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JUGEMテーマ:読書
ムショの中での読書会…ちょっと意外で不思議な感じがしましたが、この書ではその意義深さが理解できるとともに、そのもととなっている本の力、読書の素晴らしさや楽しさ、それを改めて感じることができました。今すぐ取り上げられていた本を読んで書中交わされていた言葉に触れなおし、この書の読書会に間接的に参加したくなります。
友人が運営しているカナダの刑務所内での読書会に関わることになった女性ジャーナリストによる、1年間の記録がまとめられたものです。選書を手伝うだけのはずが、良い選書のためには実際に読書会の様子を見るべきだと勧められ、現場へ同行する事に。とはいえ、彼女にとってこれは非常にハードルが高いことでした。普通であっても、犯罪者たちに囲まれる読書会に参加するなんて、かなり勇気のいりそうなことですが、著者は数年前にロンドンで暮らしていた際、強盗事件に巻き込まれて心に深い傷を負い、未だにそれが完全には癒えていない状態であるため、尚更なのです。しかし著者は、判事をしていた亡き父親の言葉、「人の善を信じれば、相手は必ず応えてくれるものだよ」を胸に、なんとか刑務所の門をくぐります。
読書会で使われる部屋に通された著者は驚きます。そこには警備する看守がおらず、監視カメラもなく、ここまで案内してくれた警報機を持った教誨師は別室に姿を消し、読書会の運営スタッフと自分だけが残されるのです。そこへ次々と受刑者たちが現れ、読書会がはじまります。緊張と恐怖で、脳内では護身術の手順をさらうばかりの著者。結局この日は、恐怖ばかりでほとんど何も得られなかったものの、ここから著者の中のジャーナリストとしての好奇心と作家としての下心が芽生え始め、その後何度も読書会へ足を運ぶことに。
著者の緊張がほぐれるにつれ、しっかりと観察が行われるようになり、読書会の様子が詳細に紹介されてゆきます。ノンフィクションや小説、さまざまな書について、毎回色々な意見が交わされています。かなり鋭い見方や、監獄の中に囚われた身であるが故の視点などもあって、非常に面白いです。この読書会を始めた著者の友人キャロルや著者には、こういう風に感じてほしい、こういうところに気づいてほしいという希望があったりもしますが、必ずしもそのとおりになるわけではありません。しかし、自分の見方を提示することはあれども、参加者の意見を否定することはなく、むしろそれを尊重し、そこからキャロルも著者も新しいことに気づかされたりします。もちろんさまざまなき気づきは受刑者たちにもあり、読者である私自身も何度もはっとさせられました。
とはいえ、参加者が少なかったり、課題本を読んでこない者や意見を出さない者がいるなど、読書会そのものに課題がないわけではありません。そのためキャロルは、熱心な参加者を読書会大使に任命し、読み進められていない者を励ましたり、新たな参加者を誘ってくることを依頼するなど、読書会を盛り上げることに腐心します。時には読書会に著者本人を招くことも。
新しいことに積極的に取り組む意欲と人の役にたちたいという使命感をもつキャロルが、刑務所内での読書会を始めたきっかけには、フランスで発達障害者と介護者がともに暮らす共同体を設立した人物から言われた言葉にありました。「精神科病院の入院患者と刑務所の受刑者こそが、もっとも社会から阻害された孤独な存在である」。キャロルの別荘のあるオンタリオ湖のアマースト島から見える町には刑務所があり、そこにいるもっとも社会から阻害された人たちのためになにかできないかと動きだす中で、読書会というアイデアが自然に出てきたそう。それは、「受刑者たちにも本を好きになってもらい、見習うべきヒーローやヒロインを見つけてもらえたら」、さらには「読書によって彼らを中産階級に引き上げたい」という願いがあってのこと。とはいえ、読書によって受刑者を更正させようなんてつもりはありません。ただ受刑者たちが充実した読書の機会を持てるようにすることが目指されています。
読書会に参加している受刑者の一人が、読書について語った印象的な言葉があります。
「本を一冊読むたびに、自分の中の窓が開く感じなんだな」
本を開くことは、自分自身の窓を開くことだということは、すごく共感させられます。読書によって閉塞感のある現実から窓を開くように束の間の開放感が得られることもあるし、開いた窓から今まで知らなかった自分自身が見えることもあるし、読書会で取り上げられていた『もう、服従しない―――イスラムに背いて、私は人生を自分の手に取り戻した』のヒルシが書物を通してより自由で平等な世界の存在を知ったように、どのような状況であれ、より広い、未知の世界の見える窓が開かれることもあります。キャロルが行っているのは、「最も社会から阻害された孤独な」人たちに、そんな窓を開く方法を伝授することであり、それが伝授された人たち自らの手によっても、それが広がっていっていることに胸躍らされました。
「彼らが夢中になっているのは、もはや麻薬ではなく書物なのだ」
もう一つ感動させられるのは、読書会では、刑務所内に存在する人種や民族やギャング団の派閥の壁がなくなっているということ。また、トラブルを避けるために他の受刑者と関わらないようにしていた者も、読書会以外の場であっても課題書などについて気軽にメンバーと会話を交わすようになっていたりすること。『アンナプルナ南壁』という映画中のある登山家の台詞に「われわれは違う国から来ているというより、“山”という同じ国の住人なんだ」というのがありますが、ここに集う人たちは、“読書会”という同じ国の住人になっているようなのです。ただそれゆえに、その場が少し排他的になってしまうことが、ちょっと残念です。
この書では、読書会や受刑者たちのことが描かれる合間合間に、著者が泊めてもらうキャロルの別荘のある島で目にする豊かな自然についても活き活きと描かれています。無機的で管理された刑務所とは対照的な、「もともと善良な」自然の豊かさと力強さを描くところに、著者の人の善を信じる気持ちがあらわれているのかもしれません。
評価:
アン ウォームズリー 紀伊國屋書店 ¥ 2,052 (2016-08-30) |
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親愛なるミスター・ナドー
背筋を伸ばした男性がひとりでもいる限り、心の優しい女性がひとりでもいる限り、たとえ暗雲のたれこめた景色であってもわびしさは感じられません。希望は苦しいときには失われやすいものです。私は日曜日の朝は必ず起きて時計のねじを巻くようにしています。秩序と不動の心を保つための儀式のようなものなのです。
船乗りの間では天気について独特の言い回しがあります。はったり野郎と呼ばれる天気は人間社会にも当てはまると思います。先がまったく見えないでいるときに雲間から光が射し、状況がいきなり一変することもあるのです。人類がこの地球上で滅茶苦茶なことをしているのは言うまでもありませんが、我々は人として、美徳の種もおそらくどこかに埋めていることでしょう。その種はしかるべき状況が訪れたら芽を出そうとずっと待っているはずです。人類の好奇心、ねばり強さ、創意工夫、発明の才といったものは深刻な問題をもたらしました。人類が苦境から脱するためにも、こうした特徴が力を発揮することを祈るばかりです。
帽子をしっかりかぶり、希望を手放さず、時計のねじをきちんと巻くことです。明日という日があるのですから。
敬具
E.B.ホワイト
これは、すごい!心打たれたり、クスリと笑えたり、ゾッとしたり、感心したり、驚いたり……。様々な時代の様々な人の手紙集。
ウォーターゲート事件の渦中に肺炎となり入院したニクソン大統領への8歳の男の子からの手紙の可愛いこと。少年時代キューバのカストロが、ルーズベルト大統領に10ドル札をねだる手紙を書いていたとか可笑しい。警察バッジを収集していたプレスリーがニクソン大統領に送った麻薬危険薬物取締局のバッジを手に入れるための手紙などもあります。そのプレスリーが22歳のときに2年間の兵役についた際、彼のもみあげは絶対落とさないでほしいとアイゼンハワー大統領に嘆願するファンの女の子達からの手紙なんていうのも。望みのものを求める手紙は、他にもいろいろ。フランク・ロイド・ライトに犬小屋の設計を頼む男の子の手紙とか。ちゃんと設計したというのが素敵。
心打たれるのは、やはり、死や苦境を前にした人々の手紙。入水前のV・ウルフの手紙や、聴覚を失った苦しい胸の内とそんな自分自身を支える芸術について記されたベートーヴェンの手紙、南極探検隊のロバート・スコットの手紙、死地にいる兵士からの手紙…。また、決して届かない死者への手紙も胸に沁みます。
戦争、自由を求める戦い、奴隷解放、宇宙計画、科学的発見、事件、事故等々、個人の手紙の中には歴史が刻まれており、歴史的資料としても非常に興味深いです。中にはそんなことが!というものも。リンカーン大統領を射殺した人物の兄は、たまたま暗殺のすぐ前に駅のホームから転落した大統領の息子ロバートの命を救っていたのだとか。
興味深くない手紙が一通もないのですが、文学者関連の手紙は印象深いものが多いです。教材として「善人はなかなかいない」を用いている高校教師からの作品の解釈について問う手紙に対するフラナリー・オコナーからの返事とか、うわわわです。
「物語とは、読者が考えれば考えるほど、その意味が膨らんでいくものですが、意味は解釈という形では捕らえることができません。もしも先生方が物語に対して研究課題のように取り組み、明白な点を除いてどんな答えでも妥当だとしてしまわれるのでしたら、学生さんは小説を読む喜びをけっして味わえないと思います。解釈のしすぎは、解釈不足よりも確かに弊害があります。作品に対する感情のないところで理論を振り回しても、なんの感動も生じてきません。」
歪んだ解釈、作品が不当に扱われることに対する抗議の手紙は他にも。『ありきたりの狂気の物語』がファシスト的傾向があり差別的内容を含むという理由で公共図書館から撤去されたことについてのチャールズ・ブコウスキーの手紙とか。
「検閲は、自分自身と他人から現実を隠す必要のある人たちの道具です。彼らの不安とは現実に直面できないという能力の欠如にすぎず、私はそうした人たちに怒りをぶちまけることはできません。ただ、ただ、哀しいだけです。彼らは育った過程のどこかで、人間の存在に関する総合的な事実を見ないよう守られてきたのでしょう。多くの見方があるのに、一つの見方しか教えられてこなかったのです。」
『スローターハウス5』を卑猥だと焚書扱いする学校長に対するカート・ヴォネガットの抗議の手紙もあります。『スローターハウス5』に関しては、この作品の元になった戦争捕虜として過ごした著者の厳しい実体験が綴られた家族への手紙も掲載されています。
著者自身による手紙ではありませんが、モーリス・センダックの絵本『まよなかのだいどころ』を不愉快な作品だと焚書にした司書に対する編集者からの手紙なども。
「創造性溢れるアーティストと子どもとの間に立つ私たち大人は、自分の意見や強迫観念を反映させた態度をとらないよう、細心の注意を払うべきではないでしょうか?」
サンタさんの実在を問う女の子へのザ・サン編集者からの返信のように子どもに対する心温かな手紙も色々あります。とはいえ中には、冗談にしてもなかなか手厳しいものも。『ピーナッツ』のチャールズ・M・シュルツが、ちょっと感じの悪い新しい登場人物、シャーロット・ブラウンについての不満を記した読者の女の子からの手紙に対して書いた返信。シュルツはあまりの不人気さにシャーロットを登場数回にして消さざるを得なかったそうですが、この女の子への手紙には「きみやきみの友人たちは、罪のない子の死をやましく感じることになるんだよ。そんな責任を受け入れる心の準備はできているかな?」と、シャーロットの脳天に斧を突き刺したイラストとともに容赦ないことが書かれています。
私がこの本を手にしたのは、暗黒大王ニック・ケイブからMTVへのベスト男性アーティスト賞辞退の手紙が掲載されていたからなのですが、これがまたなかなか素敵。
「ぼくとミューズとの関係は、うまくいっている時でも気を抜けません。傷つきやすい彼女の機嫌を損ねかねない影響から守ってやるのがぼくの務めです。」
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これは大変面白かったです。
現代ロシアにおける、呪術の“リアリティ”についての書。
ロシアの呪術に関心を持って、わずかなりとも古い呪術の記憶が人々の中に残されていればと、北ロシアのカレリア共和国にフィールドワークにやってきた著者は、いきなり驚きます。調査協力者である現地の民俗学者の男性自身が、呪術を完全に信じていたからです。研究者としては、もっと客観的であるべきではないかと問えば、「なぜお前が呪術を信じないのか、まったく理解できない」と返されてしまいます。元は熱心な共産党員で無神論者だった男性が、なぜこんなことになっているのか、いきなり興味深い観察対象に出くわしたのです。わずかに過去の形跡が残っているどころか、どうやら呪術はバリバリ現役、全ての人ではないものの、一部の人々には呪術の「リアリティ」が今も信じられていたのです。
この民俗学者イリイチの紹介で、著者は、タイトルになっている現在呪われ中(と本人は固く信じている)のナターシャの他、さまざまな呪術者から直接話を聞いてゆきます。そしてそこから、それまで信じていなかった人が、「体験」を繰り返すことで呪術の「リアリティ」を確信するようになる様や、呪術知識がどのように伝えられてきたのかといったことを明らかにするとともに、社会主義時代以前の伝統的な呪術研究に偏りがちなロシアの研究者からは見落とされている、ポスト社会主義時代の呪術の状況、ソ連時代には非科学的な迷信として否定された呪術のオカルト化、新たに超能力として“科学的”に語りなおされている様や、新たな呪術コミュニティや実践の生成にマスメディアや民俗学者の研究成果の果たしている役割なども明らかにされています。
ロシアの呪術の興味深いところは、キリスト教との関係。もちろんキリスト教からは否定されていますが、呪術師にとってよき呪術は神の力を借りて、悪しき呪術は悪魔や魔物の力を借りて行うものなのです。異教的なさまざまな精霊の力もかりますが、呪術の儀礼の中では両者が混在しています。キリスト教側がどんなに呪術を否定しようとも、それは“その力や能力はサタン由来のものだから絶縁すべし”という風に、呪術の「リアリティ」を認めた上での否定であるため、かえって積極的に呪術の「リアリティ」を支持している奇妙な状態にあることなどとても面白いです。
また、こういうところも。無神論が公的なイデオロギーであったソ連時代、教育や農畜産業や医療の近代化によって呪術は「迷信」として除去されてきましたが、そのことがあったからこそ、ソ連の崩壊によってそれまで政策や考え方が否定され、失われたものを取り戻そうとする動きの中で、呪術が見直されることになり、「シャーマニズムや呪術などの『リアリティ』を信じる立場こそが、イデオロギー的抑圧から解放されている立場であり、より客観的でまともである」なんていう考えを持つ人々が、研究者の中に存在するそう。ソ連時代を生きた研究者にとっては、信じる信じないを抜きにした客観的態度は、むしろ偏った態度、無神論的で社会主義イデオロギー的偏向と感じられたりするんだとか。
このソ連時代に呪術が排除されてきたという歴史は、そのために失われた知識がどこかに密かに伝えられているのではないかという想像を産み、勝手に作られた新しい呪文であっても、失われていたものが発見された「伝統的」な呪文として受け入れられてしまったりと、新たな伝統を生む要因になってもいるようです。
学術的なものであれ実用的なものであれ、出版物やテレビ、インターネットなどマスメディを介して、これまでは個々のものだった呪術師のもつ情報が循環し、同質化していることによっても「リアリティ」が構築されているというのも面白いです。呪術師に言われたことを調べようとすればするほど、その「正当性を保証する者が増え、呪術の『リアリティ』への確信が深められていくことになる」のです。
この書、そういった「リアリティ」に関する考察だけでなく、もちろん呪術の実践、呪いの方法や呪文などにも触れられており、呪術の具体的な内容に興味がある方にとっても興味深いものだと思います。歯と呪文の効力に関係があると考えられているのは、なぜなんだろう??
何その事件!?と、思ってしまいましたが、かつては、このように妊娠中に死亡した女性の体内より胎児を取り出してから埋葬する、「胎児分離埋葬」が普通に行われていたそう。実際に胎児を出さずとも、それを象徴するようなこと、棺に胎児代わりの藁人形を入れるなどといったことをする場合もあったそうですが、日本の各地で行われていたんだとか。
一体何ゆえにそんなことをしていたのかというと、子どもを宿したまま死亡すると、死者は血の池地獄で苦しまねばならないだとか、幽霊となって家に害をなすだとか、ウブメ(産女)となってしまうといった考えに基づいていたよう。その考えの素になったのは、室町時代に流布していた『血盆経』ではないかとのこと。『血盆経』では女性は産の血で諸神を汚すため罪深く、血の池地獄に堕ちねばならないことや、そこから逃れるための方法などが説かれているそうで、そこからお産で亡くなった女性の場合は、「産穢と死穢の二重の穢」を持ったさらに罪深い存在であるため、往生できないという思想が生まれ、その思想を「地獄思想を説くことで信仰を広めていった回国遊行の宗教者たちが」広めた結果、死者に胎児摘出という一種の「分娩」を済まさせてから葬る「胎児分離」の葬送習俗が中世末から近世初頭頃に成立したのであろうとのこと。
“ウブメとならないように行っていた”などという事例があることから、「産女伝承」は、この習俗と直接関わりがあるように思えますが、著者は、もとは無関係だったと考えていらっしゃいます。「死んだ妊婦の魂魄を地獄から救うための習俗という意味が希薄にな」ってきた結果、「亡くなった女が自分のおなかにいる胎児を産み育てようとするために亡霊となって出てくるというふうに解釈しなおされ」、もともとは無関係だった「産女伝承」が同様に“産死者の伝承”であるために結び付けられたのではないかとのこと。
また、「子育て幽霊」についても、この習俗から生まれたのではなく、逆にこの習俗が廃れてゆく中で繋がってきたのではとのこと。物理的に胎児を取り出す方法以外にも、僧侶が祈祷によって「棺中出産」させるという、観念的な方法もあったらしく、特に近世の曹洞宗を中心とする禅僧が布教活動の中で、呪法での胎児分離を説いて、開腹による胎児分離の習俗の廃止に一役買っていたよう。物理的には胎児を孕んだ状態で埋葬されるという事実があったからこそ、禅僧によって作られた「高僧墓中出生」の話から民間説話化していた「子育て幽霊」の話が結びついたのではと。
この、どのような形のものであれ「胎児分離埋葬」という習俗が消えてしまった原因は、近代医学の進歩によって妊産婦死亡率が激減したことが一番大きいのではないかと考えられています。この習俗の対象とされる存在が消えたことによって、習俗として存続できなくなったのだと。その結果、この習俗に結びついていた「産女」や「子育て幽霊」伝承もリアリティを失い、伝承されなくなったとのこと。
その一方で、出産における新たなフォークロアとして、「水子」をめぐる習俗が登場してきます。前近代的な考え方では、胎児や一歳ごろまでの赤子は「この世に生を受けた者」とはみなされたいなかったそう。そのため、この期間に亡くなった子どもや、出産直後に間引かれた子や堕胎した子などは、葬式をされることもなく処分されており、そもそもこの世に生まれてきていない胎児や赤子が祟ったり幽霊になるという発想はなかったとのこと。それが近代になって、胎児も「この世に生を受けた者」とみなされるようになり、「あの世に送って成仏」させねばならない存在に変化し、「水子」供養という習俗が生まれたのです。
この産女から水子へと、リアリティーをもって信じられる存在の変化は、イエに災いをなすものから、女性個人にさわりをなすものへの変化であり、それは出産が「村の男性たちも関わる公の出来事から、女性自身が関わる私的な出来事へと囲い込まれていく過程でもあった」のではないかと指摘していらっしゃいます。
この書では、他にも出産にまつわるフォークロアとして、胞衣の扱いの変化にも触れられています。昔は子どもの成長を守るものとして、また、災いを避けるために速やかにあの世へ戻すべきものとして丁重に扱われていたそう。家の敷地内に埋められることが多かったそうですが、明治時代に清潔法が施行され、定められた場所へ集めて処分されるようになります。「棄てる」という表現が使われるようになったものの、その場所は、古墳のそばや墓地、火葬場の近くといった「あの世に戻す」のにふさわしい場所が選ばれていた様子。しかし、1960年代になって出産が病院で行われることが一般化した結果、胞衣のもつ力は完全に忘れられ、その処分については無関心になってしまったとのこと。
胞衣についての話で大変興味深かったのは、2002年の調査結果の一つとして、20〜30代の女性の間で、かつて胎盤(胞衣)を食べる習俗があったという俗信が広く信じられていることがあげられていること。うわっ!それ、聞いたことがあるし(ネットで見たのかも?)、俗信って知らなかった―――!!!
抜けた乳歯についても、同様にあの世、異界へ戻すものとして扱われており、新しい丈夫な歯と交換するために床下や屋根の上という異界へ投げ込む行為が行われていたとのこと。それがだんだん“異界”に対する人々の想像力が失われ、「マイホーム」に向かって投げ入れると考えられるようになり、さらに住環境的に投げる場所がない場合以外にも、育児をめぐる状況の変化から、最近では乳歯ケースで乳歯を保管する人が増えているとのこと。
お産が、家ではなく病院で産むことが主流になったことは、お産をめぐるフォークロアに影響を与えただけでなく、お産の「身体技法」にも変化をもたらしました。分娩台の成立過程について触れられているのですが、そもそもは、医師の診察しやすい姿勢に患者をロープで縛ってベッドや机に固定するところから始まっています。ロープで縛る代わりに足を固定できるものとして、脚置き台が作られ、それと手術台を組み合わせることで、分娩台が出来上がってきたのです。医師にとっては診やすくても、分娩台のうえでの仰臥位の姿勢での出産は、実のところ「胎児の娩出には不利」とのこと。診やすく産みやすい新たな形状はないのかしら??
↑分娩台の元祖?!
この書では他に、おんぶと抱っこについて、育児行為の中での身体技法の変化や、怪異と関わりの深い身体部位についての考察があります。私的に興味深かったのはやっぱり上に書いたような、お産をめぐるあれこれでした。
旅が自由のはじまりさ。生きるも死ぬも自分の責任だ。
遁走だ!自由のほうへ!脱走だ!
きだみのる、山田吉彦として『ファーブル昆虫記』を翻訳した後、給費留学生としてフランスに渡りパリ大学でマルセル・モースに師事して社会学や民俗学を学ぶも中退し、戦時下でありながらモロッコを旅し、帰国して『モロッコ紀行』を出版。その後東京・南多摩郡の恩方村へ疎開し、その体験をもとに『気違い部落周遊紀行』、『気違い部落紳士録』などを書き、それが映画化されヒットしたことで、一躍時の人に。その後も一所に留まることのないきだ氏は、奄美大島に生まれ、父親の仕事の関係で、鹿児島、台湾と居を移し、その後東京の叔父に引き取られ、そこから函館へ家出し…と、子どもの頃から漂流続きだったのだとか。
そんなきだみのるに、1970年、当時「太陽」の編集者だった著者・嵐山光三郎氏が、日本列島の小さな村をまわってルポを書く仕事を依頼しようと、住居を探し出し会いに行きます。革新系劇団新製作座の宿舎に訪ねてみれば、そこは足の踏み場もないゴミ部屋。異臭のこもった部屋の中にいる、75歳のきだみのるのただならぬ存在感。同行した編集長の馬場一郎氏は、「きだみのるは昆虫の臭覚を持った隠者だ」、「大風呂敷をひろげて相手をケムにまくというからな、こちらも腹をきめていかなきゃいかんよ」と言っていたものの、すっかりきだみのるのペースに巻き込まれ、破格の報酬で仕事を依頼することに。
かくして著者ときだみのるとの交流が始まり、ともに旅し、付き合いを深める中で、少しずつきだ氏の口から過去のことが語られてゆきます。きだ語録といった感じの名言、迷言の数々、親交のあったさまざまな人々のこと、意外な出来事、家族への複雑な思い。
男は餓死と贅沢のあいだを往復する動物であって、女のとりこになってはいかんのだよ、きみ。といっても、恋愛は精神の浄化であって、人間の特権だ。だから女に恋をする。聞こえはいいが、体内に獣を飼っている。
女好きだが女に拘束されることは嫌い、「果てることなき食い意地」、「借金の達人」、「わがまままで、手こずらせる老人」、矛盾を抱えいつもいらだっている。「ギリシャ語とフランス語の達人」で、「その知力は緻密で不純物がない」。きだみのるのわがままに振り回されながらも、その魅力に捕らえられ、きだ氏との仕事が終わった後、著者も旅に出てしまいます。
この頃、きだみのるのもとには、きだ氏のことを「おじちゃん」と呼ぶ女の子、ミミくんがいました。きだみのる同様「ナマミの本能で生きている」ような女の子。実は人妻との間にできた子どもであり、海外も含め方々へ連れ歩いているため、小学校に通わせられていませんでした。「同志」として認め合い、支えあって生きてきたため、なかなか自分のそばから手放せなかったものの、ようやく決意し衣川村の分校の教師である佐々木夫婦のもとに預け、学校生活をはじめさせることになりますが、ここからの展開が切ない。この佐々木先生は、のちに三好京三のペンネームで、きだみのるとミミくんをモデルにした小説『子育てごっこ』を書いて賞を取るのですが、その内容は、二人の間柄を暴きたてたうえで、きだ氏を世の中に苦渋を撒き散らす醜怪な老画家として、ミミくんを可愛げのない傲岸な野生児のような子ども・リリとして描き、さらに自分たち夫婦については、そんな少女を引き取り育ててゆくという美談にしたてたもの。死を前にしたきだみのるが、「ササキ君は油断がならぬ男だ」と心配したとおりのことになるのです。
書中、きだみのるが作る豪快な料理の数々が紹介されていてるのが楽しいです。時には干しガエルや虫が供されることもありますが、それも食べてみれば美味との事。一番印象的だったのは、馬肉で作るタータルステーキ。馬肉のひき肉にみじん切りの野菜を混ぜ、きだ氏がごぼうのような黒い手で捏ねて作るのですが、焼くのかと思いきや、生で食えとのこと。これまたすごく美味しかったそう。それを食べながら、「天空から舞い降りた天狗のようにほほえむ」きだ氏とミミくんがすごくいいです。
また、交流のあったさまざまな人の話の話も面白いです。中でも、辻潤との思い出話のあとに甘粕大尉に会った話がでてきたのにびっくり。太平洋戦争の前年、情報部に入る気はないかと誘われたのだとか。
「自由の代償は死ぬことだよ」
自分本位の壮絶な生涯だったが、きだみのるには一途なこころざしがあった。それは自由を求める魂だ。自由の代償の重さ。宴会と恋と冒険は人間の体力のつきたときがすべての終わりになる。
本書では、この「異文化の学」としての文化人類学の方法的な特質を損なわずに、しかも自らが生まれ育った文化そのものへと視線を折り返す試みをしている。それは、日本文化そのものの斬新で且つ深い理解に役立つ学問へと文化人類学を回転させようとする構想でもあり、この目的に資するだろう論考を幾本か編んでみた。
「味噌買橋」についての考察があるというので手にしたこの書、非常に面白かったです。
飛騨高山の民話「味噌買橋」については、櫻井美紀氏が経緯を明らかにされたように、イギリスの話「スワファムの商人」の翻案作品が民話化したものだということで、すっきり納得していたのですが、この書ではそれは単に「伝播の経路を書誌的に点綴」しただけにすぎず、そこからさらに「人々が現に生きた歴史の文脈で」この翻案の作成やその受容について理解する必要があるのではと述べられています。そのためには、他にもいろいろ橋はあるのに、なぜ他ならぬ“味噌買橋”が舞台に選ばれ、民話として土地に根付いたのかを問うてみなくてはいけないのではと。
実は、「味噌買橋」の出現にほぼ10年先立って、まさにこの物語を地で行く、(飛騨最初の家具製造会社)中央木工の創立といういかにも劇的な出来事が味噌買橋の袂で起きてきた。しかも、小林の『郷土口碑伝説集』編纂時、同社設立に続く会社と町の至富への過程(曲木家具工業の地場産業化)が実際に着々と進行していたのである。
大正9年(1920)、「ブナの木でも使いようで立派な家具になる」という店先での客の話に興味を持った筏橋(味噌買橋)袂にある大野屋味噌店主、土地の有力実業家の一人である武田萬蔵は、曲木家具製作の技術を持つその客が自分たちを活かせる人を飛騨で探していると知り、木材に詳しい知人を誘って、飛騨山地の膨大なブナを原材料とする曲木家具製造業を始め、その結果高山は洋家具の国内最大産地へと変貌していったという事実があったのです。
翻案作成者である小林幹は、「味噌買橋」の話を“夢買長者伝説”の一つととらえていたらしく、“用途のなかったブナを用いて家具が作れるという話(夢)に投資した(買った)ことで、富を得た”という現代版夢買伝説がこの地の人びとに印象強く記憶されていたからこそ、この翻案が生まれたのであろうとのこと。ただの翻案ではなく、ちゃんと「生きた歴史」に繋がる物語だったのです。目から鱗というか、頭をガッツーンという感じ。
「橋は世界中どこでも、川の両岸を、そして象徴的には此岸と彼岸を繋ぐ新しい文化装置として人びとの強い関心を引いて幾多の伝説を生み出し、物語や映画の恰好の舞台ともなってきた。高山では、奇しくもそれを絵に描いたような目を疑う程の事件が味噌買橋の袂で現に起こり、町は足早に曲木家具の一大産地に変貌した。その命運の不思議に、高山に生まれて清美で育った小林幹が誰よりも深く感じて打たれ、万感の思いをこめてその記憶を「味噌買橋」伝説へと造形し、郷土の誇るべき伝説として学童に学ばせようとした。そう考えると、当時の「飛騨高山のエートス」がくっきりと浮かび上がって来よう。」
「むしろその話が表象、または代理=代表(represent)している大野屋の逸話の時代精神(思い切って「夢買」する英断とその天晴れな心意気)が高山の人々にとって「真実」(truth)であることを、話(のメタメッセージ)は伝えようとしていたのである。端的に言えば、「味噌買橋」の「現実性」(reality)を(地元の聴き手に)保証していたのは、他ならぬ味噌買橋という周知の固有名詞なのである。」
他にも興味深い考察がいっぱい。生まれた子どもに対する予言が実現してしまう話について、アフリカのキプシギス、古代ギリシャ、中国、フランス、中近東などの類話を社会構造にからめて考察し、さらに日本の「『託宣の避けられない実現』が破綻する話」である、予言に反して河童が子どもの命を奪い損ねる話を取りあげて比較されています。予言の破綻、絶対的な時間の支配から逃れえた理由が考察されていて面白いです。また、ここに登場する河童のように、“お人よしで間抜け”という蛇や龍などの他の水の神にはない性格付けをされた河童像が生まれた理由についても考察されています。
“オムスビの力”についての考察では、“水の女”との関わりがあって、おおっとなります。
日本では“斜め”には負の意味合いがあり忌避されてきていたという説に疑問を呈されている「斜め嫌いの日本文化」についての考察も面白かったです。
中でも特に面白かったのは、お子さんが通っていらした幼稚園でのクラスの命名システムが、トーテミズムを説くのにちょうどいい実例だったという話。クラス名は園を経営する寺の敷地内に創建当時には実際に棲んでいた(今はいなくなった)生き物の名前にちなんでいて、それはまさに「人間集団の(抽象的な)関係性をその外部である自然(主に動物や植物)の間に感じ取られる実態的な関係性と照らし合わせて、それと相同の仕方で表現している」トーテミズを体現するものだったのです。しかも園児とトーテムとの親密な関係までみられたり。こんな身近なことであっても、「文化人類学」的視線を向ければとても興味深いことが見えてくるのです。これぞまさに「普段着でする人類学」。
戦国の世が終わり江戸時代となって、世の中が平和に慣れてゆく中、武士がその本分を忘れてはいけないという思いもあってか、江戸時代初期にはさまざまな軍記ものが編まれたそうですが、兵学者や文人によって格調高く書かれたものがある一方で、この「雑兵物語」や「おあむ物語」のような、口語的表現による書もあったそう。
雑兵物語は、歩兵集団戦闘において重要な役割を果たす足軽・雑兵といった「下卒練武の要訣として、江戸時代を通じて心ある武人の間に珍重せられ、転写に転写を重ねられて来たのであるが、幕末弘化年間には遂に刊本として汎く識者の間に行はれるに至つた」ものなのだそう。その内容は、弓足軽・鉄砲足軽・槍担・馬標持・旗指・馬取・持筒・持槍等々の雑兵三十名の「功名談・失敗談・見聞談等の形式を借りて、雑兵の陣中及び日常に於ける心得の一般、武具の取扱ひ、兵器の操作、或は戦場の駆引をはじめ衛生・救急・糧秣・輜重等に至るまでの各般の事項を平易に且簡明直截に述べたもの」で、「一種素朴な各科教程であり、諸兵須知であり、同時に雑兵訓或は物語戦陣訓とも言ふべきもの」。作者は松平伊豆守信綱の嫡子輝綱もしくは第五子松平信興などの説があるそうですが、不明とのこと。
記述内容が歴史学的に興味深いものであると同時に、当時流行していた奴言葉・六方言葉(徳川家に従って江戸に入った人びとの三河弁と、江戸在来の関東弁などが入り混じってできた、大仰で威勢のいい言葉遣い)に影響を受けた言葉で書かれていることから、江戸初期東国語の片鱗を窺うことのできる「国語史資料・方言資料」としても面白いものなのだそう。
また、格好良く歩かせるために馬の足の腱を切ったりだとか、武具の紐をお洒落に染めたり、いらぬところに家紋をつけたりすることの不具合がぼやかれるなど、実用より見栄えを重視する風潮を皮肉る内容がちょくちょく見えるのも興味深いんだとか。
書中語られるアドバイスは実にさまざまです。刀での狙いどころやら、槍での攻撃法だとか、弓や鉄砲についての諸注意、装備の仕方、荷の持ち方、負傷者の担ぎ方、敵を仕留め首のかわりに鼻を削ぐときは男と分かるように髭の部分もつけとけとか、うっかり合言葉を忘れて仲間に間違って殺されないように合印はいろんなところにつけとけとか、敵地では糞が沈められていたりするから、井戸水は飲まないほうがいいとか…。
負傷者の治療法がなんだかすごいです。傷が痛むときは自分の小便を飲むか塗るかしろとか、葦毛馬の糞を水に溶かして飲むと、腹中にたまった血が下りて、傷が早く治るとか。葦毛馬の血でもいいんだけど、血を採るわけにもいかないから、やっぱり糞にしとけとのこと。他にも戦中喉が渇いたら、持参した梅干を見て唾をだすか、それでだめなら死体の血か泥水の上澄みをすすれとか…。
うっかり戦国時代にタイムスリップなんてことになったときのために知っておきたい知識が満載です。
「おあむ物語」は、80歳を超えた御庵さま(老尼の尊称)が子どもたちにせがまれて語る、関が原の戦いの際、奉公していた石田三成の大垣城からなんとか逃げ延びた若い頃の話。落城前に聞いたバンシーのような不気味な声のことだとか、戦いがはじまって味方が討取り天守閣に集められた敵の首に、よい武者の首に見えるようお歯黒を塗っていたことや、そんな首だらけの部屋の中で寝起きしていたこととか、城から家族で逃亡した際、途中で母親が産気づいて出産し、田んぼの水を産湯がわりにしたこととか、かなり壮絶。
もう一つ、淀君に仕えていた女性による大阪落城時の話「おきく物語」も収められています。こちらは籠城中の思い出やら逃亡時のこと、お城に御仕えするにいたった経緯などが語られています。
ああ、習俗打破!習俗打破!それより他には私たちのすくわれる途はない。呪い封じ込まれたるいたましい婦人の生活よ!私たちはいつまでもいつまでもじっと耐えてはいられない。やがて―――、やがて―――。
スゴいタイトルだなぁと、この書の存在は気になっていましたが、先日読んだ書中に伊藤野枝がちらりと登場したため、そういう偶然にはのったほうが吉かと思い手にしてみました。
タイトルもすごいですが、いきなり冒頭は「あの淫乱女!淫乱女!」!?読み終えてみれば、いやもう、やばいなんてもんじゃなかったです。「やばい!しびれる!たまらない」本でした。栗原節のせいもあってか、野枝かっこいい!!と、何度も思わされます。
伊藤野枝、貧しい家庭に生まれるも、父方のおばの嫁ぎ先、実業家の代の支援で東京の上野高等女学校へ通わせてもらいます。自由な校風のもとで読書をしたり文を書いたり、学校生活を謳歌していましたが、家のすすめで卒業後は裕福な農家に嫁がされることに。この結婚が嫌だった野枝は数日で婚家を飛び出し、高等女学校の英語教師だった辻潤のもとへ。代の骨折りもあってなんとか離婚することはできましたが、野枝を受け入れたことで、辻潤は仕事を失う羽目に。この頃助けを求めたことが縁で、平塚らいてうのもと青鞜社で働きはじめます。のちには編集長にもなり、「無規則、無方針、無主張無主義」というより自由で開かれた紙面作りを目指し、貞操や堕胎、廃娼などといった問題について紙上で議論します。辻潤とは結婚しないまま同棲を続け2児を儲けますが、別れて今度はアナーキスト大杉栄と暮らし始めます。大杉とも入籍はせず、極貧生活の中5人の子供をもうけて育てつつ、執筆活動を続け、労働運動に関わったりしていましたが、関東大震災のあと、甘粕大尉率いる憲兵隊に大杉栄と幼いその甥とともにつかまり虐殺されてしまいます。という人生が描かれていますが、これが栗原節で語られると、なんだかもう、すごく可笑しい。
野枝は、谷中村のはなし(足尾銅山から流れ出る有害物質のために悲惨な状況にあるはなし)をきいて涙をポロポロながした。ゆるせることと、ゆるせないことがある。そして、ゆるしちゃいけないことがある。自分もなにかしなくてはいけない。そうおもって辻にはなすと、なんかせせら笑っている。おまえ自分のこともろくにできないくせに、ひとさまの心配かよ、それはセンチメンタリズムだよと。これをきいて野枝は激怒する。いったい、おまえはなんなんだと。仕事をしないばかりじゃない、家事も育児もしやしない。たまに辻の母親が手伝いにきてくれたかとおもえば、女が仕事をするなんてどうなんだとか、ピイピイピイピイとうるさいことをいってくる。ちくしょう、ぜんぶわたしがわるいのか。いいたいことばかりいいやがって。しかも、それで辻がたすけてくれればいいものだが、そういうときはだいたい家の端っこでピーヒョロロと尺八をふいている。なんだんだ、こいつは!なんなんだ、こいつは!ダダイスト、辻潤である。はたらかないで、たらふく食べたい。
冒頭から最後までこの調子。が、可笑しいばかりではなく、深い共感、著者の野枝、最高!という思いのこもった文の合間合間に種々の書物からの引用が挟まれていて、野枝の生き様、その思想がしっかりと描き出されています。
とにかく思うままに、好きに、自由にという大胆でわがままな野枝の生き方や、彼女のこわしたかったもの、抗いつづけたものを思うと、いかに自分に奴隷根性がしみついているかを感じさせられます。が、だからといって「真っ暗な闇へと突っ走る」なんて怖すぎ、無理。アナーキーな生き方は全く出来そうにないですが、でも、いかに自分がいろいろなものに縛られているかということ、しかもそれに気づいていないことも多いってことは肝に銘じておきたいです。
地下秘密出版の好色本、青木信光による『好いおんな』シリーズの6巻に「土佐乞食のいろざんげ」という筆者不明の一文が掲載されているそう。内容はまさに詳細なエロ描写ありの「土佐源氏」。が、果たしてこれは宮本常一の手になるものなのかどうか?青木信光は、日本生活心理学会を主宰する性科学者、高橋鉄のところでみかけた「ガリ版刷り、紐綴じ」の「土佐乞食のいろざんげ」を底本としたと言っているそう。宮本常一と高橋鉄には交友関係があったらしく、互いの仕事を認め合うような仲であったとすれば、宮本が研究資料として高橋にこれを提供していたなんて可能性がないとはいえなさそう。また、内容についても、おかたさまの死に対する語り手の悲痛な思いを強調する描写があるなど、別人が性愛描写を加えただけのものとは見えない点や、使用される言葉や語法など叙述に違和感のある部分のないことなどから、宮本常一が書いたものとみて間違いないのではとのこと。
で、その内容ですが(この書には「土佐乞食いろざんげ」全文が掲載されています!)、「まえをなめたことがありなさるか」って質問にはなんと続きがあって、さらに「ほれた女の小便(しし)をのんだことがありなさるか」って聞いているではないですか……その辺から推し量っていただければと思いますが、そりゃあもうなめになめて何か飲んでますし、ぶっすんぶっすん、くちゃりくちゃり……。
まずこの「いろざんげ」が公表する意思はないまま書かれ、ここからエロい部分が大幅に省かれ、「民族資料」的色合いが強調された『日本残酷物語』中の「土佐檮原の乞食」、さらに「土佐源氏」ができたのではないかというのが著者の考え。でもって、この話は宮本によるかなりな創作、民俗学的資料ではなく「文学」と言わざるをえないとのこと。
え?!創作??
土佐檮原村の橋の下の乞食小屋に暮らす盲目の老人が語ったことじゃないの??「庶民自身の語りを再現した名品」じゃないの??目の前で老人が語っているかのような、訛りのある語り口調で綴られているため、私自身は完全な聞き書きのような印象を受けていました。
確かに実際に宮本は執筆の15年ほど前に土佐の檮原村で、馬喰をしていた盲目で話し上手な老人山本槌造から話を聞き、記録していたという事実はあるそう。が、その山本氏、当時は70代半ばくらいで私生児ではなく、さらには乞食でもなく、馬喰のあとは水車による製粉業を営み、失明して隠居の身となるも、決して橋の下に暮らすようなことはなく普通の家に暮らしていたとのこと。で、馬喰の仕事も、“馬”ばかりを扱い、運送業などもしていたそうで、“牛”ではないそう。いかにもな語り口調も、土佐方言ではなく、宮本にとってなじみ深い山口県周防大島の方言がベースになっているそう。
宮本はこの時の記録を含む採集ノート戦災で消失してしまっており、記憶を元に書いたことについては認めているとのこと。どこまでが山本氏の語ったことなのかは不明だそうですが、宮本自身の関心や知識をもとに書かれたと言わざるを得ない部分についてはいろいろあげられています。民俗学資料的とみなされてきた部分は、語り手の老人の知見ではなく、宮本自身のこれまでの調査による知識によるものじゃないのかって。
私にとってビックリなことが書かれていますが、この書、「土佐源氏」の記述を詳細に検討し、その虚実を検め、宮本の“これはあくまで聞き書きによるもの”という態度を批判するもの、というわけではありません。これは「文学」であるという前提にたつことで、なぜ宮本がこのようなものを書いたのか、作家宮本の内面を探ろうとされたものです。文学に対する強い思い、影響を受けた作家や作品、盛り込まれている性愛に対する考えや宮本自身の体験、関心などが考察されているのです。
執筆動機に関わりがありそうな作品として、『チャタレイ夫人の恋人』の他に木村艸太『魔の宴』があげられています。この書の刊行直前に命を絶った作家による自伝的作品で、文学的自歴とともに女性遍歴などが綴られているそうで、中でも伊藤野枝(栗原康による伝記『村に火をつけ、白痴になれ』、タイトルも衝撃的だけど中身もすごいです…やばい、しびれる、たまらない!)とのことについては詳細に書かれているらしく、気になります。この作品に共感を覚えるとともに、「事実を基とした作品執筆」へ向かう刺激を受け、さらに、柳田國男が見出し高校国語教科書教材に採用した『おあん物語』の「口語りによる表現」に影響を受け、「自らの体験的蓄積の中にある事柄を」老人の一人語りとして描くにいたったのではないかとのこと。
『土佐源氏』における女性との恋、性体験の描写には、それまでの宮本の女性への思いの全量が重ねられていると見てよいであろう。
『土佐源氏』の主人公の本当の実像、それはほかならぬ宮本常一その人に通じるものということになろう。
ところで、「肉体の結びつき、性愛の悦びから至る精神の結合と開放」をテーマとするなどと、著者はかなり原「土佐源氏」であると思しき「土佐乞食のいろざんげ」を高く評価していらっしゃいます。確かに「性器の俗称を駆使した胸を打つ性愛表現」にあたる細かな表現はとっても面白かったですが、下賎な男が慎み深いいいところの奥様に女の喜びを教えて身も心も虜にするというのは、男性妄想ストーリーのテンプレ感が強く感じられて、私としてはなんだかなーでした。同じことでありながら「土佐源氏」では胸打たれてしまったのは、エロが控えられている分、悲恋の印象が強かったからなのかしら……。
私が面白いと思ったのは、長い年月を通し編集者たちによって時代や読者層に合わせた「よりよいテクスト」にしようとさまざまな改竄が行われてきたサー・トマス・マロリーの『アーサー王の死』についての論考。
19世紀初頭、サー・ウォルター・スコットが、そういった変更の加えられる前の原典に基づくという意味での「よりよいテクスト」として再刊を目指すも、底本予定の17世紀に出版されたスタンズビー版の序文には、冒涜的な台詞や迷信深い文言に手を加えた旨が記されているため、さらに古い版、最初の印刷本であるキャクストン版との校合をしたいと考えます。しかし、それはもはやこの世から失われてしまったかと思われるほどなかなか見つかりません。ようやくキャクストン版の所有者が、ジャージー伯爵夫人だということが明らかになりますが、母親の駆け落ちのせいで祖父からこの書の相続人に指名されていた彼女が、この書を実質的に手にするのは1819年のこと。その2年前にロングマンという出版社からスコットと同時期に再刊を思い立ったロバート・サウジーの編集によって『アーサー王の死』は再刊されてしまいます。実はロングマンはもともと、ジョン・ルイ・ゴールドスミドという稀代の蔵書家にこの再刊を託していましたが、何とこの人物、人妻と出奔してしまいます。そのため、かねて出版の打診をしていたサウジーの出番となったのです。
序文では大幅な改竄が記されていましたが、それは検閲の厳しい時代に弾劾を避けるための工夫であって、実際のテクストにはそのような改竄はなかったそう。序文を信じ、よりよいテクストにこだわったために、スコットはこの書の編集者になり損ねてしまったとのこと。お気の毒さまです。
そして、イギリスで出版されたイタリアの旅行案内の変遷についての論考も、とても興味深かったです。「handbook」という言葉、観光旅行が大衆化した19世紀にマレーという出版社が出した旅行ガイドのタイトルとして使ったのが嚆矢なのだとか。頻繁な改訂による正確で新しい情報を提供する姿勢など、他の旅行ガイドとは一線を画するものであったらしく、多くの人に利用されていたよう。そのガイドでのひどい評価が功を奏し、宿のサービスの質があがることもあったそう。また、同時代の旅行記には、「貴方のマレーのガイドによると」など、マレーのハンドブックの利用を前提とする記述があるほどなのだとか。
この書で一番へぇぇっと、なったのが『ガリヴァー旅行記』についての論考。お恥ずかしながら『ガリヴァー旅行記』読んだことないのですが、ガリヴァーって日本にも滞在していたんですね。架空の国々ばかりかと思いきや、1709年5月末、ザモスキという港町に着き、エドにいって皇帝に拝謁し、ナンガサクへ向かってオランダの船に乗り、そこからヨーロッパへ帰ったとのこと。
他にも作中日本に関する言及がちらほら見られるそう。「日本から帰航途中のイングランドの商船」にのったり、日本人船長が指揮する海賊船が登場したり、ラグナグ国王と日本の皇帝の間に固い同盟が結ばれていたり。
それもびっくりですが、何よりびっくりさせられるのは、スウィフトが日本関係の文献から、「ストラルブドラグないしは、それ以外にも、この作品に登場する島々の描写の一部を借用」した可能性について論じられていることです。
といっても、そんなことを言うのは論者原田範行氏がお初というわけではなく、アメリカのウィリアム・A・エディが指摘しているそう。
日本が当時、かなり入念に長期にわたって国を閉ざし、ヨーロッパからの影響を排除していたことを考えれば、イギリスの『ガリヴァー旅行記』を日本の作家たちが模したというよりも、オランダの商人が日本の物語をヨーロッパに伝えたと考える方が妥当であろう。
日本には、和製ガリヴァー旅行記というべき『和荘兵衛』(1774年出版)なるものが存在し、一般的には『ガリヴァー旅行記』(1726年出版)に何らかの影響を受けて成立したものとされているよう。が、このように、『和荘兵衛』のような物語の原型がすでに日本にあり、それがおそらくオランダ経由でヨーロッパに伝わるという逆の可能性についての説もあるのです。
当時の日本とヨーロッパとの書物の往来については今だ未解明なのだそうですが、多くの挿絵や古地図を含んだ『日本三才図会』だとか、「小人島」や「長人島」の書き込まれた17世紀半ばに作られた「万国総図」や「万国総界図」といった、日本語を解する必要のない視覚的なものを、駐オランダ大使を務めたオランダと関わりの深いサー・ウイリアム・テンプルの秘書をしていたスウィフトが目にし、インスピレーションを受けた可能性があるやもとのこと。
ちょっと、驚きじゃないですか??