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「不思議なくらい生きるのが楽しい!!!!」
うわー、これ、非腐女子の方はどのような感想をもたれるのか非常に気になります。
筋金入りと呼んで問題なさそうな、商業BL本だけでなく薄い本(同人誌)も読む、推しキャラのグッズも買い、同人誌即売会にも足を運ぶ、漫画とアニメを愛するお絵描き大好きな腐女子、つづ井さんの非常に幸せそうな日常が描かれた漫画です。その突き抜けた楽しみぶりに、ソフトな腐女子でしかない私は瞠目させられることしきりでした。さらにそのうえで、非常に可笑しかったです。驚きも呆れも通り超えて、ただもう可笑しくてしかたない。
とはいえ、共感ポイントも多いです。萌えが人に生きる希望と“壮大な”感謝の念を抱かせるというのは、非常に非常によくわかります。私もここ数ヶ月の間に、『鉄血』観ながら、何度宇宙に感謝したことか。ホントもう、ありがとうございます!!!!
あまりに急激に萌え高ぶってしまったときには、一旦現実にむきあって落ち着かないとどうにかなりそうというのも、非常によくわかります。他人の二次創作にしろ、自分の妄想にしろ、深く自分の中で腑に落ちてしまった場合、ええ、ええ、それが自分の中で公式になりますね。
あと、複雑すぎる人間関係とか、登場人物を全員男性にすると、驚くほどすんなり頭にはいることとかも。
まぁでも、さすがに、好きなキャラについて語りつつほんとに泣いてしまったりとか、マネージャーになりきってフェルトで手作りお守りを作るとかはない……、手作りお守り作っている間だけは「彼らと同じ次元に生きるマネージャー」でいられるって知って、よし、フェルト買いに行こうとは思いましたが。
つづ井さんが「生きるのが楽しい!!!!」っていうのは、そんな風に自分で自分を楽しませることに非常に長けていることが大きいのでしょう。自分の妄想に没入できる能力というのか。あとは、良き腐女子友だちにめぐまれていることも。まぁでも、萌える対象があるというだけで、日々幸福を感じる瞬間が多いのかも。
↓こちらで連載中だそうで、何作か読むことができます。
http://www.comic-essay.com/
読書好きにも読書せぬ人にも面白い読書漫画です。
読書あるあるに満ちているのですが、読書家に憧れて頑張って背伸びしている者の心を抉るような内容ではなく、あははと笑って、本が好きなら何でもいいじゃないかと思わせていただける、帯に「もっと読書に自由を!」と書かれているとおり、自由で楽しい読書の世界へ導いてくださるものです。
主人公は読書家キャラに憧れる女子高生、町田さわ子。バーナード・ショーにあやかって(?)バーナード嬢と自称しています(だが誰も呼んでいない)。読書家には憧れるが、本を読むのはメンドくさいと言う読書漫画にあるまじき人物なのですが、彼女の数々の書に対する猛烈な挫折ぶりと、姑息を突き抜けた非常に堂々とした読書家っぽさの追求のなかには、多くの人に心当たりのある部分を巧みについているところもあって、まっとうな読書家の共感をも得ているのではないかと思います。
プルーストの『失われたときを求めて』についてとか、「読めるか―――!!」「長い!ひたすら長い!まず一文が長い!気が遠くなる!!序盤のマドレーヌ食ったところでお腹いっぱいだよ!!」
町田さわ子が足しげく通う(もちろん読書家ぶるため)図書室には、他にも個性豊かなキャラクターが登場します。町田さわ子のことが気になっている男子、遠藤は、一昔前に流行った本を古書店で見つけて読むことが趣味で、その一昔感には微妙なこだわりがあります。その遠藤のことが好きな図書委員の長谷川スミカは、シャーロキアン。そして町田さわ子の本に対する姿勢に激怒し、殴りかかったことから親しくなった、SF好きな読書家、神林しおり。長谷川と神林によって、シャーロキアンとSFマニアの、そうでない人から見たら非常にメンドくさい部分が非常に面白く戯画化されています。
この4人のキャラの中での一押しは、なんといっても神林です。ツンキャラな神林が大好きなSFについて語りだしたら止まらずデレまくるところは非常に可愛らしいです。この2巻では、おそらくあまり友達のいないであろう神林が、なんだかんだと言いつつも、町田さわ子との交流を楽しみ、不器用に好意をいだいている様子が描かれていてたまりませんでした。私自身ほとんどSF読まないのですが、神林のすすめるSFはどれも読みたくなります。
書中著者による短文が挿入されているのですが、デビュー前の若かりしころ、宮沢賢治の詩集を「告別」の部分に付箋を貼って鞄に入れていたというエピソードに胸打たれました。
みんなが町で暮らしたり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
読書ネタに笑うもよし、登場する本を手にするもよし、町田さわ子にならって読書家ぶってみるもよし、女子高生の入浴シーンにドキドキするもよしな、幅広く楽しめるこの漫画、とってもお勧めです。
と、半信半疑というか、恐る恐る開いてみました、水木しげるの『泉鏡花伝』。鏡花の生涯と、その作品『黒猫』と『高野聖』が漫画化されています。が、これが素晴らしいっ!、良いっ!、良かった、たまらんっ!!登場人物がやたら鼻息をフゴーッとさせているんですが、私も負けじと鼻息をフッハフッハさせながら読みました。私の中では、泉鏡花は相当にアイドル化されてしまっているのですが、ここには何度もプープー放屁するような、非常に人間的な姿の鏡花が登場します。でも全然嫌じゃないです。むしろ、実際に生きて書いていらしたということを、強く感じさせていただけてありがたかったです。
高等中学校の受験に失敗して、ぶらぶらするより他ない生活のなかで尾崎紅葉の作品に出会って小説家を志し、17歳で金沢から上京するも、やはり東京でもふらふらし、ようやく18歳のときに尾崎紅葉を訪ね弟子にしてもらいます。この時の尾崎紅葉がすごくいいです。まだ24歳であったというのが驚き。父親が亡くなった際、経済的なこともあって、苦しんでいる鏡花をしっかり支える師匠ぶりも素晴らしいです。鏡花が尊敬し心酔していたのも頷けます。若くして文壇の重鎮となるも、37歳という若さで亡くなってしまった紅葉のことを、もっと知りたくなってしまいました。
この鏡花伝の中には、雷嫌いや潔癖症など泉鏡花の私的萌えエピソードももちろんふんだんに盛り込まれています。ポストの周りをぐるんぐるん回っていらっしゃいましたし、徳田秋声もちゃんとぶん殴っていました!のちに妻となるすずとの出会い、若くして亡くなった母と同じ名前であることや、その時のすずが母が嫁いだのと同じ年齢であったことなどから運命を感じたという、ドン引きエピソードも。谷崎潤一郎もちらりと登場しますが、一緒にお鍋を囲んでいないのが残念。
鏡花作品が漫画化されたもの、『黒猫』は、驚くほど都合のいい展開がスピーディーに繰り広げられていくことにちょっとついて行きがたいものがありますが、按摩の富の市のいやらしさや黒猫の存在の不気味さが水木漫画に見事にはまっていて面白いです。
『高野聖』は、見事としか言いようがないです。まさか『高野聖』で爆笑できるとは思いもよりませんでした。私にとっての鏡花作品は、怪しいモノを美しい幻想のベール越しに見せるような印象なのですが、この水木漫画は、幻想のベールをかきわけて、その隙間から直に怪しいモノを見せるような印象です。なので、怪しさも恐怖もエロスも、生々しく力強いものです。完全に素晴らしい水木漫画としての『高野聖』になっています。何度も「それで!?、それからっ!?」と、鼻息荒く合いの手を入れる聞き手の青年同様引き込まれてしまいました。
巻末に添えられたエッセイの中で角田光代さんは、水木しげると泉鏡花にいくつか共通点があることを指摘していらっしゃいます。ともに異界に惹かれ、あの世を感じ、どちらも若くして自分の生き方を定め、独自のスタイルを作り出しそれを守り抜いている……。この作品において水木スタイルと鏡花ワールドが見事に調和している理由は、そこにあるのでしょうか。
<ブログ内関連記事>
鏡花短編集(岩波文庫)
春昼・春昼後刻(『泉鏡花集成(5)』)
夜叉ヶ池・天守物語(岩波文庫)
百物語怪談会(ちくま文庫)←ポストと鏡花
十和田操の「押入の中の鏡花先生」(『名短編さらにあり』ちくま文庫)←雷と鏡花
谷崎潤一郎随筆←お鍋と鏡花
宝塚に父方の親戚が住んでいたからか、子どものころ一度だけ歌劇に連れていってもらったことがあります。劇については全然何も覚えちゃいないですが、帰りがけに買ってもらったキキララのご飯茶碗を翌日母親が割ってしまったことだけは、今だによくよく覚えています。子供怖ぇーっ。
学生の頃、第何次かわかりませんがベルばらブームで、宝塚観劇が流行っていたように思うのですが、それに乗ることもなく、結局子どものころに一度観たきりのまま過ごしてしまいました。今も特に興味はないのですが、この方の漫画を読むと、なんだか妙に気になってしまいます。全力で好きになる、恋愛初期のような高揚感溢れる内容に、うらやましさのような、ほのかな憧れを抱いてしまうのです。
さて、そんな宝塚専門漫画家だと思っていた「はるな檸檬」さんが、なんと読書に関する漫画を描かれていたとは!しかもyom yomで連載されていたとの事。はまる対象が宝塚でなく読書になっただけで、そのどはまりっぷりの描写の面白さについては同じに違いないと期待して読んだのですが、期待以上でした。
著者が本の虫だった子供時代に読んだ一番の問題の書だという、高楼方子さんの『ココの詩』について描かれた回などたまりません。というか、この作品が非常に気になってます。
小学生の頃から高校生までの読書遍歴が描かれていますが、高校生になった著者が出あった友人“はるなちゃん”(著者と同名、妄想上のオトモダチではないですよ)がとてもいいです。集団行動が苦手、というか他者に迎合しない一見地味なんだけれどかっこいい女の子。その子と読む山田詠美や村上龍。
大人になったはるなちゃんからのメールには「あの頃読まずには生きていかれなかった」と書かれていますが、これ言ってみたい!ほとんど読書せずに10代を過ごしてしまった私的には憧れの台詞です。
「あの頃の私たちは
若くて幼くて
非力でものを知らず
まだ甘えたくて
でも子ども扱いをされるのは嫌で
理想と現実のギャップに苦しみ
現実を見つめる勇気を持たず
世界を恐がり
しかし傲慢で
誰かに圧倒的に肯定してもらいたいのに
自分で自分を認めることが出来ず
いつも苦しくて
自分の居場所が見つけられなくて
そうした中で、すがるように読んだ本たちによって
束の間現実を忘れさせてもらったり
ただ、紙に印刷してあるそれだけのものに
人生を救われるような瞬間が何度もあったのだと
大げさでなくそう思うのです
たとえばそれが直接的には生きるヒントにはならないかもしれない
娯楽性の高い作品だったとしても
読んでちょっと笑えたり、面白い発想に驚いたり、
知らない世界をのぞき見たりすることで
この世は生きるに値する
と感じられることがきっと本当に大きなことだったのだと
あの頃の自分を振り返ってみて思います」
ほとんど読書せずに過ごしてきた身であったにもかかわらず、妙に共感できるのはなぜかと思ったら……それ漫画だったわ!ワタシの場合。
いつもの定食屋でカツカレーを食べているとき
ふいに
人生の意味って何だろうって問わなくてもいいんじゃねぇか?
と、オレは思ったのだった
どういう人生に仕上げていくのか
人生のほうから事あるごとに「どうする?」って、
オレに聞いてきてる気がするってゆーか
それにコツコツ答え続けていけば
オレの人生になる
なんてことを思ったり
益田ミリさん、イラストはよくお見かけしているように思うのですが、コミックを読ませていただくのは初めてでした。
『宇宙兄弟』関係のサイトでかなり読めるようですが、書店で手にしてガッツリ心掴まれたので、購入してしまいました。買ってよかったです。
32歳のさえているとは言いがたい、やや地味系の、でもいい人な土田という書店員の男性の日常、ふと心にきざすさまざまな思いが書かれています。ゆるゆるとした日常の話と油断していたら、死を挿入しながら、生きるということを真摯に見つめる内容でした。波乱万丈な出来事がなくとも、何か偉業をなさずとも、日常に向き合う姿勢ひとつで、人は"宇宙”に一歩近づくんじゃないかと思わされます。
書店員さんというのがまずもってツボです。当然のことながら、本の話が絡んでくるのがまたいいです。作中、他の益田作品の登場人物である“すーちゃん”が登場しているのですが、彼女を主人公にした作品も読んでみたいと思います。
気が付けば、一ヶ月以上何も記していない日々が続いておりましたが、決して何も読んでいなかったわけではなく、坂口安吾の歴史モノにちょっとはまってみたり、ぼちらぼちらと色々読んではおりました。というはずだったのですが、実際には、坂口安吾も何も吹っ飛んで、とある作品にガッツリしっかり心を奪われてきってしまっておりました。
その作品とは、『プレイボール』。
言わずと知れた、ちばあきお氏の名作野球漫画です。
言わずと知れたと書きましたが、私は全く知りませんでした。墨谷ニ中の野球部の活躍を描いた『キャプテン』は、幼き頃、アニメを観ていたので知っていましたが、その『キャプテン』の初期に登場し、とにもかくにも猛練習、どんな苦境でも決して諦めない墨ニ野球部魂を築き上げた男、谷口のその後が描かれた作品なのでした。
『キャプテン』を知っている者としては、”谷口”のその後、などと言われると、手が出てしまうにきまっています。
面白い。もうむちゃくちゃ面白いです。話がうますぎるところも多々ありますが、『キャプテン』に比べると、展開がのんびりしていて(弱小チームが現実離れした猛練習の末に全国大会優勝みたいな飛躍がないんです)、じわじわとチームが力をつけてゆく様や、野球以外のこともじっくり描かれているのがいいです。その分、何度も袖を絞らされる『キャプテン』に比べ、山場が少ないようにも感じられますが、クライマックスの緊迫感はあいかわらず。決してあきらめない、どんなに強い相手であっても、がむしゃらに粘り強く食らいついてゆく谷口イズムに、チームのメンバーはもちろんのこと、読者だってグイグイ引っ張られていっちゃうんです。全く野球漫画なんて興味が無いという方であっても、文庫版で、8〜9巻の専修館戦だけでも読んでみていただきたいです。でもやっぱり1巻からの流れがあった上でのあの試合なので、1巻から読んでいただきたいです。1巻読んでしまったら、残る10冊すべて読む羽目になることは間違いなしです。
文庫版で11巻なので、フツーに読むだけでも結構時間がかかりますが、私の場合、いろいろ行間も読まねばならないうえ、さらに倉橋の9歳下の妹として、お兄ちゃんのお弁当にいれるために七輪でさんまを焼いたりもしなきゃいけないので、時間がかかって仕方がありません。倉橋って、家ではお父さん的ポジションにいそうな気がしますね。ちょっと口うるさいお兄ちゃん。家にお父さんがいなさそうなんだけど、母子家庭という感じでもないなぁ。ちょっと坊ちゃん臭がします。自転車とか、谷口がのっているものより高価そうだし。電話代とか頓着してなさそうだし。お父さんは、なかなか家に帰れない職業なのかも。あれだ、あれ、翼君のお父さんと同じで、船長さんとか。「名参謀!倉橋の巻」でリーダーシップのとれない谷口に対し、舵の取れない船長のたとえを語っていましたが、あれは、中学生時代の倉橋が、キャプテンになりたての頃、船長をしている父親に言われた言葉だったりするわけですよ。とか、そんなことを考えながらも、お兄ちゃんに肩車してもらって、かもいに頭をぶつけたりしないといけないので、忙しいことこの上ないのです。
そうそう、その倉橋ですが、中学生時代、地区随一の名捕手と言われるほどの存在であったにもかかわらず、練習そっちのけで焚き火で焼き芋作っているような野球部しかない墨谷高校に入学したのって、非常に不思議です。川北高校との練習試合について谷口と電話で話をしている時、野球が原因で、家庭の雰囲気が悪くなることについて、「おれにもよくあることさ」と発言していますが、たぶん進路を決める次期にいろいろ家族内でもめることがあったんじゃないかと思います。そんなイザコザを通して、反抗期ということもあって、ガーッといろいろ醒めてしまうなかで、持ち前の投げやりさを発揮してしまった結果なんじゃないでしょうかね。そのおかげで、墨高名バッテリーが誕生するのですから、よかった、倉橋に反抗期があってよかったです、ほんとに。
この作品、アニメ化もされていたのですね。それすら知りませんでしたが、2部の一話のみ無料で視聴できたので、観てみました。妙に細面で神経質そうな中山とか、著しく憎まれキャラな倉橋とか、いろいろビックリです。ビックリついでに、どこをどうみても今後倉橋×中山な展開になるであろうようにしか見えませんでした。倉橋の誤解が解けてゆく過程で、中山もキュンとなったりするのでしょう。99.9のツンにたいし、0.1のデレしかない倉橋に対し、キーキー文句をいったり、負けじとツンケンしたり、オロオロしたり、メソメソしたりの中山が、そんな自分に自己嫌悪して、グルグルするわけです。そんなところに希少な倉橋のデレがあったりしたら、もうズバァァァンッと、中山の心にミットにストライク。
原作の方は、あまり腐的な萌えは感じません。恐るべきイケメン率の低さに原因があるわけではなく、皆から愛される主人公、谷口が、私の中では完全に聖域になっちゃっているからです。丸井同様、「谷口さんが 恋なんてガラかってんだ!!」です。かろうじて、かろうじて、この作品に萌えを見いだすとすれば、井口×丸井しかないですね。ランニングで一人遅れた井口のところへ、丸井が駆け戻ってきた時の井口のうれしそうな顔って何!その後、つっこんできたバイクに驚いて、「あひ」と井口に飛びつく丸井の可愛さって何!そりゃ、井口もライダーに対しキレるわけです。井口のやることなすこと、丸井の注意をひきたいだけとしか思えません。中学時代と人格が変わったとしか思えない、井口・近藤化の原因は、丸井です、きっと。
ここまでプレイボールについてつらつら書きながら、ほとんど野球に触れていないっていうことに、我ながら驚きましたが、この作品、名作と呼ばれるにふさわしい、素晴らしい野球漫画であることを、一応最後にも付け加えておきます。
夕凪の街桜の国
- こうの 史代
- 双葉社
- 840円
livedoor BOOKS
書評/歴史・時代(F)
あの惨劇を惹き起こした原爆は二十数万の生命を奪ったばかりではなくて、さらに生き残った幾十万の人間の魂をどんなに傷つけたことだろう。原爆は眼に見える不幸とともに、とうてい測り知ることのできないほど大きい、眼に見えない不幸を生んだのだ。
『原爆の子』 長田新編 岩波文庫
まず「はだしのゲン」が観られません。
かつて図書館で無料上映されていたアニメを見る機会があったのですが、上映途中で耐え切れず会場を出てしまいました。
「火垂るの墓」ももちろん無理です。サクマドロップすら目にしかねます。
祖父がかつて酒席で語った戦争の話は、叔母の手伝いにかこつけて聞かずに逃げました。
小学校の修学旅行が、私が卒業するまで広島ではなかったこともラッキーだと思っていました。
戦争に関する悲惨な話が苦手なのですが、ベトナム戦争を題材とした映画なら何作か観ていますし、悲惨であるにもかかわらずアウシュヴィッツに関わる書籍なら何冊か読んでいます。
私が苦手なのは、日本の戦争に関わる作品なのです。
なぜか?
たぶん、軽々しく引き受けられるものではないけれど、関係ないと思い切ることもできない出来事に、一体どのように接すればいいのか途方にくれてしまうからではないかと思います。辛い、悲しいと感じながら、それだけでは済まない何かをも感じさせられることが苦痛なのだと思います。私自身の現状が非常にヌクヌクとしたものだと感じさせられる居心地の悪さだとか、そのヌクヌクした状況が、過去の悲惨さの上に成り立っているような後ろめたさだとか。しかもそれ、実際に感じているのか、感じねばと思い込んでいるのかもよくわからず、さらに混乱してしまうのです。
さて、この作品が、出版当初大きな話題となり、良作、名作、傑作として多くの人から評されているのを目にしながらも、今日まで決して手にすることがなかったのは、この作品が、戦争を、ヒロシマを、原爆を題材とした作品だったからです。
避けに避け続けてきたものであるだけに、この本を入手してからもページを開くまでにかなりの日数を要しました。
ところが、思い切って読んでしまった読後感は、驚くぐらい爽やかなものでした。勿論悲惨な話です。原爆の後遺症によって人々が亡くなる話です。被害者に対する差別に関わる物語です。一体どこが爽やかなのか、いやたぶん爽やかという表現はちょっと違うのでしょうが、何の構えもない悲しみや感動を素直に感じることが出来たのです。
それはたぶん、あまりに生々しい悲惨さは扱われておらず、悲しみが織り込まれているものの朗らかなシーンが多いということもありますが、過去の悲惨さに対し”一体どのように接すればいいのか”という悩みを、この作品自体が引き受けてくれていたからではないかと思います。被爆者である皆実を主人公とした「夕凪の街」、被爆2世の七波を主人公とする「桜の国(一)(ニ)」、二人がそれぞれ原爆投下から10年後、60年後の世界で、受け止めかね、忘れてしまおうとしていた過去と向き合う様が描かれているのです。
「うちはこの世におってもええんじゃと教えて下さい」「夕凪の街」における生き残ったこと、幸福であることに罪悪感を感じている皆実に対する答えの温かさ。
そして確かにこのふたりを選んで生まれてこようと決めたのだ「桜の国」において七波の感じる肯定感。
それらのおかげで、この作品中に描かれた死を、戸惑うことなくただただ静かに悼むことができたように思うのです。
そして、この作品のおかげで、さらに日本の戦争や原爆に関する他の作品に、余計な構えを捨てて触れてみたいような気持ちになることができました。そのことをとても感謝しています。
でも「はだしのゲン」と「火垂るの墓」は無理かも・・・・
神童
- さそうあきら
- 双葉社
- 600円
livedoor BOOKS
書評/
とにかくどうにも音楽に縁遠いです。ピアノなんて習っていませんでしたし、小中学校で使用していたリコーダーの演奏すらあやしいものです。そもそも4拍子がとれません。もちろん音痴です。しかもジャイアン並。それも「おっれはジャイア〜ン」の方ではなく、むしろ「ボエ〜」の方。限りなく音楽の才能がないように思われます。これがもし正反対であったならば、幼くして神童と仰がれていたことでしょう。
この漫画には、小学校5年生にして、世界中の人々を魅了するピアニストとなる、「成瀬うた」という少女が登場します。音楽的才能に恵まれ、自分自身を「音楽」だと自称できるほどのまさに「神童」。そんな彼女一人を主人公とした物語であったならば、天才の栄光と挫折と復活という感じの、感動できるけど、ちょっと見上げなきゃならないような遠い物語になってしまったように思います。しかし、この物語は、彼女と出会い、影響を与えあう青年、菊名和音を通したものであり、もう一人の主人公である彼は、もちろん音楽の才能はあるものの、音大浪人中であったり、合格後も進む道に迷ったりと、どちらかというと親近感の持てる人物として描かれているため、私のような読者をも上手く物語に繋いでくれました。和音の存在は、読者だけでなく、物語の中でも、うたとさまざまな人を繋ぐ役割を果たしていました。終盤うたは、非常に厳しい試練に出会うのですが、それを乗り越えられたのは、うた自身の強さだけではなく、そんなさまざまな人との繋がりがあったからこそでした。そのように孤高の天才の物語ではないという点も、この漫画を心地よいものにしています。
実を言うとこの漫画、最初の頃はとことん絵が受け入れがたかったのですが、それは著者であるさそうあきら氏の絵が下手なのではなく、むしろ非常にしっかりとしたものであるための叙情性のなさのせいでした。音楽という叙情的なものを題材にしながら、この叙情性のなさ、第一話での、うたが演奏する場面における引き上げた投網の中かと見紛うような魚がのたうつ背景など、素人的にもありえないとしか思えない表現の数々に、呆然とすることもしばしばでしたが、上述のようにこの物語は、人と人との繋がり、そこでのドラマが描かれたものであり、音楽については、その叙情的な側面だけではなく、人と人とはもとより、崇高なものと人を繋ぐ原始的な力が描かれていたため、徐々に物語と絵が調和し始め、読み終える頃には、何ら不満など残ってはいませんでした。
音楽の力、その素晴らしさがしっかり描かれ、音楽に縁遠い私をして、音楽を求めさせる素晴らしい漫画でした。ああ、何か演奏してみたい、それがムリなら、せめて歌でも・・・・というわけで、『乙女の愛の歌』聴いてください。
ホゲェエ〜 ホゲェ〜 ホゲ〜
この記事、”即効!音痴矯正術”だの”たった一日で音痴が治る”とかいったトラックバックがつきそう・・・・
「アトモスフィア」
西島 大介
西島大介氏の書き下ろしマンガ、先月1巻が出版され、このたび完結編の2巻が出版されました。もう少しコンパクトに収まったであろう話ですが、ひっぱって、ひっぱって、ひっぱることで、最後の「ふざけんな」が効いてくるので、2巻になってしまうのは致し方ないのかな・・・。でも一巻の充実度に比べると、2巻は半分の量でいいくらい、ちょっと希薄な感じです。って書いて、ハッと気付いたのは、この2巻は1巻の分身にあてられているようだということ。ネガポジ反転した表紙、同じページ数、献辞にはちゃんと分身マークの・がついているではないですか。
ある日突然、”私”の分身があらわれ、私の居場所を奪ってしまいます。さらに私の存在まで消そうとする分身は、しかし正体不明の集団によって殺されてしまいます。その集団は、分身から本人を「守る会」でした。分身があらわれる現象は、世界各地で起こっており、しかもどんどん増加しているようなのです。流されるままに「守る会」に留まる”私”は、いつしか支部長の座に・・・。
一巻の帯には、「果てしない”赦し”の物語」という言葉がありますが、実際にはこの物語、”赦さないこと”がテーマになっているように思います。
主人公である女性、”私”は、どんなにふざけたことがおころうとも、決して「ふざけんな」とは言いません。
「わたしがわたしのために
あらかじめすべてを
赦してやっているからだ」
「誰よりもふざけているのはわたしだからだ」
主人公が赦せば赦すほど、物語がすすむにつれてどんどん世界はふざけたことになってゆきます。でも、”私”は「「ふざけんな」って言いたくなるようなことが平気で起こる」ふざけた世界を、平気で生きてゆくためには、自分自身も同じくらいふざけなくてはいけない、「「ふざけんな」って怒ったとたんに負けだ」と考え、いつまでも赦し続けます。「ふざけんな」と言いうるためには、自分自身が本気でなければならず、本気で相対するには世界はあまりにふざけているのです。しかし、最後に”私”が「ふざけんな」と発することで、このふざけた世界を否定することで、どこまでも分身を生み出すだけの停滞した世界を脱することができました。赦すことでは進まなかった世界が、赦さないことで回転を始めます。
読者は読者で、作中の”私”と同じところで、「ふざけんな」と発してしまうに違いなく、”赦さないこと”を身をもって体験することになります。
この物語、”赦さないこと”に目を向けさせ、向き合わせるものなのではないでしょうか。
このマンガ、買うまでもないなんてとんでもないです。ちゃんと1、2巻定価で揃えて、しかも先月から2巻が出るのを心待ちにしていたくらいの人こそ、腹の底から「ふざけんなぁぁぁぁ!!!!」と叫べたはずで、それこそが、このマンガの大いなる価値なのだと思います。いや、べつに自分を慰めようとして書いているんじゃないんですよ・・・。
このマンガを赦さないことこそ、このマンガを崇めることになるんです!だから私は絶対に赦しませんっ!!(褒めてるんです)
「虫けら様」
秋山 亜由子
地の虫来たれば
天の虫来たる
虫に良いも悪いもあるかい
ただ来る道が違うだけじゃ
(「稲虫」 『虫けら様』)
虫はダメ、どうしたってダメ。なにがどうダメなのかよくわからないのに、とにかく虫は苦手!そんな私ですが、この方の漫画に登場する虫達には愛おしさを感じました。小さきもの達への愛情が伝わってくる作品集です。
虫達の不思議な生態を題材としたものや、虫と人間との幻想的な邂逅を描いたもの、古典の漫画化などさまざまな作品が収められています。「虫は魂を運ぶ、ということを私は本当に信じていまして」という作者の言葉にあるように、私たちと不思議な世界とを繋ぐものとして”虫”が登場しています。
身の丈をうんと縮こまらせて、虫の視点に近づいてみれば、「ツキヨタケ」の力を借りずとも、今まで見えなかった別の光景が見えてくるのかもしれません。そうやって、虫達を眺めてみれば、生理的嫌悪感以外の感情が芽生えることがあるのかも・・・・ああ、でも近づけない私にはやっぱり無理そう・・・。しかし、この本を読んでいるうちに、蜘蛛について興味が出てきたので、実物にはまだまだ近づけそうにないですが、蜘蛛に関する本など読んでみたくなりました。
森の中にはたくさん秘密がありますで
気まぐれに見せてくれる時もあっけれど
それは内緒のこと
(「へくそだま」 『こんちゅう稼業』)