の
中のあいさに あるそうな
仙女が原の宝もの
リンクのとりでと ますみのツイード
あいさにうもれて 九百年
九人の王の 身のしろ金
最近何がショックって、復刊ドットコムですよ。アンドルー(アンドリュー)・ラングさんへの投票が、『書斎』2票とか、『りこうすぎた王子』5票とかって、何なのー!『書斎』2票って、私とこの作品を登録してくださっていた誰かさんだけではないの!!なんて、思っていたら、私自身投票していなかったんです。ショック。おかげでめでたく3票になりました。
ラングさんの創作童話、私自身は「りこうすぎた王子」しか知らなかったのですが、他に2作邦訳があることを最近知りました。悲しいことにどちらも絶版でございますが。
その一つがこの作品です。
「りこうすぎた王子」や「いないいない姫」のような、昔話の要素をふんだんに盛り込んだユーモラスな作品とは異なる雰囲気で、歴史とファンタジーが融合した、物静かでどこか寂しげな物語が、美しい言葉で綴られています。
アシステキールの森かげの、長いものうい日々−−−あまりに美しい日々は、ついには人に迷信じみた幻想をあたえるものだ。人は、あやかしの国にただひとり置き去りにされたかのように思い、また二匹の白い鹿が矢のように走り過ぎながら、かつて詩人のトマスにしたように、妖精の国にかえれ……との宣告を告げて行くのを見るかとばかり思うのだ。
ラングにとって思い出深いスコットランドのフェアニリーという地を舞台にした、スコットランドとイングランド間で戦の絶えなかった15,6世紀頃のお話です。フェアニリーの領主の息子ランドルと、赤ん坊の頃イングランドから攫われて来て以来、ランドルの館で妹同然に育てられてきたジーンが主人公。迷信深くお話上手なばあやから聞かされた妖精たちの話に心惹かれたランドル少年は、山向こうの丘の上にある”ねがいの泉”へジーンと一緒に行って、妖精の女王を見たいという願いをかなえてもらうことにしました。幼いジーンは途中で疲れきって動けなくなり、たった一人で泉に向かったランドルは、それっきり姿を消してしまいます。人々はほうぼう探し回りましたが、一向に手がかりは掴めず、迷信深い人々は妖精の国に連れ去られたものと信じていました。それから7年の月日が過ぎようという頃、悪天候のため不作が続き、領民たちは飢えに苦しめられます。美しく成長したジーンは、ランドルに会うこと、さらに彼を取り戻すこと、そして、飢饉に苦しむ人々を救うことを願うために、再び願いの泉に向かいます。
ジーンのおかげでこの世界にもどることができたランドルは、妖精の国の意外な真実の姿を語ります。美しく楽しげに見えていた妖精の国の隠された姿を知ることが出来たのは、ランドルが妖精の国で見つけた隠されたものが見える魔法の水のおかげでした。持ち帰られたその水は、さらに領民たちを救う手立てへとつながってゆきます。
失われた遠い過去、美しい土地に刻まれた歴史と伝説を静かに語り伝えるような物語。遠い遠いところからやさしく語りかけられる不思議な話に耳を傾けるような、幸福な時間を存分に楽しむことが出来ました。
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「どんな願いでもみんなかなうのなら、わざわざお願いしてもしかたないんじゃありません?」
「おくりものをもってきてくださるとき、あなたはわたしの願いごとを盗んでいらっしゃるのよ。おわかりにならないの?」
非常に神秘的な雰囲気の不思議なお話でした。
アルベルトというガラス職人には、美しい妻ソフィアと幼い子供達、クララとクラースがいます。非常に腕のいい職人ですが、商売はあまり得意ではなく、4人はいつも貧しい暮らしをしていました。また、非常に仕事熱心であったため、妻のソフィアは寂しさを感じることがよくありました。その寂しさを夫に告げると、夫からは、「子供がいるじゃないか」と言われたため、思わず、「子どもなんか、じゃまなだけ」と、口走ってしまいます。まるで、その言葉を真に受けたかのように、この二人の子どもは、ある日、市場で姿を消してしまいます。
子ども達を連れ去ったのは、そこを渡ってしまうと、向こう岸での出来事をすべて忘れてしまうといわれる忘れ川の中州の町に暮らす領主に仕える御者でした。
この領主は、人の願い事をかなえることが大好きで、なにより「ありがとう」と言われることを喜びとしているのですが、妻である領主夫人は、決して願い事を口にせず、いつも不幸そうにしています。領主は、この妻を喜ばせるために、また、貧しいガラス職人の生活を楽にさせ、子ども達も裕福な暮らしの中で幸せにしてやるために、御者に命じて、市場から子ども達をさらってこさせたのでした。
しかし、アルベルトとソフィーはもちろん、子ども達も、領主夫人も、誰一人幸せを感じるものはありませんん。さまざまな物はすぐに手に入るものの、大切なものが欠けている館の暮らしの中で、子ども達は、領主夫人のような陰鬱で物悲しい雰囲気を身に帯びてゆきます。子ども達の悲惨な状況は、領主が子守り女を雇ったことで、さらに悪化してゆきます。
そんな状況を打開すべく現れたのは、アルベルトたちの住む村のはずれ、かつては処刑場だったといわれる不気味な場所に大ガラスとともに暮らしている不思議な女性、フラクサです。フラクサは魔法つかいなのですが、この物語では、魔法はほんの少ししか登場しません。領主や領主夫人が、それぞれに大切なことに気づくことが、魔法以上に大きな力を持つのです。
北欧の神話や伝承のさまざまな要素が取り入れられた、神秘的な雰囲気のなかで展開する、人間にとって大切なことをめぐる物語。中盤の重苦しい展開が長いこともあって、あまり子ども受けはしないような気もしますが、この雰囲気と、胸に深く響く台詞の数々は、非常に魅力的です。挿画として付せられている作者の夫による版画も、素敵。
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イギリスの昔話「トム・ティット・トット」という素材を、ファージョンが見事に調理した一冊です。
「トム・ティット・トット」を大筋に用いつつも、タイトルが『銀のシギ』となっているように、“銀のシギ”に姿を変えた月の女と地上に落ちた月の男の物語が絡められ、この月の男女に重要な役割が与えられています。
この物語では、嘘がもとで、王様の后に選ばれる、怠け者で大食いで美しい粉屋の娘には、4人の兄弟と一人の妹が加えられているのですが、この12歳の妹、ポルこそが、この物語の主人公です。
ポルは、色々なことを知りたがる好奇心旺盛で聡明な少女です。彼女の活躍によって、姉は窮地を救われ、月の男女は、月への帰還を果たすのです。
昔話では、幸運な偶然によって子鬼の名前が判明し、娘は窮地を逃れますが、この物語でことを解決するのは、幸運な偶然などではなく、ポルが行動した結果です。ポルの聡明さと勇気、それがとても大きな要素になっています。読者として想定されているに違いない子供達と同年代の少女が、恐ろしい目にあいながらも勇敢に活躍する、非常に面白い物語になっているのです。「トム・ティット・トット」を知っていようが、いまいが、ハラハラさせられてしまうことでしょう。
面白さという点では、個性豊かな登場人物たちの存在も、大きいです。恐ろしく二重人格で、まるで子供のような王様と、その王様を全く子供のように扱う乳母のやり取りなど、非常に面白いです。また、これら奇矯な登場人物たちのおかげで、昔話の突拍子も無い展開が、非常に活かされているように思われます。
笑いと緊張感が巧みに配分されながら、展開する物語は、静かで美しい余韻を残して幕を閉じます。ポルが真夜中のフェアリーからもらった小箱の中の“魔法”、それを読者が信じつづける限り、この物語は決して終わらないのだと思います。
不承不承の足で立つ
小川と川の出会う場所で
女と子供のはざまの時に
Standing, with reluctant feet,
Where the brook and river meet,
Womanhood and childhood fleet!
Maidenhood
by Henry Wadsworth Longfellow
興奮に満ちた輝かしく楽しい日々でもあり、辛く切なく、恐ろしい日々でもあった、13歳の少女の一夏の奇妙な体験が綴られた小説です。「あんなこと、ふつうは一生起こらないわよ」という台詞通り、ごく普通の少女が驚くべき事件にまきこまれてしまう物語ですが、著者であるルーマー・ゴッデン自身の少女時代の実体験がもとになっているそうです。
語り手であるセシルは13歳のイギリスの少女です。
植物学者の父親は、海外へ調査旅行にでかけてばかりで、めったに家にいることがありません。母親は天真爛漫で心が広く、子供のようなところのある女性。セシルには、16歳の姉ジョス、10歳の妹ヘスター、7歳の弟ウィル、4歳の妹ヴィッキーという4人のきょうだいがいます。この家族の経済的なことは、母親の兄である弁護士のウィリアム伯父さんが面倒をみており、サウスストーンに家をあてがっていました。
こどもたち、なかでも特に長女のジョスとセシルは、父親が不在なことや、周囲の家庭に比べて格段と貧しい暮らしをしていることなどもあって、常に不満を感じており、時にその不満を母親にぶつけてしまうことがありました。その夏休みは、特にひどく母親に突っかかったため、母親は二人の自分勝手な言い分に腹を立て、家族でフランスの戦場跡を見に行くことに決めました。
「あなたたちが、どれだけひとの恩恵を受けているか、分かるようにです。他人のために命をなげうつ人間がいるということも。そうすれば、あなたたちも恥ずかしくなって、少しは考えるでしょう。」ところが、いざ出発したところ、母親は足をアブに刺されたことがもとで具合が悪くなってしまいます。なんとか滞在予定のヴィユ・ムーティエの<レ・ゾイエ>というホテルまでたどり着いたものの、ホテルの支配人と思しき女性、マダム・コルベに、病人は泊めかねると、すげなく追い出されそうになりました。
「あなたたちは学ぶ必要があるわ。私では教えられないことを」
そこへ、このホテルの持ち主であるマドモアゼル・ジジと、その恋人であるらしい男性エリオットが現れ、エリオットは事態を見るや、この家族のために部屋を用意させ、母親に医者を手配しました。
病院に入院することになった母親の依頼を受けて、このイギリス人男性エリオットは、子供達の保護者役を引き受けます。魅力的で親切なエリオットに子供達は、たちまち惹かれましたが、エリオットには優しく魅力的な顔だけでなく、冷酷で疲れたような顔があること、さらに彼の行動には不可解な点がいくつかあることに程なく気付かされます。
ホテルでの扱いはいいものとは言い難いものの、こどもたちはそれぞれに、ここでの気ままな暮らしを楽しみ始めました。しかし、体調を崩してしばらく寝込んでいた長女のジョスが、元気になって、その美しい姿を表したことから、思わぬ波紋が広がってゆきます。
そんな中、悲劇的な事件が起こり、こどもたちはエリオットの秘密を知ることになります。
この旅行、母親が、当初考えていたようなものでは全くなかったものの、こどもたち、特にジョスとセシルは、さまざまなことを学びました。物語の中で二人は、幼い身勝手さを脱して、苦しみながら成長してゆくのです。
「女と子供のはざまの時に」「不承不承の足で立つ」、困難な少女時代にいるこの二人の少女の様子は、書中とても印象的でした。
大人として扱われることを望んではいたものの、大人の“女性”として見られることで、望ましくないことも身に引き受けねばならない羽目におちいるジョスや、ジョスの美しさに羨望と嫉妬を覚え、自分を卑下して苦しんだり、体が大人になってゆくことに戸惑うセシル。
大人の世界への背伸びと、現実的な無力さ幼さ、「小川と川の出会う場所」に立つ苦しく切ない痛み。
「私、大きくなんかない。小さいわ、小さすぎるの」
ミステリアスな筋立てに、少女時代の切なさが見事に織り込まれたこの物語、爽やかな甘酸っぱさのなかに苦味もたっぷり含まれた、この「すもも」を、是非味わってみていただきたいです。